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8.翌朝

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翌朝、自分の腕がボスボスと叩かれる感覚で目を覚ました。
まだ、眠い…と思いながら、目を開けると先生が怒った顔でこっちを覗き込んでいる。まだ覚醒しきってない頭でそういや先生が昨日泊まったんだった…ってことを思い出した。
先生は俺の肌に直接触れないよう、わざわざ布団から出ている二の腕とか肩ではなく、タオルケットにくるまれいる前腕の部分を何度も叩いていた。

「…センセ、どうしたの…?今、何時?」
「…今すぐ起きろ」

氷みたいに冷たい声でそう言われ、「ヤベー、朝からキレてる」って思って、一瞬で目が覚めた。
先生は、昨日と同じスーツインナー用の下着とスウェットを身に着けた状態で、ソファーに寝ている俺の側に膝をつき、座っていた。

「…先生、ダイジョブ?昨日具合悪そうだったけど…ちゃんと眠れた?どこも痛くない?」

俺がそう尋ねると、先生の顔色がサッと変わって唇を戦慄かせた。
怒りなのかショックなのかわからないけど、すごい動揺してるみたいだった。

「先生…?」
「……どこまでしたんだ、俺は」
「はあ…?」

何の話か理解出来なかった俺は、「どのくらい飲んだのか」と聞かれていると解釈して「いやー、ちょっと口をつけたぐらいだよ。」と答えた。
すると、先生は、ぐっと項垂れて、頭を抱えた。

「…口で?口でしたのか?」
「そりゃそうでしょ?ほかにどうやるの?」
「……いや、知らん」
「でも、先生、いつもとなんか雰囲気違ったし」
「………」
「ビックリしたよ。でも、やっぱり全部飲むのは難しかったねー」
「の、飲んだ…?飲ませたのか?」

珍しく先生がどもったので、やっぱりまだ酔っているのかな?と思い、俺は「飲ませたって…一応先生も納得してたじゃん。あ、もしかして初めてだったの?ひょっとして苦かった?」と先生を気遣った。
なのに、先生の顔色はますます悪くなって、なんかもう泣きそうになっていた。
先生のそういう顔を初めてみたから、ちょっと引いた。
なにせ、あくびをしても涙が出ない、というかあくびすらしないのが先生なのだから。

「え、大丈夫?」
「口で、ってことは最後まではしてない、のか」
「最後…?」

まだわけわかんないこと言ってるし、一晩たってもアルコール残ってたとしたら、分解速度遅すぎるけど大丈夫なんだろうか。
俺んちアルコールチェッカーないし、先生は帰れるのか?俺、これからバイトなんですけど…と思いながらダラダラと起き上がった。
ソファーで寝たからあんま眠った気がしなかった。

「…先生、昨日眠れなかったの?まだ酔ってるよね。なんか、さっきから話噛み合ってないし…」

先生は、俺が体を起こしたことに、ビクッと反応して驚いていた。
いつも、どこかしらからヌッて現れて生徒とっ捕まえてビビらせまくっていた先生が驚くことがあるのか、と思った。

「…俺は、朝起きたら、何も着ていなかった…。下着も」
「…今、着てんじゃん」
「俺が自分で、着けたんだ!」

単に熱くて脱いだだけだろうに、何をそんなに怒っているんだろう、と俺は首を捻った。俺が脱がせたと思われてるのかもしれない。
あー、それでキレてるんだって、納得した俺は慌ててその誤解を解くことにした。

「いや、違うよ先生!先生が何も着てなかったのは自分で脱いだからで…俺は一旦脱がせたけど、ちゃんと着せたから!先生、なんも覚えてないの?」

俺の「脱がせた」という言葉に反応して、先生の顔色が、デパ地下で見たときのように白くなっていった。昨日泥酔したことによほどショックを受けているんだろうか。
べつにいつものロボットっぽい状態から、ほんのちょっと人間らしく戻ってたくらいなのに、気にしすぎじゃないだろうか。
完璧主義っぽいから、そういうの受け流せないのかな。

