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15. エピローグ
望が、朔也の研究室でコーヒーを飲んでいる。
「いや、久しぶりだね。元気そうで何より」
「おかげさまで」
朔也は学部生時代からいまの上司である篠塚教授に師事しており、学生時代の望は、専攻こそ異なっていたものの、朔也がいるからとよく篠塚の研究室に顔を出していた。なんなら朔也と篠塚より仲が良かったぐらいだ。
そんな望が、窓際にある教授の席の側に椅子を寄せて座って、篠原と向き合って談笑している。
まだ学生たちが来ていない早朝の、爽やかな光が望を縁取る。その顔がきらきらと輝いているみたいに見えるのは、番の欲目というだけではないだろう。挨拶を済ませた後、望は改まって菓子折りを差し出し、篠原に向かって頭を下げた。
「先日は、本当にご迷惑をおかけしました。学会放りだして来たって後から聞いて……大丈夫でしたか?」
先日、というのは、望に急なヒートが訪れ、電話を受けた朔也がすべてを放り出して望の元に向かった日のことだった。朔也からの事情説明と謝罪は当然行っているが、状況を聞いた望が『自分も謝罪したい』と言い出したので、今日この場を別に設けたのだ。望の謝罪を受け、篠原は穏やかに笑う。
「まあまあ、幸い他に人もやっていたから、どうにかね。君こそ、薬はちゃんと飲んでいたんだろう? 周期が乱れるなんてそうあることじゃない。忙しいだろうけど、ちゃんと通院したほうがいい」
「わかってます」
望は神妙に頭を下げた。周期の乱れの原因であっただろう問題は解消した、と言えるはずだが、実はまるで違う不調が潜んでいる可能性もある。五月にも連絡を入れておいたほうがいいだろう、と考えながら二人を見る朔也の前で、篠原がふと悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、ちょうどよかった。最近出た論文で、興味深い物があって。君たちに見てもらおうと思ってたんだ」
「……え?」
朔也にとっても、はじめて聞く話だった。篠原が手招くのに応じて立ち上がり、篠原が望に渡した論文を、望の背後から覗き込む。その一番上には、なるほど無視できない単語が記載されていた。『後天性オメガ』。
「……『後天性オメガにおけるアルファフェロモン及び精神相互作用の重要性』……?」
望の声が、僅かに強張る。朔也もまた息を飲んだ。今の二人にとってあまりにタイムリーな、無視できない表現だった。そんなふたりの様子に気づいているのかいないのか、にこにこと笑ったまま篠原が言う。
「そう。……ほら、昔、望くんがここに遊びに来たとき、教えてくれたことがあったじゃない。『お互いに好きすぎたからオメガになった』って。覚えてる?」
それは、一時期この研究室に入り浸っていた望が、後天性オメガであることを篠原に告白したときに使用した表現だった。神妙な顔で、望が頷く。
「……はい」
「それを聞いたとき、僕、あれっと思ったんだよね。……通常、後天性オメガの発現要因とされるのはアルファのフェロモンであって、フェロモンが強く指向性を持つのは恋愛感情が伴う場合だから、もともとは『アルファが対象に強い恋愛感情を抱いている場合に発生しやすい』って言われてた。実証レベルじゃなく、仮説レベルでね。なのに、当事者は『お互い』って言うんだなと思って」
篠原の話をおそらく聞き流しながら、望の指が論文を捲っていく。朔也もまた必死で文字を追いかける。
「で、その研究は、その仮説を事例調査によって検証したもの。といっても事例そのものが少ないから、実証に足るレベルのサンプルが得られていると言えるかはかなり微妙なんだけど……結論として、後天性オメガになった事例の大半は、元から親しい関係に──恋愛関係にある場合が多かった。だから、フェロモンはアルファ由来だけど、相互に関係があることが重要だと結論付けられてる。それで、望くんは正しかったんだなと思ってね」
「なるほど」
望が頷くのを見ながら、朔也はひっそりと息を吐いた。その間にも、望の目は忙しなく動いて、論文を細かく読み進めているのがわかる。そうして望はある一点に目を留め、「ケース5:アルファあるいはアルファ予定からのオメガ転化……」と、おそらく無意識にそこを読み上げていく。
「……『アルファからオメガに転化した事例では、転化した側が強い感情を向けられているパターンが多かった。ただしこれは相互作用の必要性を否定するものではなく、相互作用が前提であり、以降の分岐でどちらのフェロモンが優勢となるかの要因のひとつがフェロモンの強さ=感情の強さであるからと考えられる』……」
