おとぎ話のような恋

咲真凪

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第1章 漁師町カリオラでの日々

6 うさぎの忠告

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 フィリアは丘の上に立っていた。見慣れたはずの眼下の景色がどんどん色と形を変えていく。形を成さない声のような音が、頭の中で鳴り響いている。途端に、身を引き裂くような焦燥感に襲われた。今すぐ走り出したい。一刻も早く行かなければならない。でもどこへ……?
 次の瞬間、フィリアは砂浜に立っていた。空が黒い。海も黒い。この光景には見覚えがあった。忘れられるはずがない、あの日に見た光景と同じだった。これは現実ではないとわかってはいても、頬を涙が伝うのは止められなかった。見たくない、見たくない、嫌だ、やめて、と否定の言葉を頭の中で繰り返した。

 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。金縛りにでもあっていたかのように、体が鉛のように重くて痺れていた。頬を濡らす涙を袖で拭い、乱れた呼吸を調えてから上体を起こした。
 あの夢を見るのは久しぶりだった。ここしばらくは見ていなかったはずなのに。やはりこの部屋にいることが原因なのだろうかと考えて、フィリアは物音を立てないよう静かにベッドを下りる。
 窓の外はまだ暗く、夜明けまでは随分時間がありそうだ。リビングのソファででも眠ろうと、薄手の毛布と枕を抱えて階段を下りた。



***



 アルと一緒に暮らし始めてから3日目の朝のことだった。日課である畑の水やりをしているところへ、久しく顔を見せていなかったうさぎがやって来た。
 うさぎは家の周囲に巡らせた柵の隙間から顔を覗かせ、しきりに辺りの様子を窺っているようだ。危険がないと判断したのだろうか、それでも警戒心剥き出しの表情を隠すことなく、フィリアの足下まで駆けてくる。ふわふわの体をフィリアの足に擦りつけるようにして寄り添ってくるその姿がどうにも愛らしくて、地面に膝をついてうさぎを抱き上げた。

「そんな顔してどうしたの?」

 微笑みながら問いかけるフィリアの顔を見て、うさぎは安堵ともとれる溜め息を吐いた。

『しんぱいしてきてみれば、いつもとおんなじのんきなかおしちゃって。あいつにはなにもされてないわよね?』
「もう。そんな言い方はアルに失礼じゃないの。悪い人なんかじゃないよ?呪い師を訪ねてきた、ただのお客様です」

 フィリアの呑気な回答に、うさぎは目をつり上げる。

『あんたはおひとよしだからしんぱいなの!かんたんにしらないやつをしんようして、いえにまでとまらせてるなんて!しかもあいつはおとこなのよ!ねえわかってる!?』

 ヒートアップしていくうさぎを抱き直して、宥めるように背を撫でる。

「もちろんわかってる。どこからどう見ても、アルは女の人には見えないよ」

 真面目に答えたつもりだったが、うさぎは自分の思いが伝わっていないと感じたらしい。やれやれと頭を振って、前足でフィリアの腕をてしっと叩いた。

『ねえフィリア。あんたはとしごろのおんなのこなんだからね。それもとびっきりかわいくてやさしいおんなのこよ。そんなこがあやしいおとことふたりっきりでせいかつしてるだなんて、しんぱいするなってほうがおかしいわ。あいてはおとなのおとこなんでしょ?もしおそわれたらどうするの?あんたひとりでどうにかできるわけ?アタシはそれをしんぱいしてるのよ。ほかのみんなだってしんぱいしてるわ。あんたはだいじなともだちだもん。なにかあってからじゃおそいんだから』

 そこまで言われてようやく、フィリアはうさぎの心配事が何かを理解した。恋愛事や男女のあれそれには疎いため、全くもってぴんとこなかったのだが、この心配性で優しいうさぎはフィリアがアルに乱暴されることを心配していたのだ。もちろん性的な方の意味だろう。
 なるほど、そういう考え方もあるのか。そんなこと全然これっぽっちも1ミリだって考えたことがなかった。という心の声が顔に出ていたようで、またうさぎに溜め息を吐かれてしまった。
 フィリアは朗らかに笑いながら、もう一度うさぎの背中を撫でた。

「そんなにわたしのことを考えてくれてたんだね。ありがとう。でも本当に大丈夫だから。うさぎさんが心配してるようなことは絶対ないよ」

 アルと生活を共にしてまだ数日しか経っていないが、彼の人となりを知るには十分だった。初めに抱いた印象の通り、信頼のおける人であることに間違いはないと思う。
 書斎での調べものだけでなく、フィリアが食事の準備や後片付け、掃除をしていたりすると必ず手伝いを申し出てくれる。最初のうちはお客様なんだからと断っていたが、昨日の夕食後、食器を洗うフィリアの隣でふきん片手に待ち構えるアルに根負けしてしまったので、もういっそ今日からは他のことも色々と手伝ってもらおうかと思っている。
 それから――、とアルの良い人エピソードを続けようとしたものの、もういいよと言いたげに腕を二度程、その小さな前足で叩かれた。