「…何も覚えてない。俺が…自分で服を脱いで、それでお前に、何をしたのかも…」

先生はそのまま俺に深々と頭を下げて「…申し訳ない」と謝罪した。
そのままソファーに突っ伏して、顔を上げようとしなかった。細い肩がワナワナと震えている。


「……は?え、何してんの?」
「俺は…元生徒のお前に、その…強制わいせつ…」

そこまで行ってから吐き気がしたのか、「うっ」と呻いた後口元を押さえている。
幽霊みたいな顔色だし、マジで吐くんじゃないかと思った俺はとりあえず先生の背中を擦った。手のひらにゴツゴツとしたものがあたって、薄い皮膚の下にすぐ背骨があるってわかった。
いつも真っ直ぐ伸びている先生の背中は、見た目よりもずっと小さくて薄くて頼りなかった。
先生は顔を上げて、じっと俺の方を見た。今にも死にそうな顔をしている。
俺は、キョーセーわいせつ…わいせつって難しい漢字書くやつだよな、ということを考えていた。
もしかして、この人、俺との間にそういうことがあったと誤解してるんじゃ…ってようやく気付いた。
その瞬間、昨日見た先生の白い肌とか下着のことを思い出して、急に顔が熱くなった。

「…いや、先生、大丈夫だから。ほんとに。なんもないから」
「…合意があったとしても、立場上こういうのは……高瀬、すまなかった」

…駄目だ、完璧バグってる。
その後、先生は俺と何かあったんだと完全に思い込んでるみたいで、ずっと顔色が悪かった。
東京に帰るという先生は、帰り際「必ず責任はとる。…また来る」と言って慌ただしく帰っていった。
…責任はとるってなに?なんの責任?というか、どっちが下だと思ってんだろう、といろいろ突っ込みたいところはあったけど、とりあえずほんとのところは何もないし、先生だってそのうち勘違いだって気づくだろうと思って、まあいいや、とバイトに行くことにした。





「ハヤトさん、何ボサッとしてるんですか。普段頭使ってないのに、手も動かさないなんて、今日何しにきたんスか。俺も忙しいんだから、あんま余計な手間かけさせないでくださいよ。ほんとに」といつも以上にキレてるリョーちゃんの声が聞こえてきて、俺は慌てて、服を畳む作業に戻った。
集中しようとしても、一枚畳み終わったらすぐぼんやりしてしまう俺にリョーちゃんは「はあ…」とクソでかいため息を吐いて、俺の十倍くらいのスピードでTシャツをガンガン畳んでいた。
リョーちゃんに怒られても、先生のことが頭から離れなかった。

先生の頭の中では、一体俺に何をしたと処理されているんだろう。
先生、マジメだし、本当に何も無かったってもっと強く言えばよかったんだろうか。
結局、連絡先も聞いてないので、誤解を解くこともできない。すごい悪いことしたかも、って今更ながら反省した。
ほんと、その場その場で「まあ、いっか」って簡単に考える自分の性格が嫌になった。



「リョーちゃん」

パソコンでメールチェックしながら、ネクタイをガラスケースに並べているリョーちゃんを呼んだ。

「はい?」
「…付き合ってない人から、責任とるとか言われたらどうする」
「はあ?…また、変な女でも引っかけたんですか?ハヤトさん、ほんっと好きですよね…」

リョーちゃんは露骨に俺を軽蔑する眼差しを送った後、「そんなの考えなくても決まってるでしょ」と吐き捨てるように言った。

「アッチがよければ、遊ぶ。そうじゃなきゃ捨てる。これだけっスよ」
「…いや、まだそういう関係とかじゃないから」
「はあ?じゃあ、次会う時抱いてさっさと決めりゃいいでしょ。バカだなあ、ハヤトさん」

リョーちゃんみたいな過激な人間に相談したのが間違いだった、って思う。
「俺、連絡先も知らない」と言ったら、「幻覚でも見たんじゃないっスか?」って鼻で笑われた。



それからちょうど一週間後だった。また先生が俺の所にやって来たのは。


    
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