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第1話「見えてはいけないもの」
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「エイデン、今度の土曜どう? 例の廃病院、みんなで行こうぜ。ジェシカも来るってさ」
その誘いは、放課後の教室でふとした拍子に落ちてきた。
スティーブンの声は、まるでいつもの軽い冗談みたいなノリだ。けれど僕の耳には、薄いガラスを指でひっかくような、不快な音に聞こえる。
「廃病院って……あの郊外の?」
「そう、それ。あの『ハートマン記念医療センター』。二十年前に閉鎖されたきり、誰も使ってない病院さ。夜になると窓から誰かがこっち見てるって噂もあるし、最高だろ?」
スティーブンの目は期待と好奇心でぎらぎらしている。彼は昔から、肝試しとかオカルトが大好きなのだ。びびる友人たちを見て笑うようなタイプだ。
けれど僕は違う。
「……遠慮しとくよ」
迷いなく答える。スティーブンが言い終える前から、もう心は決まっていた。
僕の返事を聞いてほんの少しだけ顔をしかめる。
だよな。分かっていた。こうなるって分かっていた。
「はっ、マジで? お前、またかよ。こういうの、いつも断るよな。お化け嫌いか?」
「べつに。科学的に証明されてないものに興味がないだけ」
嘘だ。そんなの、本当の理由じゃない。
でも本当のことなんて、言えるはずがなかった。
きっかけは小さい頃に見た、説明のつかないもの。夜、天井の隅に浮かんでいた何か。誰に話しても信じてもらえず、母にさえ心配されて病院に連れて行かれた。あのときの孤独と恐怖が、いまだに僕を縛っている。
それ以来、見えたものはすべて、なかったことにしてきた。
「ふーん……ま、無理にとは言わねーけどさ。ほんとにもったいないぜ? お前が来れば、みんなビビらなくてすむのに」
スティーブンはそう言って笑ったが、その瞳にはわずかな蔑みがにじんでいた。彼は悪いやつじゃない。ただ、僕とは根本的に見ているものが違うんだ。
放課後の校庭を歩きながら、夕焼けがアスファルトを染めるのをぼんやりと眺めた。
視界の隅に、旧校舎の窓が見える。
一瞬——本当に一瞬だけ、誰かがそこに立っているように見えた。
瞬きをしてもう一度見ると、そこには何もいない。
「……気のせい…だよな」
僕は自分にそう言い聞かせながら、歩くスピードを少しだけ速めた。
☆☆☆
コンビニの白い蛍光灯が、夜の静寂を切り裂いていた。
冷蔵ケースの前で立ち止まり、僕は牛乳と食パンを手に取る。いつもの買い物。そんな瞬間にも胸の奥には、不穏なざわめきが微かに残っていた。
店を出ると、空はすっかり暗く、街灯がポツポツと住宅街を照らしていた。
時刻は午後十一時過ぎ。家まで歩いて十分ほどの道を、僕は黙々と進む。歩くたびに靴音がアスファルトを打ち、冷たい夜気が肌を撫でる。
何かが、変わった。
昨日、あの教室でスティーブンの誘いを断ったときから、世界が少しだけ歪んで見える。空気の密度が変わったような、音の響きが遠くなったような——言葉にできない違和感が、僕の背中をそっと押していた。
「考えすぎだよな」
自分にそう言い聞かせるが、足取りは次第に速くなる。
街灯の切れた路地に差し掛かった瞬間、突然——
世界が、爆ぜた。
真っ白な閃光。音もなく、ただ目の前の空間が破裂するように光り始めた。世界が割れるような感覚に襲われる。
目を開けていられないほどの眩しさ。脳にまで突き刺さるような感覚に、思わずその場に崩れ落ちた。
