灰と麦と夜明けのパン

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第34話

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城下にある古い貴族屋敷。

その門の前で、少年が頭を下げた。

「……本当に、俺でいいのか?」

「お前が必要だ。パン焼きの腕も、人を見て育てる力も。うちは“名前”ばかり多くて、“火”が足りなかった。」

その貴族は、長らく家名だけが残る“空の家”だった。

しかし、少年が入ってから変わった。

厨房にパン窯が据えられ、使用人たちの朝が変わり、客人の表情が和らいだ。

何より、当主の病床に運ばれたパンの湯気が、何年ぶりかの笑みを生んだという。

「……おまえが“家”を焼き直したんだよ。うちに、火を入れてくれた。」

少年は、ただ黙って深く頭を下げた。

――一方、別の街。

騎士団の前で、年若い剣士が静かに一礼した。

「名を呼ばれることのなかった私が、今ここに立つのは、“火と粉”の教えがあったからです。」

その青年の手には剣ではなく、鉄板で焼かれた小さなパンが握られていた。

「かつて私は“物”でした。名前も、意思もなく。ただ命令に従い、働くだけの存在でした。」

「でも、あの工房で、“焼く”ことを知った。焦がすことも、ふくらませることも、待つことも……それが、人を知ることだった。」

「今は、“この国を守るため”に剣を抜きます。」

「でも、心の奥では、ずっと――“誰かのパンを守るために”戦っているのです。」

その言葉に、重臣のひとりが呟いた。

「……誇りとは、過去ではなく、今ある手の温度なのだな。」

彼の名は、いつしか“火守の騎士”と呼ばれるようになった。

パン焼きの少年は、貴族の家名に火を灯し――
奴隷だった少年は、騎士の名に火を宿した。

それは、夜風の工房から生まれた“火”のひとつの形だった。

名を出さず、出所を語らず。

でも、彼らの焼くパンだけが、静かに過去と未来をつないでいた。
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