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はじめまして(4)

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 漁港の駐車場に着いて、ユウイチさんと二人で車から降りた。
 磯の香りがして、ほんの少しベタベタする冷たい風が吹いている。

「ユウイチさんって、海で散歩したりする?」
「……全然。マナトは?」
「俺は子供の頃、父さんと妹と弟の四人で、海岸や防波堤を散歩したよ。べつに、ただ歩くだけで何が起きるわけでもないけど、楽しかった……」
「マナトとこうして歩いていると、そうだろうって、なんとなくわかるよ」
「ほんと? 良かった……」

 車を運転し始めた時は、ちょっとはしゃぎ過ぎてしまって失敗してしまったけど、今はすごく落ち着いていて静かな時間を過ごせている。
 ユウイチさんの横顔を眺めながら、「今日、帰ったらどうしますか? 家に行ってもいいですか?」と聞きたいなあ、と思った。
 だけど、明日も昼からバイトがある。早く寝た方がいいんだろうけど、今日みたいな穏やかで安心出来る日が終わってしまうのが寂しい。


 それに、ユウイチさんにはまだ言えていないけど、この前最後までした時……。よくわからないけどすごく気持ちがよかった。
 挿入されている場所……お尻全体がムズムズして、なんだかもどかしくて、初めての感覚に戸惑ってしまった。それからはずっと、あれはなんだったんだろう、あのまま続けていたらどうなっていたんだろう、と気になってモヤモヤしている。

 話すタイミングを何度も逃してしまっているし、今日帰って二人きりになったら聞いてみようかな、でも、そしたらそういう雰囲気になるかも……と考えていたら、この前初めて道具を使われたことまで思い出してしまった。


「マナト、なんだかボーッとしてるけど、運転に疲れたんじゃ……」
「えっ!? あの違います! 大丈夫です……ははは……」

 俺は昼からいったい何を考えているんだろう、と思うと、恥ずかしくてあまりユウイチさんの顔を見ることが出来なかった。
 外でこんなことを思い出すのは駄目だ。やっぱり、あとで二人きりになりたいと正直に言って、その時に話そう。
 明日の朝、起きられるようにアラームでもセットしようかな……、とブルゾンのポケットに手を突っ込んでから、スマートフォンを持っていないことに気が付いてしまった。

「あれ? スマホ、車に忘れて来ちゃったかも……」
「え? 大丈夫?」
「うん。たぶん、小物入れに入ってる……。取って来てもいいですか?」
「もちろん」

 ユウイチさんは一緒に車まで戻ろう、と言ってくれた。
 けれど、そう遠い距離でも無かったし、何よりもいろいろ……セックスのことを想像してソワソワしているのに気がつかれたくなかった。

「すぐ追い付くから、先に行っててもらえませんか?」とユウイチさんへお願いしてから、ロクに返事も待たないで逃げるようにして駐車場まで走った。
 探していたスマートフォンは普通に車内で見つかった。ユウイチさんを待たせてしまっているから、もう一回走って、とりあえず防波堤の方まで向かった。
 防波堤では、隣の人と一定の間隔を開けて釣りを静かに楽しんでいる人ばかりだった。
キョロキョロと左右を確認してから思う。

 ユウイチさんはどっちへ行ったんだろう?

 はぐれたんだ、とすぐに気が付いてユウイチさんに電話をしたけど出てくれなかった。
もしかしたら、「マナトはまだかなあ」と思っていて、俺が戻ってくるのをのんびり待っているのかもしれない。

 海に向かって右手側は、凹凸のある岩が積み上げられたテトラ帯の方へ行けるようだった。魚が身を隠しやすくて、餌になる貝や蟹がテトラにはたくさん住んでいる。魚を釣りたい人なら行くかもしれないけど、足場が悪くて危険だから、どう考えてもユウイチさんがそんな所へフラフラと歩いて行くとは思えなかった。
 
 だから、逆方向の海に向かって左手側、船揚場の方へ向かうことにした。
 ユウイチさん、ごめんなさい……と落ち込みながら歩いていても、釣りをしている人と目が合えば会釈をした。
 子供の頃、父さんに連れられてこうやって漁港を歩いている時もそうだった。父さんが「釣れますか?」といろいろな人に声をかけて、クーラーボックスの中にいる釣れた魚を見せてもらった。

 その時、海は不思議な場所だと子供ながらに感じていた。
 よっぽど集中しているとか、イライラしているとか、そういう人でない限りは「釣れてる?」の一言で、大人でも子供でもなんとなく仲良くなって話が出来る。

 本当だったら今頃はユウイチさんと、そういう話をしながら、のんびり散歩が出来ていたのになあ、と思うとため息が出そうだった。


 この漁港は釣り場として人気があるのか、歩いていると釣竿を持った大勢の人とすれ違う。けれど、一向にユウイチさんは見つからない。
 どうしよう、なんで電話に出てくれないんだろう、ユウイチさんもスマホを車に起きっぱなしとか? と途方に暮れていると、一人の男の人と目が合った。

 年齢は25歳か、もっと若いくらい。ノースフェイスの肩から胸の部分にブラックの切り替えが入ったベージュのダウンジャケットを着ていて、立った状態で釣りをしていた。
 細めの上がり眉が原因なのか、俺が側をウロウロしているのがよっぽど不愉快なのか、怒ったような表情でこっちを見ている。
 車に乗っているとしたら、ヴォクシーかヴェルファイアみたいな気の強そうな顔をしたミニバンが好きそう、車体は当然真っ黒のやつ……と勝手に思ってしまった。