「うわあああっ!」
叫ぶ声すら、光の奔流に吸い込まれていく。
視界がぐるぐると回転し、足元が崩れ落ちる。重力が消え、世界が自分を拒絶しているような感覚。
次の瞬間——
落ちた。
気がついたとき、僕は湿った草の上に倒れていた。
肌に触れる空気は、どこか馴染みのない香りを含んでいる。草…いや、森の匂い。しかし、それは僕の知っている森とはまるで違った。
「……どこだ、ここ……」
起き上がり、あたりを見回す。
木々は背が高く、葉は淡く発光している。地面には水晶のような鉱石が突き出し、宙には蛍のような光の粒子が漂っていた。
全体的に、どこか現実感に欠ける美しさ。だが、僕の手が触れた土の湿り気は、リアル。
そして——
夜空を見上げて、息を呑んだ。
月が、二つ。
一つは見慣れている銀の満月。もう一つは、小さくて青白い球体。まるで、地球が夜空に浮かんでいるかのような奇妙な光景だった。
「嘘……だろ……?」
喉が渇き、言葉がかすれる。
夢の中のようで現実味がない。でも、この場所の匂いも、感触も、本物だ。リアルすぎる。
「……こんなこと、現実にあるわけが……」
震える声で呟きながら、僕は頬を叩いた。パチン。痛い。もう一度。パチン。やっぱり痛い。
「お願いだ、起きてくれ、夢であってくれ……」
でも、目を開けても景色は変わらなかった。光る森。二つの月。得体の知れない静寂。
全身の力が抜け、僕はその場に座り込んだ。吐く息が白く浮かび、しばらく風だけが木々を揺らしていた。
その時だった。
木の陰に、何かがいた。
見間違いか…?
目を逸らしても何度も目に入る。
それはゆっくりと動いた。まるでこちらを観察しているかのように。
僕はそれを振り払うように森の中を進んだ。
森の中を歩き始めて、どれくらい経っただろう。
暗くも明るくもない、不思議な光が森を満たしているせいで、時間の感覚が狂っている。足元の草は濡れていて、時おり小さな水晶片を踏んでしまい、足裏に鈍い痛みが走る。
目的もなく、ただ恐怖から逃れるように歩き続けていた。
「誰か……誰かいませんか……?」
かすれた声が森に吸い込まれていく。
もちろん返事はない。風も止まり、鳥の声も聞こえない。ただ、自分の息遣いだけが妙に響いて聞こえる。まるでこの世界に自分だけが存在しているような錯覚すら覚えた。
そのとき——
視界の端で、何かが動いた。
振り返るが何もいない。
けれど、その何もなさが、逆に恐怖を加速させる。
「……気のせい。気のせいだ……」
自分にそう言い聞かせながら、再び歩き出す。
だが——また動いた。
今度ははっきりと、木の幹の影から誰かがこちらを覗いていた。
足を止めた。視線を凝らすが影はもうなくなっていた。
頭が混乱し始め、理性が崩れた。感情が先に走りだす。
「誰かいるのか……? 出てこいよ……!」
声が震える。手のひらには冷たい汗。
目を閉じて深呼吸しようとした瞬間——
そこに現れた。…いや、最初からいたのか…?
一人の老人だった。白髪に長い髭。くたびれた茶色い服をまとい、静かにこちらを見つめている。
だが——
身体が透けていた。
背後の木々が、彼の身体が透けているのを証明している。
「…………っ」
言葉が出なかった。足がすくみ、心臓が喉から飛び出しそうになる。
そんな僕の様子を見て、彼は、笑った。
穏やかで、どこか哀しみを帯びた微笑みだった。
「……お若いの」
その声は、耳ではなく、脳に直接響いてくるような太い声だ。
「私が……見えるのですか?」
言われた瞬間、背筋に氷の爪が這い上がった。
見間違いなんかじゃない。
これは——これは……幽霊だ!