『とにかく、もっとけいかいしんをもちなさい。かんたんにきをゆるしちゃだめよ。くれぐれもまちがいのないようにきをつけること!いいわね?』



 ほんの数時間前、捨て台詞のようにそう言い残して去っていったうさぎの姿が脳裏をよぎる。いやいや、これは違うでしょ、と心の中で否定しながら、背後から伸びてきた腕が棚から本を1冊抜き出す様子を目で追った。

「これかな?」

 そう言って目の前に差し出された本は、まさしくフィリアが見たかった1冊で。本棚の1番上の段にあったのだが、目一杯背伸びをして手を伸ばしても届かなかったそれを、アルは簡単に手に入れてしまった。

「ありがとう」

 特に何も考えずにくるりと体ごと振り向けば、鼻先がぶつかりそうな程間近にアルがいて、顔を上向かせれば自然と視線が合った。

「アルは大きいねぇ」

 自分との体格差を改めて感じて、なんだか感慨深く感じてしまう。野山を駆けるシカ達と同じように、衣服の下にはしなやかな筋肉が隠れているのだろうか。そんなことを疑問に思ってアルの二の腕に触れてみる。シャツ越しではあるが、自分にはない張りのある筋肉の感触を確かに感じる。ほぉっ、と感嘆の息を吐き出せば、ごとりという音をたててアルの手から本が滑り落ちた。
 拾うために屈もうとしたが、本を落としたその手がフィリアの腰を掴んできたためにそれは叶わなかった。手も大きいんだなぁ、なんて呑気に思いながら見上げれば、数日前に見たのと同じ表情を浮かべるアルがいて。

「えーと……、どうしたの?」

 翡翠の瞳に、首を傾げる自分の顔が映っている。途端にきゅうっと瞳孔が大きくなったのがわかった。

「君は、小さいね……」

 低く囁くような声が、耳に快く響く。
 フィリアが何か答えるよりも先に、腰を掴んでいた手に力が入りアルの方へと引き寄せられる。咄嗟に彼の胸に両手をついたので、顔面がその肩にぶつかることは免れた。胸を押して距離をとろうとするものの、腰にある手の力が強くてびくともしない。
 これはどういう状況なんだろう…?とフィリアの頭の中は?マークでいっぱいだった。すると、もう片方の腕が持ち上がるのが視界の隅に見えた。
 大きな掌に頬を包まれ、些か強引に顔を上げさせられたので抗議の声を上げた。

「うぅ…、首痛いよ…っ」

 ほぼ真上から、少しだけ身を屈めたアルが見下ろしている。感情の読めないその表情に、フィリアはますます訳がわからなくなってくる。
 不意に目の下を指の腹で撫でられて、びくりと肩を跳ねさせた。

「隈ができている…」
「え……、そう、かな…?」
「うん。疲れているなら、無理はしないでおくれ。急いでいるわけではないから、ゆっくりでいいんだ。君の体調の方が大事だからね」

 真剣な表情で労るように目の下を目尻にかけて撫でられていると、段々申し訳ない気持ちになってきた。アルが心配しているような、連日に渡るこの書斎での探し物に疲れているのではない。疲れの原因は寝不足。そして寝不足による隈なのだ。
 数日前にあの夢を見てからというもの、毎晩寝付きが悪く睡眠も浅い。リビングのソファで眠るようにしているが、またあの夢を見たらどうしよう、見たくないという思いが強すぎて、寝る場所を変えたところでどうしようもなかった。
 だが、それほどわかりやすく疲れが顔に出ていただろうか、と今朝鏡で見た自分の顔を思い出してみる。目の下の隈だって、こうして近くでじっくり見られないと気付かないくらいには薄かったはず。
 そこではっと閃いた。アルが突然本を取り落としてまで、こうしてフィリアの体を引き寄せ顔を覗きこんでくるのは、フィリアの顔色が悪いように見えたからそれを間近で見て確かめるためか、と。
 なんて優しい人なんだろう。一刻も早く元の姿に戻りたいのはアル本人のはずなのに、急かすようなこともせず、逆にゆっくりでいいから無理はするなと体を気遣ってくれるなんて。
 フィリアの胸に暖かいものがじんわりと広がっていく。アルのシャツの胸元を軽く握って、ふにゃりと微笑んだ。

「ううん、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」

 アルの眉間に僅かに皺が寄り、痛いくらい真っ直ぐ注がれていた視線が外される。一瞬だけ腰を掴んでいた手の力が強くなって、それから次の瞬間にはあっさりと解放されていた。
 アルがそのまま一歩後ろに下がったので、2人の間に距離が空く。さっきまで感じていた温もりが突然なくなってしまい、なんだか寂しいような感じがした。

「そういえば、薬を届けに行くんじゃなかった?そろそろ時間じゃないのかい」

 はっとして壁に掛けてある時計を見れば、確かに今から準備をして丘を下りればいい時間になる。今日は注文を請けていた薬を届ける約束をしているのだった。

「あぁ、そうだった…っ!もう行かないと!」

 ばたばたと書斎を横切り、作って戸棚の中に保管していた薬の瓶を割れないように布に包んでカバンに入れる。そのまま玄関まで向かって、ドアを開きながら振り返った。

「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」

 見送りに一緒に玄関まで来てくれたアルの表情は、いつもと同じ優しげに微笑む穏やかなものだった。
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