 ここにはユウイチさんもいないし、邪魔をしちゃったみたいだから、早く離れよう、と思っていると、男の人が「こんにちは」と口を開いた。
 挨拶の仕方は丁寧で、気のいいお兄さん、という雰囲気だった。

「こ、こんにちは……」
「迷子?」
「えっ?」
「……釣竿も持ってないのに、こんなところで、一人でキョロキョロしてる」
「迷子というか……。一緒に来た人とはぐれちゃって」

 それは迷子と言わないのか? とお兄さんが笑うから、それもそうだな、と俺も笑った。ユウイチさんが見つからなくて不安になっていたから少しホッとした。


「……どっから来た?」

 自分の住んでる場所を言うと「わざわざ、こんな所まで?」とビックリされた。
 車で40分程度の距離だから、俺はそんなに遠いとは思っていなかったけど、一応「ドライブで来ました」と答えておいた。

「……この辺りに、こんなにいい顔をしてるヤツはいないから、さっきからずっと目立ってた」
「えっ? 俺ですか?」
「……なんだか、心細そうで、その、目付きが……」

 お兄さんは、何かを言おうとして躊躇った後、「……俺も探してやるよ。だから、そういう顔はするな」と釣竿をロッドケースにしまい始めた。


 お兄さんとテトラの方へ向かって歩いているけど、ユウイチさんはまだ見つからない。お兄さんは「タバコは? 喫煙所にいるんじゃないか?」と言ってきたけど、黙って首を横に振った。

「……家族と来たのか?」

 お兄さんからそう聞かれて、「……違います」と答えた。お兄さんは、「じゃあ、誰と?」とは聞かずに、納得しているのかしていないのか、よくわからない表情で頷くだけだった。

「……そうかよ」

 じゃあ、さっさと探すぞ、とお兄さんは歩く速度を上げた。

「待ってください、あの、本当にいいんですか? 手伝ってもらって……」
「べつに、俺も一緒に連れて来たヤツを探すから、そのついでだ」

 それを聞いて初めて、お兄さんがここへ一人で釣りをしに来たんじゃないということを俺は知った。

「お兄さんが探してるのはどんな人ですか?」

 お兄さんは、しばらくの間何かを考えた後「デカイ」とだけ呟いた。
 男の友達と一緒に来たということなんだろうか? と思いつつ「他には?」と俺が尋ねると、また黙り込んでしまった。

「……キレイだ」

 バツの悪そうな顔で吐き捨てるように言う様子からはかえって真剣さが感じられた。どうやら、お兄さんは探しているその人を本気でキレイだと思っているようだった。

「……名前は?」

 苗字と名前、どっちを教えるべきか迷ってから「マナト」と答えると、お兄さんは「マナト」と復唱した後、何も言わずに黙って俺の顔を見ていた。

「……なんですか?」
「……べつに。なんだか……いや、なんでもない。ただ、すぐ人に拐われそうだと思って」
「えっ? 俺?」
「さっきから、聞かれたことにはなんでもすぐ答える。……ホイホイ着いてくるし、懐っこい」

「良かったな、俺がいいヤツで」と言われたから、取り敢えず頷いておいた。
 ユウイチさんどこへ行ったんだろう、もう一度電話をかけてみようかな、とスマホを操作していると、急に左の二の腕をガシッと掴まれた。

「えっ! なんですか?」

 ビックリしてお兄さんの顔を見ると、お兄さんも俺の顔をじっと見ていた。俺と目が合うとすぐに視線がスッと逸らされる。

「……水溜まり、あるだろ。靴が汚れる」
「うわ、ほんとだ! 危なかったー……」

 足元に視線を落とすと、ほんの数センチ先の所に水溜まりが出来ていた。
 そこまで、大きくて深いものでは無かったけど、お兄さんが止めてくれなかったら、きっと片足を突っ込んでユウイチさんに買ってもらったスニーカーを汚していた。

「ありがとう……。これ、大事な靴だから、良かった……」
「……どう見たって下ろしたてだしな」

「腕、掴んで悪かったな」と言ってから、お兄さんは再び歩き始めた。
 歩いている間、沈黙が気まずいのか、たまに「早く見つかるといいな」「まあ、そう広くないからな……。すぐ見つかるさ」と俺を慰めてくれる。

 たまたまドライブ中に立ち寄った漁港で知り会ったお兄さんは、最初に目が合った時は、怒っているような表情をしていたから、「あっ、怖い人だったらどうしよう…」とほんの一瞬焦ってしまった。

 お兄さんは、あまり笑わないし、口調は常に淡々としている。けれど、たった今ポツポツと呟くようにして励ましてくれた一言一言から、優しくて面倒見のいい人だということが、なんとなくわかった。
 初めは少しぶっきらぼうに感じられた喋り方も、慣れてくると素朴で飾り気の無い自然な口調だと思えた。

「お兄さんの名前は?」
「……俺か。べつに、いいよ。俺の名前は」
「なんで?」
「……あんまりジロジロ俺の顔を見るなよ。俺は昔から……小さい犬とか、全然自分に懐こうとしない猫がいると必ず拾って帰りたくなってしまうんだ。だからやめろ」
「ええ……」

 面倒見がいいうえに、照れ屋だということがわかったから、「ごめん。じゃあ、あんまり見ないようにする……」と約束してから、お兄さんと一緒にユウイチさんを探すために歩き続けた。

 お兄さんはずっと渋っていたけど、「教えてください」としつこくお願いしたら、ようやく自分の名前を「タクミ」だと教えてくれた。

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