「う、うわああああああっ!!」
叫びながら走った。理屈も思考もなく、ただ逃げたいという本能だけで。
木の枝が頬をかすめ、足がもつれ、息が上がる。
でも、後ろから声が追いかけてくる。
「待ってください! あなたは生きているのに……なぜ私が見えるのですか……?」
振り返らない。振り返ったらだめだ。
だが、逃げても逃げても、周囲に透けた人影が増えていく。
女の子。軍服の男。老女。病衣を着た青年。時代も服も違う彼らが、透けた身体で僕を見つめていた。
「な、なんでこんなに……っ」
呆然と立ち尽くした瞬間、声が連鎖した。
「生者だ……」
「こちらを見ている……!」
「見えるぞ……本当に見えている……!」
その声に呼応するように、森の中に次々と霊たちが現れた。
数十、数百、いや、それ以上。
気づけば、僕は透明な死者たちの中心に立っていた。
「お願いです、聞いてください、私の話を——!」
「私はあの戦で——!」
「私は三百年前の——!」
断片的な人生が、渦となって僕の脳に流れ込んできた。
耳を塞いでも意味がなかった。声は耳ではなく、意識に直接届いているのだから。
「やめろ、やめてくれ!!」
耐えきれず地面に崩れ落ちた。
涙が滲む。全身が震える。恐怖で、身体が言うことをきかない。
何が起きているのか、分からない。
でも一つだけ分かることがあった。
僕が、ずっと否定し続けてきた霊の存在が、今、僕の前で否応なく現実になっている。
そして最悪なのは——
もう、これをなかったことにはできない、ということだった。
☆☆☆
声の奔流が止まったのは、突如として森の奥から低い唸り声が聞こえてきたからだった。
ズズ……グルルルル……
獣のうなり声。地の底から響くような、喉の奥で濁った音が、夜の森に広がっていく。
霊たちの囁きがぴたりと止まり、ざわめきの代わりに、奇妙な沈黙が辺りを包んだ。
「なんだ……?」
僕が顔を上げたその先——草むらの影が揺れ、何かが這い出してきた。
それは、狼だった。
いや、狼のような何かだった。
通常の狼よりも一回り以上大きく、黒光りする毛並みは不自然な艶を帯びている。口からは異様に長い牙が覗き、真紅の目がまっすぐ僕を見据えていた。
「…………っ!」
呼吸が止まる。喉が塞がれ、心臓が凍りつく。
化け物だ。こんな生き物、現実のどこにも存在しない。
魔獣——それしか形容しようがなかった。
それは地を這うように低く姿勢を落とし、唸りながら一歩ずつ僕に近づいてくる。まるで、今すぐにでも飛びかかってきそうな、狩人の動き。
「う、動けない……」
足が硬直し、膝が笑う。
霊たちはまだ周囲にいる。だが彼らは、なぜか恐れていない。いや、むしろその様子を興味深そうに観察しているようにすら見える。
「危険ですね」
霊の一人——穏やかな表情の中年女性がぽつりと呟いた。
「……あの魔獣は、人を喰らいますよ」
さらりと言ったその一言が、血の気を引かせる。
喰われる?
この世界には、死者の霊だけでなく、人を襲う怪物まで存在しているのか。
僕の頭が白くなりかけたとき、その女性が不思議な動きを見せた。
彼女は、ふっと片手を空に伸ばす。
何かを掴むような、そんな仕草だった。
次の瞬間——
手のひらに、火の玉が現れた。
「……は?」
唖然とした僕の視界で、炎はゆらりと揺れ、彼女の指の先に留まっていた。
それは、完全に実体を持った火だった。明るく、熱を感じさせる本物の炎。
魔獣もそれに気づき、足を止めた。わずかに頭を傾け、警戒するような動きを見せる。
そして、女性は迷いなくその火の玉を投げつけた。
ドンッ!
