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彼女に起きたこと Side尊人

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最近、沙月の様子がおかしい。
仕事中も何か考えごとをしているようだし、時々ため息をついたりもする。
今のところ仕事は大きなトラブルもなくこなしているかが、何か悩みがあるのかもしれないと俺は気になっていた。

「そういえば、昨日のメール返信してくれたか?」
たしか、取引先への返信を急ぐと伝えていたはずだが。

「あ、すみません。すぐに」
慌ててパソコンを叩きだす沙月。

ほら、こんな調子だ。

「なあ、何かあったのか?」
仕事の手を止めて、俺は沙月の前に立った。

「すみません、何でもなりません」
「本当に?」
「ええ」

嘘をつけ。何もないはずがないだろう。
集中力は全くないし、何か心配事を抱えているのは明らかだ。

「もういいから、今日は帰れ。ひどく疲れた顔をしている」
「大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないから言っているんだよ。いいから帰れ」

決して怒ったわけではない。
ただ、意固地な彼女の態度が俺をイラつかせた。
今日はこのまま帰らせて、家でゆっくりさせてやろう。
どちらかと言うと、彼女を思って出た言葉だった。
しかし、

***

じっと下を向き動かなくなった沙月。
初めは怒っているんだろうと思っていた。
余計な心配はしないでくれと言い返されるのかなと予想していたのに、そうではなかった。

ポトリ、ポトリ。
沙月のデスクの上に水滴が落ちるのが見え、俺は驚いた。

普段から頑張り屋の沙月が、人前で涙を見せることは珍しい。
よほどの事がなければ、泣くはずはない。

「どうした?何があったのか教えてくれ」

「・・・」
それでも沙月は何も答えてはくれない。

ただうつむきながら、肩を震わせる姿に心が痛んだ。
沙月には俺ではない恋人がいるとわかっていても、自分自身の感情を抑えることができなかった。
震える背中からそっと手を回し、俺は沙月を抱きしめた。
きっと抵抗されるのだろうと思ったのに沙月は身動き一つしないで、ただ下を向いたまま涙を流し続けた。

「何であいつなんだよ。沙月が泣きたいときに抱きしめてやることもできない男のどこがいいんだ」

男の嫉妬は醜いものだ。
たとえ思っていても口に出してはいけない。そう自分に言い聞かせてきたが、限界だ。

「なあ、俺にしておけよ」

***

思えば、35年も生きてきて自分から女性に告白したことは無い。
もちろん恋人がいたこともあるし、好きになった人もいた。
でもなぜか告白されて付き合うことばかりで、自分から口にしたことは無かった。
そんな俺が、沙月のことはどうしても手放したくないと思う。
沙月の近くに男の影があると思うだけでイラつくんだ。

「なんで、私なの?」
泣いたせいだろうか鼻にかかった声で、沙月が聞いてきた。

「理由なんてないよ」
理由が分かれば、こんなに苦労はしない。

すると突然、俺の手を振りほどいて勢いよく立ちあがった沙月が俺を睨んだ。

「あなたは何もわかってないわ。私がこの5年どんなに、」
「どんなに?」
その先が聞きたくて俺は沙月を促すが、沙月は悔しそうに唇を噛んでしまった。

俺は向き合った状態からもう一度沙月を抱きしめた。
頭一つ分小さな沙月が、涙を隠すように俺の肩口に顔を埋める。

「5年前、物わかりのいいふりをして沙月と別れてしまったたことをずっと後悔していた。あの時、どんなことがあっても手放すんじゃなかった」
「・・・尊人」

昔付き合っていたころのように俺を呼ぶ沙月が愛おしくて、回した腕に力が入ってしまう。

「フフフ、痛いわ」
「ごめん」

顔を上げ泣き顔のまま笑う沙月の笑顔は、あの頃とちっとも変わらない。

***

どのくらい、俺たちはそうしていたのだろう。
沙月の体温と俺の体が同化していくように感じていた。

「このまま2人で抜け出すか?」
「バカなことを言わないで」

たとえ相手が若い医者でも、子供の父親だったとしても、もう遠慮はしない。
俺は沙月を、2度と失いたくはないんだ。
そのためなら多少汚い手を使ってでも、俺は沙月を奪い返す。
この時の俺は、何か吹っ切れたものを感じていた。

