私の愛した彼は、こわい人

朱村びすりん

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第四章

43・悪魔

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 点滴を終え、会計をしてクリニックをあとにした。
 点滴のおかげか、今は吐き気やだるさは収まっている。
 けれど、気分はどん底に沈んだままだ。

 新宿の街を歩く。ノロノロと当てもなく歩く。
 忙しそうに道を行き交うサラリーマン。大きなキャリーケースを転がす観光客らしき外国の人たち。道路を走るたくさんの車。小さな街を覆う巨大なビル群。
 いつもと変わらない風景。それが今の私にとっては灰色の世界にしか映らない。

 西新宿駅前を過ぎたところで小さな神社を見つけた。こんな大都会に、神社なんてあったんだ。
 帰る前、境内に足を踏み入れてそこにあった石段に腰かけて休む。
 そのさなか、鞄から着信音が鳴り響いた。
 ……ジンさんからだ。
 一度躊躇するものの、震えた指で通話ボタンをタップする。

『アスカ? どうして家にいないんだ。今、どこにいるっ?』

 焦ったような声。
 時刻は午後三時過ぎ。
 ジンさん……もう帰ってきたんだね。

「今、西新宿駅近くです」
『駅のどの辺りだ?』
「神社があったのでそこで休んでいます。さっき病院に行ってきました」
『そんな。迎えに行く』
「いえ、大丈夫です。タクシーを拾ってすぐに帰りますから」
『まだ体調がよくないだろ?』
「点滴を打ってもらったら少し楽になりました。心配しないでくださいね」

 ジンさんは最後まで心配してくれていたが、私が大丈夫と言い続けると『気をつけて帰って来いよ』と納得してくれた。 
 ジンさん……ごめんなさい。本当はもう少しだけ一人になりたくて。帰りが遅くなるかもしれません。

 通話を切り、ぼんやりと境内を見回す。こぢんまりとしていて私以外誰もいない。考え事をするのに最適な環境だ。
 ふと鞄から取り出したのは、クリニックでもらったエコー写真。小さな命を写す、白黒の写真。

「妊娠七週だなんて……」

 エコー写真を眺めるうちに、ため息が溢れた。最近の体調不良はつわりの症状だったの?
 嘘だよ。タクトとの間にできた子だなんて。信じられない……信じたくない!
 息が上がり、心臓がバクバクとうるさく音を立てる。
 なんで。こんなことに。せっかく幸せになれたと思ったのに。ジンさんとこれから楽しい思い出をたくさん作るはずだったのに! 私は、タクトの呪縛から逃れられないの……?
 強く、自分のお腹を抱きかかえた。
 嗚咽が漏れる。止めようとしても無理だった。寒空の下、私は独り泣き叫ぶことしかできなかった。


 ──それから何分、何十分過ぎただろう。もしかして数時間が過ぎたのだろうか。
 体は冷え切り、顔中も涙や鼻水でびしょ濡れだった。
 ティッシュで顔周りを拭いた。頬がヒリヒリして痛い。
 全てから逃げ出したくなった。いっそ誰にも何も言わず、お腹の子と二人で……
 私の脳裏に、そんなことがよぎったときだった。

「アスカ」

 背後から、男の声が聞こえてきた。
 でもそれは……大好きな人の声なんかじゃない。
 幾度となく私を攻撃し、傷つけ、罵ってきた悪魔の声…… 

「タクト!?」

 目の前には、スーツ姿でこちらを見下ろすタクトが立っていた。

 な、なんで? なんでいるの……?
 心臓が止まりそうになり、体が強張って動かない。
 タクトはゆっくり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
 怖い。嫌だ。来ないで。来ないで!!
 恐怖のあまり目を背ける。
 すると──冷たい手に、体を触られた。強い力で引き寄せられた。
 ……タクトに、抱きしめられている。
 体が、心が、瞬時にタクトを拒否した。力が入らず、逃れることもできず。
 全身がガタガタと震える。

「アスカ。大丈夫?」

 耳元で、そう囁かれた。
 ……大丈夫なわけない。やめて。優しい声で喋らないで。

「すごく震えているよ。寒いんだね」

 違う。そうじゃない……。怖いの。あなたのことが、怖くてたまらないの!
 私がなにも言えずに固まっていると、タクトはおもむろに私の首元にマフラーを巻き付けようとしてきた。
 刹那、過去の出来事がよぎる。タクトから首を絞められ、罵られ、苦しめられた忌まわしい記憶。
 ハッとして、私はタクトの胸元を両手で押した。
 タクトは眉を顰めながらも笑っている。

「どうしたんだよ。寒そうだからマフラーであたためようとしただけだよ?」
「い、いらない」

 弱々しく、拒絶の言葉を口にするので精いっぱい。

「風邪を引いたら大変だろ? アスカは妊婦さん・・・・なんだから」
「……えっ?」

 どうしてタクトがそのことを……? 私だって、さっき知ったばかりなのに!?
 私が唖然とする横でタクトは不敵な笑みを浮かべる。

「驚かなくていいんだよ。僕は君のことなら全部わかってる」 
「なんで知ってるの!?」
「ククク……。怖がってるアスカも可愛いね」
「答えてよ。どうしてあなたが妊娠のことを知ってるの!?」

 タクトはサッと手を差し伸べ、私の鞄を指さした。

「アスカは鈍感だなぁ。君のバッグの中に、GPSと盗聴器を仕掛けておいたんだよ」
「え……? なに、それ」
「内側のポケット。その中に入っているよ。いつ気づかれるか心配だったけど、意外にわからないものなんだね。まあ、小さすぎるから仕方ないか」

 背中が、ゾクッとした。
 鞄に手を伸ばし、恐る恐る中を開けた。複数ある内ポケットの使っていない場所を覗いてみると……
 たしかに、あった。見覚えのない小型の機器が。小指よりも小さなもので、言われないとこれが何なのかすらわからない。

「いつからこんなもの……!」
「アスカが神楽に連れ去られた後だよ。荷物をアパートに置きっぱなしにしただろ。そのうちバッグを取りに戻ってくると思ったからさ、忍ばせておいたよ」

 タクトの顔は異常者そのもの。目が血走っていて、言動全てが狂っている。

「あのボロボロの御守りも、ついでに切り裂いてやったんだ。君があまりにも大事にしてたからさぁ。似合わないよ、綺麗なアスカには。ゴミみたいなものだ。僕って気が利くよね」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。
 小型機器を投げ捨て、感情のまま叫んでしまった。

「ふざけないで!!」

 私の怒りは、狭い境内に響き渡る。

「タクト、おかしいよ!! 私の鞄にこんなもの仕掛けて、ずっと監視してたんだよね!? それに……私の大事なものをあんな風に切りつけるなんて。どうかしてる。タクトはおかしい!!」

 息が上がり、顔が熱くなった。
 悔しくて、悲しくて、惨めでたまらない。こんな人に振り回されていた自分がみっともない。 
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