火球が地面で爆発し、魔獣の足元を派手に焼き払った。黒煙が立ちこめ、爆風に木の葉が舞い上がる。
魔獣はたまらず吠え声を上げ、しっぽを巻いて森の奥へと逃げていった。
「ふぅ……よかった」
女性は、自分の手のひらをじっと見つめていた。まるで、今の出来事が自分でも信じられないかのように。
「……今の、何だったんですか?」
僕はやっとの思いで声を絞り出す。
「分かりません。ですが、なぜか火出せるような気がして…そして、それ掴めたのです。まるで、自然と手に馴染むような……そんな感覚でした」
その言葉に、他の霊たちも色めき立った。
「私もやってみるか」
老人の霊が両手を突き出すと、今度は空中に水の塊が現れた。
重力を無視して宙に浮かぶ水球。ありえない光景だ。
「私は……土が掴めます!」
「風の流れが見えるようになった!」
「光だ、光が……!」
霊たちが次々と元素を操り始める。
火、水、風、土、光——そのすべてが周囲で踊り、弾け、炸裂した。
まるで、突如始まった幻想的なサーカス。
でも、これを他の人が見たらどう思うだろう?
霊たちは普通の人には見えない。ということは——彼らの操る炎や水だけが宙に浮かび、投げられたように見える?
つまり、僕がやったように見えるのでは?
その可能性に思い至った瞬間、冷や汗が背中を伝った。
「……もしかして、今とんでもないことに巻き込まれてる……?」
思わずそう呟いていた。
☆☆☆
森の中で繰り広げられる霊たちの魔法ショーは、もはや現実感すら薄れていた。
彼らは笑いながら火の玉を投げ、水を操り、風を巻き起こしていた。僕の周囲で、透明な存在たちが次々と自然の力を手にし、それを自在に操る様子は、ファンタジー映画の一場面そのものだった。
だが——それは僕にだけ見えているという恐ろしい事実を、否応なく突きつけてくる。
「……他の人から見たら、これ全部、僕がやってるように見えるんだよな…」
もし僕がこのまま街に入れば——
空中に浮かぶ火や水が、誰もいない場所から出現するように見える。
だが、人々の目には僕が魔法を使っているように映るのだろう。
「ちょっと待って……どういうこと……なんだこれ……!」
頭を抱えたそのときだった。
突然、空気が震えた。
そして——
『固有能力:亡者同行(モウジャドウコウ)』
頭の中に直接、低く響くような声が流れ込んできた。
「……今、何か聞こえたよな?」
あたりを見回すが、霊たちは無反応だ。
それどころか、どこか神妙な顔をして僕を見つめている。
「それは、この世界があなたに与えた能力です」
先ほど火の玉を投げた中年女性が、やわらかい声で言った。
「能力?」
「ええ。この世界の住人は皆、それぞれに固有能力を持っています。あなたのそれは、亡者同行……つまり、私たちと共に行動する力です」
「……冗談、だろ?」
「いえ、真実です。あなたがこの世界に来た瞬間から、その力は宿りました」
僕は、呆然としながら自分の手のひらを見つめた。
「霊と……一緒に行動する?」
それはあまりにも皮肉だった。
僕は幽霊が嫌いだ。誰よりも、それを否定してきた。怖くて、認めたら壊れてしまう気がして、見えないフリをして生きてきた。
なのに——
なぜ、僕の能力がこれなんだ?