「なあ、一体何があったんだ?」

改めて沙月の顔を見て、やはり疲れの色が見える。
どこか具合が悪いというよりも、疲労困憊の様子だ。

「私にだって、悩みくらいあるわ」

精一杯の作り笑顔を俺に向ける沙月は、いつもとは違う。
きっと大きな心配事を抱えているんだろうが・・・
こいつは絶対に言わないだろうな。
それなら、別の方法で探ってみるか。

***

「悪い、待たせたな尊人」
「いや、気にするな」

その日の内に、幼馴染であり顧問弁護士でもある慎之介を俺はホテルのバーに呼び出した。

「それにしても、お前が呼び出すなんて珍しいな」
「そうか?」
とは言ったものの、慎之介と飲みに出るのはいつぶりだろう。

日本に帰るたびに顔を合わせていたような気がするが、それでも1年ぶりくらいだろうか?
ここのところ仕事が忙しすぎて飲みに出る暇もなかったからな。

「どうした、わざわざ俺を誘うからには何か用事があるんだろ?」
「そのことなんだが・・・」

俺の知り合いの中で、沙月のことを一番よく知るのは慎之介だろうと思う。
同じ職場にいたのなら俺のいなかった間のことも知っているわけだし、こいつに聞くのが一番いいだろうと俺は判断した。

「最近、沙月の様子がおかしいんだ」
「おかしいって、どんな風に?」
さすがの慎之介も表情が硬くなる。

「いつもどこか上の空で、何か考えことをしているように見えるんだ」

具体的にどこがと言われるとうまく表現できないが、時々ボーっとして呼んでも気が付かないこともあるし、仕事上の小さなミスも増えている。
それに、笑わなくなった。

「それって、お前のせいじゃないのか?」
「どういう意味だよ」

***

「お前と沙月ちゃんは以前付き合っていて、でも別れたんだよな?」
「ああ、そうだ」
今俺はそのことをすごく後悔している。

「彼女はもうお前に会いたくないと思っているんじゃないのか?」
「それは・・・」

絶対に違うとは言えない。
もしかしたら俺は嫌われているのかもしれない。
でも、それでも俺は、戦わずして逃げ出したくはない。
もう後悔したくないんだ。

「お前が思う以上に沙月ちゃんはもてるんだぞ。うちの取引先にもぜひ紹介してほしいって客は多かったし、実際俺も彼女のファンだ」

悪びれもせず俺に向かって堂々と言う慎之介が癪に障るが、これが現実ってことだろう。
実際沙月に好意を示す男は少なくない。
慎之介もそうだし、この間行った小児科の医者も意味ありげな視線を向けていた。
それに、そもそも沙月の恋人も医者だ。
どうやら俺の周りにはライバルが大勢いるらしい。

「一度は手放しておきながら今更だとは思うが、俺は沙月をあきらめられない。あいつのことが好きなんだ」
酒が入った勢いからだろうか、俺は不思議なくらいストレートに自分の気持ちを口にした。

***

「彼女には理由を聞いてみたのか?」
「ああ。何度も尋ねたが、何も言わない」

隠されれば隠されるだけ何かあるような気がして仕方がないが、俺にはどうすることもできない。

「子供のことではないのか?」
「いや、半月ほど前に熱が出たっていうから病院までついて行ったんだが、その後は元気にしているって聞いている」
「一緒に病院へ行ったのか?」
「ああ」

慎之介はとても驚いた顔をするが、子供が熱を出したって聞けば誰だって車くらい出すだろう。

「そもそも、お前は彼女の子供に会ったんだよな」
なぜか怖い顔で、慎之介が俺を見る。

「何を今更。お前がそう仕向けたんだろう」

慎之介に言われた通りの場所で、俺は沙月とその子供に出会った。
わざわざ時間まで指定したってことは、慎之介も子供の存在を知っていたってことだろう。

「それで、子供に会ってどう思ったんだ?」
「どうって、かわいい子だなと思ったよ」
「それだけか?」
「慎之介、何が言いたい」
かみ合わない会話にイライラして、つい言葉が強くなった。

