灰と麦と夜明けのパン

第30話

小さな村のはずれに、今日は祝宴の旗が立っていた。

若いふたりの結婚式だ。

新郎は木こりの三男坊、新婦は織物の職人の娘。

会場にはささやかな飾りつけと、手作りの料理、そして――

「……あったあった。」

村の少年が嬉しそうに指差したのは、木の箱に丁寧に並べられた“ちぎりパン”。

ふっくらとして、焼き色はやや強め。

外側にほんの少しだけ、薬草の香りが漂う。

「やっぱり、これがないと始まらないよな！」

「ねえ、なんで結婚式にパンを配るんだっけ？」

少女が聞くと、少年は首をかしげた。

「……知らない。昔っからそうだから」

「最初は神様に捧げるためだったって言ってた人もいたよ？」

「でも今は、食べるためのものだしなあ。」

「私の姉ちゃんのときは、隣の家のおばさんが焼いてくれたって。」

「うちは叔父さんだった。新郎新婦が焼くのは珍しいよなー。忙しいからかな？」

ふたりは楽しげに話しながら、それぞれパンをひとかけら受け取った。

「……あったかいね。」

「なんか、泣けてくる味だな。」

式の最中、新郎新婦がそっと礼を述べる。

「このパンは、村の皆さんが交代で焼いてくれました。」

「どれが誰のかは、もうわかりません。でも、全部が“私たちの”です。」

そこに理由はなかった。

起源も、記録も、正式な名前すら。

ただ、誰かが誰かのために焼いた、ちぎって渡せるパンが、いつも式にあった。

“分火のパン”とは、もう誰も呼ばない。

ただの“結婚式のパン”。

でもその香りだけが、何世代にも渡って変わらずにそこにあった。

火の記憶は、言葉に頼らずとも残っていた。

そして今日もまた、誰かがそれを焼いている。

焼いた者の名はなくとも――
“誰かの門出に、何かを渡したい”という気持ちだけが、あたたかく、確かに残っていた。