「……悪い冗談かよ……」
空を仰ぐ。
そこには相変わらず、二つの月が浮かんでいた。
どこか現実味のない、青白く光る異世界の空。
でも、風は本物だ。
そして霊たちも、確かにそこにいる。
「……帰りたい」
呟いたその声は、誰にも届かなかった。
「でも、帰り方が分からないなら……」
足元に落ちた木の実を踏み、僕はゆっくりと立ち上がった。
視界の先、森の奥に小さな灯りが見えた。
「……街、か?」
点々と並ぶ光。誰かが生活している気配。
あそこに行けば、この世界のことが何かわかるかもしれない。
そして、元の世界に帰る手がかりも——あるいは。
「行こう」
声に出すと、不思議と覚悟が芽生えた。
後ろを振り返ると、数十体の霊たちがこちらを見つめている。
無言で、しかし確かな期待を湛えた目。
彼らは、もう僕から離れるつもりはないのだろう。
「……分かったよ。とりあえず、一緒に来てくれ」
そう言った途端、霊たちは嬉しそうに微笑み、静かに僕の後ろに集まってきた。
異世界の地で、幽霊を引き連れた、僕の旅が始まった。
その誘いは、放課後の教室でふとした拍子に落ちてきた。
スティーブンの声は、まるでいつもの軽い冗談みたいなノリだ。けれど僕の耳には、薄いガラスを指でひっかくような、不快な音に聞こえる。
「廃病院って……あの郊外の?」
「そう、それ。あの『ハートマン記念医療センター』。二十年前に閉鎖されたきり、誰も使ってない病院さ。夜になると窓から誰かがこっち見てるって噂もあるし、最高だろ?」
スティーブンの目は期待と好奇心でぎらぎらしている。彼は昔から、肝試しとかオカルトが大好きなのだ。びびる友人たちを見て笑うようなタイプだ。
けれど僕は違う。
「……遠慮しとくよ」
迷いなく答える。スティーブンが言い終える前から、もう心は決まっていた。
僕の返事を聞いてほんの少しだけ顔をしかめる。
だよな。分かっていた。こうなるって分かっていた。
「はっ、マジで? お前、またかよ。こういうの、いつも断るよな。お化け嫌いか?」
「べつに。科学的に証明されてないものに興味がないだけ」
嘘だ。そんなの、本当の理由じゃない。
でも本当のことなんて、言えるはずがなかった。
きっかけは小さい頃に見た、説明のつかないもの。夜、天井の隅に浮かんでいた何か。誰に話しても信じてもらえず、母にさえ心配されて病院に連れて行かれた。あのときの孤独と恐怖が、いまだに僕を縛っている。
それ以来、見えたものはすべて、なかったことにしてきた。
「ふーん……ま、無理にとは言わねーけどさ。ほんとにもったいないぜ? お前が来れば、みんなビビらなくてすむのに」
スティーブンはそう言って笑ったが、その瞳にはわずかな蔑みがにじんでいた。彼は悪いやつじゃない。ただ、僕とは根本的に見ているものが違うんだ。
放課後の校庭を歩きながら、夕焼けがアスファルトを染めるのをぼんやりと眺めた。
視界の隅に、旧校舎の窓が見える。
一瞬——本当に一瞬だけ、誰かがそこに立っているように見えた。
瞬きをしてもう一度見ると、そこには何もいない。
「……気のせい…だよな」
僕は自分にそう言い聞かせながら、歩くスピードを少しだけ速めた。
☆☆☆
コンビニの白い蛍光灯が、夜の静寂を切り裂いていた。
冷蔵ケースの前で立ち止まり、僕は牛乳と食パンを手に取る。いつもの買い物。そんな瞬間にも胸の奥には、不穏なざわめきが微かに残っていた。
店を出ると、空はすっかり暗く、街灯がポツポツと住宅街を照らしていた。
時刻は午後十一時過ぎ。家まで歩いて十分ほどの道を、僕は黙々と進む。歩くたびに靴音がアスファルトを打ち、冷たい夜気が肌を撫でる。
何かが、変わった。
昨日、あの教室でスティーブンの誘いを断ったときから、世界が少しだけ歪んで見える。空気の密度が変わったような、音の響きが遠くなったような——言葉にできない違和感が、僕の背中をそっと押していた。
「考えすぎだよな」
自分にそう言い聞かせるが、足取りは次第に速くなる。