望の細い指先が、論文の該当箇所を何度もなぞる。そうして望はぱっと顔を上げ、朔也を上目遣いで見つめて尋ねた。
「お前はさ、俺のこともう好きだったんだっけ? あのとき」
上司の前で何を言わされそうになっているんだ? と一瞬思い、そもそも番だと知られているのだから恥ずかしがるようなことでもないはずだ、とどうにか開き直って頷く。
「……ああ」
「そっか。自覚してた?」
「薄々は」
「なるほど。……じゃあ、しょうがないか。早い者勝ちだったってことだもんね。いや、『惚れた弱み』とか『先に好きになったほうが負け』とか言うから、逆でもあるのか? 朔也の負け?」
いきなり何を言い出すんだ。そういう意味なら、望に勝てると思ったことなんて一度もないが。そのどちらもを口に出せずぱちぱち目を瞬く朔也の前で、望は「だってさ」と当たり前の口調で言った。
「これってつまり、アルファ同士の場合、より好きな方がアルファになるってことでしょ。つまり、俺が先にお前のことが好きだって気づいてたら、朔也がオメガになってたってことじゃない? 見てみたかったなー」
どこか残念そうな、ほかの選択肢などはなから頭になさそうな、さらりとした言い方だった。なるほど『早いもの勝ち』とはそういう意味か。どう返すのが正解かわからず黙り込む朔也に、望は好き勝手な見解を付け加えていく。
「いやでもなー、朔也って繊細だからな、メンタルが。オメガになったらやばかったかも。なら俺がオメガになったほうで良かったのか。……どう思います?」
「そうだねえ。少なくとも今の感じを見るに、望くんは向いてたんじゃない、オメガ」
「あ、先生もそう思います? 俺も正直思うんですよね。今の仕事も天職だし」
……確かに、朔也がオメガに転化していたら、『自分がオメガである』ということをこんな風にあっけらかんと語れる日は、一生来なかったに違いない。自分の懐の狭さ、もっとはっきり言えば差別意識というものを突きつけられてひっそり傷つく朔也に、「あ、そうだ」とふと思い出した顔で望は言った。
「論文と言えば……そういや、オメガのドーパミン発生は一生続くって話、あれ流石に嘘らしかった。ごめん。あれから調べたんだけど」
何の話だ、と一瞬思い、望が従姉から聞いたという『アルファの恋は三年で冷める』というあれか、と思い出す。先のヒートの後、互いの思い込みを解きほぐす中で出てきた話題だ。朔也は軽く眉を寄せた。
「そうなのか? いや、流石に眉唾だろうとは思ったが」
「そうそう。まあ、結局バースって生殖のためのものだから、生殖可能年齢を超えればヒートもなくなるし、フェロモンも出なくなるし、そうすると『番』の意味もなくなるし、もちろんドーパミンも出なくなる。実質そこで番って解除されるようなものなんだって」
「……ああ、その論文は読んだな。でもあれは、『番』そのものが解除されたって話じゃないだろ。本人たちのバース性が弱くなるだけで、番形成そのものは残ってたはずだが」
朔也はその手の論文を読み尽くしたと言ってよく、番形成は結局経年変化では解除されないという結論を見て落胆したのをはっきり覚えている。朔也の返答に、望は頷いた。
「そうそう。そうなんだけど、いや、俺がいいたいのはそこじゃなくって。……そうなったら、お前も、やっと信じられるのかな、ってこと」
言いながら、望の手が、おそらく無意識に彼自身の胸元に触れる。
間違いなくそこにあるのに、証明しきれない『愛』というもの。今は信じてる、とも言い切れない朔也に、望はからりと笑って言った。
「だからさ。ま、死ぬときまでに証明できるみたいだから、待ってて」
プロポーズみたいな言葉だなと思った。
「……じゃあ俺は、それまでずっと、お前に証明し続けるから」
「いや、そういうのいいんだって。先のことなんて保証してくれなくていいの」
「それは……身勝手なんじゃないか」
自分は未来を待てと──未来の保証をするくせに? 朔也の文句に『言われてみればそう』みたいな顔をする望が可笑しくて、朔也はやっと少し笑った。そして言った。
「望」
「ん?」
「愛してる」
ふへ、と少し間の抜けた顔で、嬉しそうに望が笑う。そこでやっと篠原が「僕、神父役とかやったほうがいい?」と口を挟んできて、それでやっとここが研究室であることを思い出す。
そうして揃って顔を赤らめるふたりに、篠原はまるで屈託のない顔で、「この突然二人の世界になるところ、望くんが学生だった頃に戻ったみたいで懐かしいな」と──二人からすれば初耳にもほどがある、ふたりの顔をより赤くさせることを言ったのだった。
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