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第十章 元孤児の想い
181,灰色の日々
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翌朝、レイの態度は驚くほど変わらなかった。
普段通りに朝ごはんを作り、バルコニーに植えてある『サルビア』に水やりをして、いつもの笑顔を俺に向けてくる。
「朝ご飯できたよ」
朝食をテーブルに並べるレイは、まるで昨晩のことなんか忘れてしまっているかのよう。
だけど、俺はというと──気分はありえないほどに落ち込んでしまっている。
彼女が作ってくれたスクランブルエッグを眺めたまま、手が全く動かせない。
「ヒルス」
目の前に座るレイが俺の顔を覗き込んできた。
「食べないの?」
レイは心配そうな声で言うんだ。小首を傾げ、透き通った瞳で俺を見つめてくる。
そんな顔、しないでくれ。
「食べるよ」と小さく返事をしてから、俺はゆっくりと朝食を口に運ぶ。
いつもと同じ朝。この時間、幸せなひとときを噛み締めているはずなのに。
どうしても昨晩のことが頭から離れない。
ふわふわのスクランブルエッグが、舌の上で冷たく灰のような味に変わっていく。彼女の笑顔も、今の俺の目にはぼんやり映って癒やしにすらならない。
次の日も、その次の日も。時間の流れがとても遅く感じていて、俺の心は暗闇色に染まってしまっていった。レイと一緒にいても、彼女に微笑みかけられても、余計に辛くなるだけ。
レイとの未来がないということは、いつか彼女と別れなくてはならないのか?
そんなことばかり考えてしまう。
毎日のようにキスを交わしていたのに、それすらもしなくなった。彼女と肌を重ねて抱き合うことも、手を合わせることもしなくなってしまった。
それなのにレイは、いつも笑顔を絶やさないんだ。優しい口調で俺と話をしようとする。
レイにとって俺は義理の兄に過ぎない。それ以上の関係になったのは、幻想に過ぎなかった。結婚なんていう二文字、彼女にとっては必要のない言葉だったんだ。
──俺だけだった。レイとの未来を思い描いていたのは、俺の独りよがりだったんだよ。
◆
レイとの関係が微妙になってから数日が経つ。相変わらず俺は、気分が沈んだまま。
コートの中に潜む彼女への贈りものだったはずの指輪は、今後出る幕はないだろう。それなのに、いつまでも出番を待ち続けているんだ。そのうち処分しないといけないのに。
テムズ川にでも投げ捨ててしまおうか。闇に支配された俺の脳裏には、そんな暗い考えが巡っている。
でも仕事中だけは、ダンスの指導に集中出来るので気が楽だった。
今日はロイにマンツーマンで教える日だから、心も少しばかり落ち着く。
「ロイのコークスクリューもだいぶ様になって来たな」
「はい。ありがとうございます」
ロイはここに来てほぼ全てのアクロバットの技を習得した。宙で身体を捻って回転するコークスクリューの技は、ロイがアクロバット技でも一番手こずったものである。しかし、練習を重ねてきた今ではかなりの迫力で跳べるようになった。
もう、俺には教えることはないと思わせるほどの上達ぶり。
「先生、今日もありがとうございます。久しぶりにランチご一緒しませんか?」
顔から流れ出る汗を拭き取りながら、爽やかな笑顔でロイは言うんだ。勿論俺はその誘いに頷いた。
──ランチタイムに行きつけのバーガーショップに足を運び、俺はシュリンプバーガーのセットを頼む。ロイはその横で、単品でハンバーガーだけをオーダーしていた。俺が「もっと食わないのか」と問うと、ロイは苦笑しながら「今月バイト代がピンチで」なんて言うんだ。
ロイは今では自立していて、自らアルバイトをしながらスタジオに通っている。親無しなので少なからず国からの援助は出ているようだが、それでもスタジオの費用は全て自己負担なので大変そうだ。
ロイの頭を軽く叩き、俺は柔らかい口調で言った。
「好きなもの食えよ。俺が出してやるから」
「そんな。いいんですか」
「午後もレッスンがあるんだ。腹が減った状態だと、まともに踊れないだろ」
「ヒルス先生……」
その時、ロイの目尻が熱くなっているのが俺にも分かった。何度も礼を言われるが、完全にこれは可愛い生徒に対する俺のえこひいきだ。素直に甘えてほしいと思う。
窓側のテーブル席に着き、限られた時間の中で俺たちは食事を始める。
ある意味こういう時間が一番辛いのかもしれない。リラックスし過ぎると、たちまち思い浮かべてしまうレイの顔。いつもと何ひとつ変わらないあの笑顔を思い出すと、俺の心はえぐられる。
もう何日彼女に触れていないのだろう。本当はレイの手を握りたくて仕方がないのに。
【義理の兄妹】という言葉を思い出すと、俺は以前のように彼女にスキンシップを取るということが怖くなってしまった。
無意識に深い深い、大きなため息が漏れた。
「ヒルス先生」
「……ん?」
「最近元気がないですね。大丈夫ですか?」
ジュースを片手に、ロイはじっと俺を見つめてくる。
「レイさんのことで悩んでいるみたいですね」
あまりにも真剣な眼差しだった。ロイからそんな言葉を投げかけられるものだから、俺はぎくりと焦りの感情が滲み出てしまう。
いや、だけど。もはや俺たちの事情には隠し事なんて何もない。それに、ロイは生徒の中でも唯一信用できる相手だ。
このモヤモヤを一人で抱え込んでいつまでも沈んでいるより、信頼できる相手に聞いてほしかった。
俺はロイの顔にしっかりと視線を向けて、自分の中に纏わりつく悩みの種を全て打ち明けることにした。
普段通りに朝ごはんを作り、バルコニーに植えてある『サルビア』に水やりをして、いつもの笑顔を俺に向けてくる。
「朝ご飯できたよ」
朝食をテーブルに並べるレイは、まるで昨晩のことなんか忘れてしまっているかのよう。
だけど、俺はというと──気分はありえないほどに落ち込んでしまっている。
彼女が作ってくれたスクランブルエッグを眺めたまま、手が全く動かせない。
「ヒルス」
目の前に座るレイが俺の顔を覗き込んできた。
「食べないの?」
レイは心配そうな声で言うんだ。小首を傾げ、透き通った瞳で俺を見つめてくる。
そんな顔、しないでくれ。
「食べるよ」と小さく返事をしてから、俺はゆっくりと朝食を口に運ぶ。
いつもと同じ朝。この時間、幸せなひとときを噛み締めているはずなのに。
どうしても昨晩のことが頭から離れない。
ふわふわのスクランブルエッグが、舌の上で冷たく灰のような味に変わっていく。彼女の笑顔も、今の俺の目にはぼんやり映って癒やしにすらならない。
次の日も、その次の日も。時間の流れがとても遅く感じていて、俺の心は暗闇色に染まってしまっていった。レイと一緒にいても、彼女に微笑みかけられても、余計に辛くなるだけ。
レイとの未来がないということは、いつか彼女と別れなくてはならないのか?