街灯の切れた路地に差し掛かった瞬間、突然——
世界が、爆ぜた。
真っ白な閃光。音もなく、ただ目の前の空間が破裂するように光り始めた。世界が割れるような感覚に襲われる。
目を開けていられないほどの眩しさ。脳にまで突き刺さるような感覚に、思わずその場に崩れ落ちた。
「うわあああっ!」
叫ぶ声すら、光の奔流に吸い込まれていく。
視界がぐるぐると回転し、足元が崩れ落ちる。重力が消え、世界が自分を拒絶しているような感覚。
次の瞬間——
落ちた。
気がついたとき、僕は湿った草の上に倒れていた。
肌に触れる空気は、どこか馴染みのない香りを含んでいる。草…いや、森の匂い。しかし、それは僕の知っている森とはまるで違った。
「……どこだ、ここ……」
起き上がり、あたりを見回す。
木々は背が高く、葉は淡く発光している。地面には水晶のような鉱石が突き出し、宙には蛍のような光の粒子が漂っていた。
全体的に、どこか現実感に欠ける美しさ。だが、僕の手が触れた土の湿り気は、リアル。
そして——
夜空を見上げて、息を呑んだ。
月が、二つ。
一つは見慣れている銀の満月。もう一つは、小さくて青白い球体。まるで、地球が夜空に浮かんでいるかのような奇妙な光景だった。
「嘘……だろ……?」
喉が渇き、言葉がかすれる。
夢の中のようで現実味がない。でも、この場所の匂いも、感触も、本物だ。リアルすぎる。
「……こんなこと、現実にあるわけが……」
震える声で呟きながら、僕は頬を叩いた。パチン。痛い。もう一度。パチン。やっぱり痛い。
「お願いだ、起きてくれ、夢であってくれ……」
でも、目を開けても景色は変わらなかった。光る森。二つの月。得体の知れない静寂。
全身の力が抜け、僕はその場に座り込んだ。吐く息が白く浮かび、しばらく風だけが木々を揺らしていた。
その時だった。
木の陰に、何かがいた。
見間違いか…?
目を逸らしても何度も目に入る。
それはゆっくりと動いた。まるでこちらを観察しているかのように。
僕はそれを振り払うように森の中を進んだ。
森の中を歩き始めて、どれくらい経っただろう。
暗くも明るくもない、不思議な光が森を満たしているせいで、時間の感覚が狂っている。足元の草は濡れていて、時おり小さな水晶片を踏んでしまい、足裏に鈍い痛みが走る。
目的もなく、ただ恐怖から逃れるように歩き続けていた。
「誰か……誰かいませんか……?」
かすれた声が森に吸い込まれていく。
もちろん返事はない。風も止まり、鳥の声も聞こえない。ただ、自分の息遣いだけが妙に響いて聞こえる。まるでこの世界に自分だけが存在しているような錯覚すら覚えた。
そのとき——
視界の端で、何かが動いた。
振り返るが何もいない。
けれど、その何もなさが、逆に恐怖を加速させる。
「……気のせい。気のせいだ……」
自分にそう言い聞かせながら、再び歩き出す。
だが——また動いた。
今度ははっきりと、木の幹の影から誰かがこちらを覗いていた。
足を止めた。視線を凝らすが影はもうなくなっていた。
頭が混乱し始め、理性が崩れた。感情が先に走りだす。
「誰かいるのか……? 出てこいよ……!」
声が震える。手のひらには冷たい汗。
目を閉じて深呼吸しようとした瞬間——
そこに現れた。…いや、最初からいたのか…?
一人の老人だった。白髪に長い髭。くたびれた茶色い服をまとい、静かにこちらを見つめている。
だが——
身体が透けていた。
背後の木々が、彼の身体が透けているのを証明している。
「…………っ」
言葉が出なかった。足がすくみ、心臓が喉から飛び出しそうになる。
そんな僕の様子を見て、彼は、笑った。
穏やかで、どこか哀しみを帯びた微笑みだった。
「……お若いの」
その声は、耳ではなく、脳に直接響いてくるような太い声だ。
「私が……見えるのですか?」
言われた瞬間、背筋に氷の爪が這い上がった。
見間違いなんかじゃない。
これは——これは……幽霊だ!