慎之介の口調から何か言いたいことがあるのだろうと思った。
子供のことなのか、沙月の恋人の若い医者のことなのかはわからないが慎之介は何かを知っているらしい。
しかし、それ以上何を聞いても答えてはくれなかった。

***

「とりあえず、俺の方でも調べてみるよ」
「悪いな、頼む」

弁護士の慎之介にこんなことを頼むのも違う気がするが、個人的な問題である以上あまり表立っては動けない。
だからと言って得体のしれない人間に託すこともできず、俺は慎之介を頼ることにした。

「彼女の周りで今何が起きているのかを調べればいいんだな」
「ああ」

俺の感情から言うと、沙月の恋人のことも気になるし、子供の出生だってはっきりしたいと思う。
でも、今は沙月の抱える悩みを知ることが優先だろう。

「実は子供の通う保育園もうちの取引先で、園長とも知り合いなんだ。だからもし何か特別なことが起きていればすぐにわかるはずだ。わかり次第知らせるよ」
「すまないな、助かる」

彼女が悩んでいるとすれば子供のことか、家族のことか、恋人のこと。
たとえどんなことであっても、俺が沙月を守ってやる。
そして、奪い返すんだ。

***

翌日夕方。
慎之介からの連絡は思いのほか早くきた。
ちょうど沙月が退社した後、慎之介は突然俺のもとを訪ねてきた。

「今いいか?」
「ああ」

なぜだろう慎之介の声が強張っている。

「沙月ちゃんに今何が起きているのか調べてみたぞ」
「それで?」

「彼女は今ストーカー被害にあっている」
「ストーカー?」

恋人や、慎之介や、クリニックの医者以外にも、付きまとう男がいるっていうのか?

「ストーカーと言っても男じゃないぞ。要は嫌がらせだ。10日ほど前から彼女に対する無言電話や子供への声掛けの事件が続いているらしい」
「子供にって・・・」

自分一人のことならいざ知らず、まだ小さな子供になんて酷い。
きっと沙月も不安なことだろう。
そうか、だから沙月は憔悴していたんだ。

「それで、犯人はわかっているのか?」
「それなんだが・・・」
慎之介が言葉を濁す。

どうやら目星はついているようだ。

***

「嫌がらせ始まったのは10日ほど前だ。その頃何か変わったことは無かったか?」
変わったことと言われても・・・
「少し前に、彼女の子供が熱を出して病院に連れて行った。あとは・・・田所大臣の所の絢子さんと約5年ぶりに再会した。それくらいだ」

これと言って沙月が被害にあうような事件はなかったはずだ。

「ところで、お前は田所大臣の娘の絢子さんと付き合っているのか?」
「なんだよ、いきなり」

5年前、アメリカ支社のトラブル収集のため渡米する直前の俺は、絢子さんと何度か会っていた。
三朝財閥の人間でいる以上結婚相手とは家どうしの付き合いも重要になる訳で、親父が俺の相手として勧めてきたのか絢子さんだった。

当時の俺は沙月と付き合ってはいたが、彼女がまだ学生だったこともありすぐに結婚を切り出せる状況ではなかった。
あと数年して沙月が結婚を考える年齢になった時、両親にもきちんと紹介して結婚話を進めるつもりでいた。
いくら親父が勧めたとは言え、沙月がいるのに絢子さんと付き合っていたつもりはない。
ただ、親父や田所大臣を交えて何とか食事をしたし、絢子さんからも連絡をもらうようになっていた。そんな会食の場面を写真週刊誌に撮られ、婚約者だと報道されていた事は事実だ。
しかし、俺に絢子さんと付き合う意思はなかった。