そんなことばかり考えてしまう。
毎日のようにキスを交わしていたのに、それすらもしなくなった。彼女と肌を重ねて抱き合うことも、手を合わせることもしなくなってしまった。
それなのにレイは、いつも笑顔を絶やさないんだ。優しい口調で俺と話をしようとする。
レイにとって俺は義理の兄に過ぎない。それ以上の関係になったのは、幻想に過ぎなかった。結婚なんていう二文字、彼女にとっては必要のない言葉だったんだ。
──俺だけだった。レイとの未来を思い描いていたのは、俺の独りよがりだったんだよ。
◆
レイとの関係が微妙になってから数日が経つ。相変わらず俺は、気分が沈んだまま。
コートの中に潜む彼女への贈りものだったはずの指輪は、今後出る幕はないだろう。それなのに、いつまでも出番を待ち続けているんだ。そのうち処分しないといけないのに。
テムズ川にでも投げ捨ててしまおうか。闇に支配された俺の脳裏には、そんな暗い考えが巡っている。
でも仕事中だけは、ダンスの指導に集中出来るので気が楽だった。
今日はロイにマンツーマンで教える日だから、心も少しばかり落ち着く。
「ロイのコークスクリューもだいぶ様になって来たな」
「はい。ありがとうございます」
ロイはここに来てほぼ全てのアクロバットの技を習得した。宙で身体を捻って回転するコークスクリューの技は、ロイがアクロバット技でも一番手こずったものである。しかし、練習を重ねてきた今ではかなりの迫力で跳べるようになった。
もう、俺には教えることはないと思わせるほどの上達ぶり。
「先生、今日もありがとうございます。久しぶりにランチご一緒しませんか?」
顔から流れ出る汗を拭き取りながら、爽やかな笑顔でロイは言うんだ。勿論俺はその誘いに頷いた。
──ランチタイムに行きつけのバーガーショップに足を運び、俺はシュリンプバーガーのセットを頼む。ロイはその横で、単品でハンバーガーだけをオーダーしていた。俺が「もっと食わないのか」と問うと、ロイは苦笑しながら「今月バイト代がピンチで」なんて言うんだ。
ロイは今では自立していて、自らアルバイトをしながらスタジオに通っている。親無しなので少なからず国からの援助は出ているようだが、それでもスタジオの費用は全て自己負担なので大変そうだ。
ロイの頭を軽く叩き、俺は柔らかい口調で言った。
「好きなもの食えよ。俺が出してやるから」
「そんな。いいんですか」
「午後もレッスンがあるんだ。腹が減った状態だと、まともに踊れないだろ」
「ヒルス先生……」
その時、ロイの目尻が熱くなっているのが俺にも分かった。何度も礼を言われるが、完全にこれは可愛い生徒に対する俺のえこひいきだ。素直に甘えてほしいと思う。
窓側のテーブル席に着き、限られた時間の中で俺たちは食事を始める。
ある意味こういう時間が一番辛いのかもしれない。リラックスし過ぎると、たちまち思い浮かべてしまうレイの顔。いつもと何ひとつ変わらないあの笑顔を思い出すと、俺の心はえぐられる。
もう何日彼女に触れていないのだろう。本当はレイの手を握りたくて仕方がないのに。
【義理の兄妹】という言葉を思い出すと、俺は以前のように彼女にスキンシップを取るということが怖くなってしまった。
無意識に深い深い、大きなため息が漏れた。
「ヒルス先生」
「……ん?」
「最近元気がないですね。大丈夫ですか?」
ジュースを片手に、ロイはじっと俺を見つめてくる。
「レイさんのことで悩んでいるみたいですね」
あまりにも真剣な眼差しだった。ロイからそんな言葉を投げかけられるものだから、俺はぎくりと焦りの感情が滲み出てしまう。
いや、だけど。もはや俺たちの事情には隠し事なんて何もない。それに、ロイは生徒の中でも唯一信用できる相手だ。
このモヤモヤを一人で抱え込んでいつまでも沈んでいるより、信頼できる相手に聞いてほしかった。
俺はロイの顔にしっかりと視線を向けて、自分の中に纏わりつく悩みの種を全て打ち明けることにした。
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