「う、うわああああああっ!!」
叫びながら走った。理屈も思考もなく、ただ逃げたいという本能だけで。
木の枝が頬をかすめ、足がもつれ、息が上がる。
でも、後ろから声が追いかけてくる。
「待ってください! あなたは生きているのに……なぜ私が見えるのですか……?」
振り返らない。振り返ったらだめだ。
だが、逃げても逃げても、周囲に透けた人影が増えていく。
女の子。軍服の男。老女。病衣を着た青年。時代も服も違う彼らが、透けた身体で僕を見つめていた。
「な、なんでこんなに……っ」
呆然と立ち尽くした瞬間、声が連鎖した。
「生者だ……」
「こちらを見ている……!」
「見えるぞ……本当に見えている……!」
その声に呼応するように、森の中に次々と霊たちが現れた。
数十、数百、いや、それ以上。
気づけば、僕は透明な死者たちの中心に立っていた。
「お願いです、聞いてください、私の話を——!」
「私はあの戦で——!」
「私は三百年前の——!」
断片的な人生が、渦となって僕の脳に流れ込んできた。
耳を塞いでも意味がなかった。声は耳ではなく、意識に直接届いているのだから。
「やめろ、やめてくれ!!」
耐えきれず地面に崩れ落ちた。
涙が滲む。全身が震える。恐怖で、身体が言うことをきかない。
何が起きているのか、分からない。
でも一つだけ分かることがあった。
僕が、ずっと否定し続けてきた霊の存在が、今、僕の前で否応なく現実になっている。
そして最悪なのは——
もう、これをなかったことにはできない、ということだった。
☆☆☆
声の奔流が止まったのは、突如として森の奥から低い唸り声が聞こえてきたからだった。
ズズ……グルルルル……
獣のうなり声。地の底から響くような、喉の奥で濁った音が、夜の森に広がっていく。
霊たちの囁きがぴたりと止まり、ざわめきの代わりに、奇妙な沈黙が辺りを包んだ。
「なんだ……?」
僕が顔を上げたその先——草むらの影が揺れ、何かが這い出してきた。
それは、狼だった。
いや、狼のような何かだった。
通常の狼よりも一回り以上大きく、黒光りする毛並みは不自然な艶を帯びている。口からは異様に長い牙が覗き、真紅の目がまっすぐ僕を見据えていた。
「…………っ!」
呼吸が止まる。喉が塞がれ、心臓が凍りつく。
化け物だ。こんな生き物、現実のどこにも存在しない。
魔獣——それしか形容しようがなかった。
それは地を這うように低く姿勢を落とし、唸りながら一歩ずつ僕に近づいてくる。まるで、今すぐにでも飛びかかってきそうな、狩人の動き。
「う、動けない……」
足が硬直し、膝が笑う。
霊たちはまだ周囲にいる。だが彼らは、なぜか恐れていない。いや、むしろその様子を興味深そうに観察しているようにすら見える。
「危険ですね」
霊の一人——穏やかな表情の中年女性がぽつりと呟いた。
「……あの魔獣は、人を喰らいますよ」
さらりと言ったその一言が、血の気を引かせる。
喰われる?
この世界には、死者の霊だけでなく、人を襲う怪物まで存在しているのか。
僕の頭が白くなりかけたとき、その女性が不思議な動きを見せた。
彼女は、ふっと片手を空に伸ばす。
何かを掴むような、そんな仕草だった。
次の瞬間——
手のひらに、火の玉が現れた。
「……は?」
唖然とした僕の視界で、炎はゆらりと揺れ、彼女の指の先に留まっていた。
それは、完全に実体を持った火だった。明るく、熱を感じさせる本物の炎。
魔獣もそれに気づき、足を止めた。わずかに頭を傾け、警戒するような動きを見せる。
そして、女性は迷いなくその火の玉を投げつけた。
ドンッ!
