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「奏太さんと結婚させて頂きたく、本日はこちらに上がらせて頂きました。」
「…――うん。」

そう。
挨拶に、来た。
結婚させて下さい、と。

「奏太さんと付き合い初めてまだ日は浅いですが、彼の事を誰よりも愛しています」

そう。だって私は彼を、奏太さんだけを愛しているから。

「幸せにする、なんて大それた事は言えません。だけど、」

こんなにも。
こんなにも、

「二人で幸せを築いていきたいと思っています」


苦しいなんて――……。



「ああぁ!もう!本当に秋乃ちゃんはいい子だわぁっ!」
「わ…!あ、麻美さん!?」

暫く口を閉ざしていた麻美さんが、我慢出来ない!と言うかのように私に抱きついた。
いきなりの行動に驚いたのは私だけではなく、奏太さんも目を大きく開いている。

「ちょっと!母さん!あきに何して…!つか空気空気!」
「ほんっっとに貴方は…!何秋乃ちゃんに言わせてるの!秋乃ちゃん男前過ぎて惚れちゃうところだったわ…!」
「えぇ…、確かにそうだけどさ…。やっぱりあきはたらしだ…。しかも性別問わず…」

何処がたらしなんだ、と思いながらも声には出さなかった。皆楽しそうだったから。奏太さんは空気を壊した、と思っているかもしれないけれど、私にとってはありがたかった。社長との沈黙に息が詰まりそうだったから。

は、として社長を見やれば、先程までは難しい表情を浮かべていたのに、とても柔らかい表情になっていた。

「しゃちょ…」
「私の事は和臣と呼んでくれないか?」
「う……え?」

予想していない言葉に私は変な声を上げてしまった。聞き間違えではなければ、社長はファーストネームで呼んでくれ、と言った…?
間抜けな表情をしているだろうな、と思いつつも再度社長の方へと視線を向ければ――…

今まで見た事のない笑みを浮かべながら慈しむかのように私を見つめていた。

「社長……」
「和臣、ね。だって麻美だけ狡いじゃないか。麻美さんって。私だけ仲間外れかい?」

いやいやいや。無理無理無理。だって相手は会社の社長だ。それに――…

「家と会社は関係ないだろう?」

はい。その通りです。
でも、だって、と沢山の言い訳が頭をよぎる。けれどこの空気では断る事なんて出来ない。誰もが私が社長の名を呼ぶ事を待ちわびているのだ。

「か、か、か、かず、おみさ…ん?」

凄く噛んだけれど、言った。言ってやった。どこかで何かが崩れる音がした。

――きっと今、顔が真っ赤だ。今までにないくらいに顔が真っ赤だ。水に浸せば沸騰するのではないのだろうか、と言うくらいに。

「あき、顔真っ赤だよ?」

奏太さんに指摘されて更に赤くなる。耳まで真っ赤だろう。

「し、しょうがないよ!社長はずっと憧れの存在だったんだから!そんな社長に名前で呼んでなんて言われて緊張しない人がいるの?いないに決まってる!」

一気にまくし立て、酸素が足りなくなったのかぜいぜいと肩を震わせながら思い切り息を吸い込む。
奏太は奏太で今まで見たことのない私に驚いていた。こんなにも感情を露わにした事が無かったから。

――この時、奏太の中でちくりと何かが引っかかった事は本人すら気付かなかった。

「うん。熱烈な告白をありがとう、暁人君。」
「え?あ、ぁ……あ!!!!ひゃぁぁ……」

告白、と言う言葉に疑問符を感じ、自分が言った言葉を思い返してみれば、確かにソレは告白のようなものだった。

「す、すみません…、取り乱して……」
「いや、私も君みたいな可愛い子に告白されて嬉しいよ?

ーー…うん。秋乃ちゃん。息子を宜しくね?」

和臣さんの言葉に私の身体がぴくりと揺れる。まさか、直ぐに了承されるとは思ってもいなくて。
断られても何度でも粘るつもりだった。

私は信じられない、というような表情を浮かべながら和臣さんを見遣れば優しい笑みを浮かべた瞳とかち合って。
和臣さんが何か言おうと口を開くと同時に麻美の明るい声で遮られた。

「もう、嬉しいわぁ、こんなに可愛い娘が出来るなんて…。あぁっ!結婚式はどうしましょう!国外も言いわねぇ…新婚旅行と合わせて、とかどう?」

――既にノリノリの麻美に申し訳なさを感じた。
父の事を言わなければいけない。一応奏太さんには既に伝えてある。その為か、下を向いて口を噤んでいる。
麻美はそんな二人の空気を読み取ったのか、先程までの明るさを潜ませ、中腰だった姿勢を元に戻した。

「麻美さん、か、和臣さん…。結婚式は――病院で挙げたいんです。」

私の言葉に和臣さんは察したのか、悲しそうな表情を浮かべながら口を閉ざした。恐らく私の上司から何か聞いているのだろう。

「私、父子家庭なんです。その父が、先月倒れて……、もう、永く、ないんです。
だから、最期に見せたいんです。父が願っていた私の、」

私の言葉で先程まで暖かかった空気が一気に重くなる。

そして現実を知った。本当に父は居なくなってしまうんだ、と。
分かっていた。分かっていたからここまで来た。けれど、改めて声に出してみたら、

「――…っ、すみませ、」

じわり、と視界が揺らぐ。駄目だ。こんなところで、幸せな空気をこれ以上壊す事なんて出来ない。

失礼な行為だと思うけれど、居ても立ってもいられなくなった私は逃げるように部屋から出、外に出た。

「――――っ…」

父が、死ぬ。
死ぬんだ。

「……」

アスファルトにぽつり、ぽつり、と雫が落ちたと同時に身体が暖かい何かに包まれた。

「今は私しか、いないから。私しか知らないから。」
「か、ずおみ、さ…?」

――思い切り、泣きなさい。

「ふっ……ぅ…っ、どうし、て、どうして…!お父さんが…!
私、頑張って、働いて、おとぅさ、んに、早く楽、してもらいたくて…!なのに……、ど、して……っ…」

どうして死んじゃうの。
どうして私を置いて死んじゃうの。
二人だけの家族なのに。唯一の、肉親なのにーー……

みっともないくらいに泣きじゃくった。喉が壊れてしまうくらいに、叫んで、広い胸に縋り付いた。
そんな私を無言で受け止めてくれた和臣さん。また、何かが崩れる音がした。


*****



「……済みませんでした…、大人気なく泣いてしまって…」

号泣して落ち着いた私は、ぐずぐずと鼻を啜りながら和臣さんから離れた。あれだけ泣いたものだから目もかなり充血しているだろう。

そんな私を見て和臣さんは苦しそうな表情を浮かべた。

「秋乃ちゃん、私の前では遠慮しなくても良いんだよ。これから私達は家族、だ」
「しゃ、ちょ……、」

瞳を大きく見開いて凝視する私の唇に指を添えた和臣さんに、苦笑しながら名前、と指摘される。

「和臣、さん…」
「うん」

嗚呼。何て残酷で幸せな話なのだろうか。
貴方が私に優しくすればする程、必死に隠した感情がドロドロと融けていく――…。


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