***

「お前は、5年前に絢子さんが沙月ちゃんに接触していたのを知っていたのか」
真っすぐに俺を見る慎之介の目が鋭い。

「いや、初耳だ」
当時、沙月はそんなこと一言も言わなかった。

「なあ尊人、女って奴は男が思っている以上に醜くて激しいんだぞ」
「それは、どういう意味だよ」

沙月と絢子さんの間に何かあったっていうのか?
それならまず沙月が俺に知られてくれたはずだ。
俺達は愛し合っていたんだから。

「5年前の事は沙月ちゃんに聞くべきだと思うから、俺は何も言わない。だが、今彼女が問題を抱えているのは事実だし、それにも絢子さんが関わっている可能性が高いだろう。俺に話せるのはそれだけだ」

どういうことだ、絢子さんが沙月に嫌がらせをしているってことか?
そんな馬鹿な。
しかし、慎之介が言うからには確認してみる必要があるだろう。
まずは沙月に話を聞こう。
慎之介の話を聞いて不安になった俺は、そのままオフィスを飛び出してしまった。

***

車を飛ばしてやってきた沙月のアパート。
以前、子供の病院の帰りにここまで送って来たからアパートの場所はわかっていた。
築年数こそ新しいがごくごくありふれた2階建てアパートの、部屋は1階角部屋。
不用心だからせめて2階の方がいいんじゃないかと言ってはみたが、子供が足音を気にせずいられる方がいいからと聞き入れてはもらえなかった。
恋人が医者ならもう少しいいところに住めばいいのにな。
そんな事を思う俺も俗物なのだろうか。
沙月のことだから、恋人には頼らず自分で暮らしているんだろう。
それがまた沙月らしくもあるが、俺なら我慢できないな。

近くの駐車場に車を止め、俺は沙月のアパートに向かった。

勢いでここまで来てしまったが、アパートに恋人がいたら俺はどうするんだろう。
沙月と恋人と子供と3人の仲のいい様子を見せられたら、しばらく立ち直れない気がする。
それでも、

「よしっ、行こう」

もう逃げないと決めたんだ。
どんなことがあっても、沙月を振り向かせる。
2度と彼女を失いたくはない。

自分で自分を奮い立たせながらアパートの通路を進み、沙月の部屋が見えてきたとき、
「え、嘘だろ」
俺はその場で固まった。

***

ドンドンドン。

ドンドンドン。

俺は無意識のうちにアパートのドアを叩いていた。

鉄製の扉にかけられた真っ赤なペンキで手が汚れてしまうことなんて、この時は考えられなかった。
とにかく彼女と、彼女の子供の顔を確認しないことにはと必死だった。

ガチャッ。
しばらくして、玄関のドアが開いた。

「沙月、無事か?」

少しだけ開いた隙間から声をかけると、すぐに扉開き、
「尊人」
沙月が倒れ掛かってきた。

「大丈夫だ、もう大丈夫だからな」
背中をトントンと叩きながら、沙月を落ち着かせる。

「おじちゃんだれ?」
玄関先で抱き合う俺たちを不思議そうに見つめる小さな視線。

「おじちゃんはママのお友達だよ。怖かっただろ、もう大丈夫だからな」
「うん」
素直に頷く子供が、とてもかわいい。
こんな小さな子供に嫌がらせなんて、絶対に許せない。

俺は一旦沙月を離すと、部屋の中へとお邪魔した。

***

玄関扉にかけられた真っ赤なペンキはそれだけで恐怖心を植え付ける。
たとえ部屋の中には影響ないとしても、気持ちが悪くてここで住もうとは思えない。
それは沙月も同じだったらしく、部屋の真ん中に大きなスーツケースが広げられていた。

「どこかへ行くつもりだったのか?」
「ええ、今夜はホテルに泊まろうかと思って」

そうか、それならちょうどいい。

「ねえぼく、今日はお家が壊れてしまったからおじちゃんのお家に行こうか?」
「おじちゃんのうち?」
「そうだよ。おっきいおテレビも風呂もあるし、おやつもいっぱいあるから」
「うん、いくっ」

我ながら汚い手を使ったものだと思うが、頑固な沙月を説得するよりもその方が早いと、俺は子供を買収することにした。

「駄目よ、おやつは一つでしょ」
「ええー」

「大丈夫、今日は特別だ。おじちゃんがあげるからな。さあ、行こう」
沙月に止める隙を与えないように、俺はスーツケースを持って子供の手を引き玄関へと向かった。
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