火球が地面で爆発し、魔獣の足元を派手に焼き払った。黒煙が立ちこめ、爆風に木の葉が舞い上がる。
魔獣はたまらず吠え声を上げ、しっぽを巻いて森の奥へと逃げていった。
「ふぅ……よかった」
女性は、自分の手のひらをじっと見つめていた。まるで、今の出来事が自分でも信じられないかのように。
「……今の、何だったんですか?」
僕はやっとの思いで声を絞り出す。
「分かりません。ですが、なぜか火出せるような気がして…そして、それ掴めたのです。まるで、自然と手に馴染むような……そんな感覚でした」
その言葉に、他の霊たちも色めき立った。
「私もやってみるか」
老人の霊が両手を突き出すと、今度は空中に水の塊が現れた。
重力を無視して宙に浮かぶ水球。ありえない光景だ。
「私は……土が掴めます!」
「風の流れが見えるようになった!」
「光だ、光が……!」
霊たちが次々と元素を操り始める。
火、水、風、土、光——そのすべてが周囲で踊り、弾け、炸裂した。
まるで、突如始まった幻想的なサーカス。
でも、これを他の人が見たらどう思うだろう?
霊たちは普通の人には見えない。ということは——彼らの操る炎や水だけが宙に浮かび、投げられたように見える?
つまり、僕がやったように見えるのでは?
その可能性に思い至った瞬間、冷や汗が背中を伝った。
「……もしかして、今とんでもないことに巻き込まれてる……?」
思わずそう呟いていた。
☆☆☆
森の中で繰り広げられる霊たちの魔法ショーは、もはや現実感すら薄れていた。
彼らは笑いながら火の玉を投げ、水を操り、風を巻き起こしていた。僕の周囲で、透明な存在たちが次々と自然の力を手にし、それを自在に操る様子は、ファンタジー映画の一場面そのものだった。
だが——それは僕にだけ見えているという恐ろしい事実を、否応なく突きつけてくる。
「……他の人から見たら、これ全部、僕がやってるように見えるんだよな…」
もし僕がこのまま街に入れば——
空中に浮かぶ火や水が、誰もいない場所から出現するように見える。
だが、人々の目には僕が魔法を使っているように映るのだろう。
「ちょっと待って……どういうこと……なんだこれ……!」
頭を抱えたそのときだった。
突然、空気が震えた。
そして——
『固有能力:亡者同行(モウジャドウコウ)』
頭の中に直接、低く響くような声が流れ込んできた。
「……今、何か聞こえたよな?」
あたりを見回すが、霊たちは無反応だ。
それどころか、どこか神妙な顔をして僕を見つめている。
「それは、この世界があなたに与えた能力です」
先ほど火の玉を投げた中年女性が、やわらかい声で言った。
「能力?」
「ええ。この世界の住人は皆、それぞれに固有能力を持っています。あなたのそれは、亡者同行……つまり、私たちと共に行動する力です」
「……冗談、だろ?」
「いえ、真実です。あなたがこの世界に来た瞬間から、その力は宿りました」
僕は、呆然としながら自分の手のひらを見つめた。
「霊と……一緒に行動する?」
それはあまりにも皮肉だった。
僕は幽霊が嫌いだ。誰よりも、それを否定してきた。怖くて、認めたら壊れてしまう気がして、見えないフリをして生きてきた。
なのに——
なぜ、僕の能力がこれなんだ?
「……悪い冗談かよ……」
空を仰ぐ。
そこには相変わらず、二つの月が浮かんでいた。
どこか現実味のない、青白く光る異世界の空。
でも、風は本物だ。
そして霊たちも、確かにそこにいる。
「……帰りたい」
呟いたその声は、誰にも届かなかった。
「でも、帰り方が分からないなら……」
足元に落ちた木の実を踏み、僕はゆっくりと立ち上がった。
視界の先、森の奥に小さな灯りが見えた。
「……街、か?」
点々と並ぶ光。誰かが生活している気配。
あそこに行けば、この世界のことが何かわかるかもしれない。
そして、元の世界に帰る手がかりも——あるいは。
「行こう」
声に出すと、不思議と覚悟が芽生えた。
後ろを振り返ると、数十体の霊たちがこちらを見つめている。
無言で、しかし確かな期待を湛えた目。
彼らは、もう僕から離れるつもりはないのだろう。
「……分かったよ。とりあえず、一緒に来てくれ」
そう言った途端、霊たちは嬉しそうに微笑み、静かに僕の後ろに集まってきた。
異世界の地で、幽霊を引き連れた、僕の旅が始まった。
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