私の愛した彼は、こわい人

朱村びすりん

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第四章

46・愛する人の幸せを願って

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 そんな彼を嘲笑うかのように、タクトの話は止まらない。

「お前、父親がヤクザだからって組を補佐してたんだよな?」
「だったらなんだ」
「お前が十八になった以降、組に菊池リュウの名前を貸していたんだろ? 菊池組の所有する車、経営する店舗、さらには組員のスマホやアパートの契約までお前名義にしていた。そうだよなぁ、今の時代、ヤクザなんて条例のおかげで世間から追放されているも同然なんだから。だから堅気面してるお前が父親の組を支えるために、補佐していた。要するに、犯罪集団の活動に加担していたんだろ?」
「……そんなもの、昔のことだ」

 ジンさんの声が、震えている。
 ちょっと待って。一体、なんの話をしているの……。

「過去のことでも、許されるわけじゃない。神楽と偽名を使っている時点で、お前自身が自覚してるはずだ。なぁ、菊池リュウ?」
「黙れ小野!!」
「ああ。怖い怖い。その凶暴性、血は争えないね。さすが反社の息子だ」

 今にも殴り飛ばしそうなほど興奮するジンさんを小馬鹿にするタクト。
 もう、やめてよ。今はそんな話をしている場合じゃないでしょう……?

「なあ、アスカ。こいつは裏社会の人間なんだ。僕を差し置いて、こんな奴と一緒になることはないよ。新しい命も授かったことだし、これを機に僕のところに戻っておいで」

 ジンさんの手を振り払い、タクトは不気味なほど爽やかな笑みを浮かべた。
 もう、わけがわからない。
 タクトの突然の話に戸惑う反面、今の私はほぼ無関心だった。

「そこまでだ。これ以上無駄口を叩くと、どうなるかわかりませんよ、小野さん」

 高峰さんの口調は穏やかでありつつも、これまでにないほど低い声になっていた。
 ゆっくりとカウンターから出てくると、ポケットに手を入れてタクトを見下ろす。
 高峰さんのことを舐めるように眺め、タクトは面倒くさそうにため息を吐いた。

「あんた、菊池組の元若頭の高峰アツシだよね。この前僕があんたの店に遊びに行ってやったとき、ずいぶんと世話になったよね。あんたに叩かれたせいでまだ後頭部が痛むんだけど?」
「それはどうも失礼。しかしこちらも多大なる迷惑を被りました。これ以上、若に……神楽オーナーに関わるのはやめていただきたい」

 高峰さんはおもむろに胸ポケットから財布を取り出した。分厚い財布から取り出したのは、何枚も、何十枚も重なった一万円札。
 それをタクトに差し出した。

「どうかこれでお引き取りを」
「なんだよ、手切れ金か。やり方がヤクザらしいね。笑える。僕はこいつからアスカを取り戻すのが目的なんだ。金で解決できるとでも?」

 ね、アスカ? と、私のことをじっと見てくるタクト。差し出された札束を乱雑にテーブルに投げ飛ばした。
 タクトの異常性は、本物だ。本当にしつこくて、何度私が拒絶したって話が通じない。

「もうやめて……タクト。私はあなたと金輪際関わっていくつもりはないの」
「どうしてだ? アスカ。どうしても神楽と別れる気がないのか?」
「……ううん」

 俯き、私は小さく首を横に振る。

「ジンさんとも、別れなきゃって思ってます」
「は」

 私のひとことに、今の今まで荒れていたジンさんの顔が凍りついた。

「どういうことだ、アスカ……?」
「ジンさんも、わかっているはずです。このまま一緒にいても、お互い幸せになんかなれない」
「待て、そんなことはない。アスカと別れるなんて俺は考えられない」
「……ごめんなさい」

 タクトと一緒にいられないのはもちろん、ジンさんとの関係もこれで終わらせないといけない。
 胸の奥が痛くて痛くてたまらない。

「ふーん。それがアスカの答え?」

 面白くなさそうな顔をして、タクトは両腕を組んだ。

「子供はどうするつもり? まさか、産む気じゃないよね?」
「それは」

 容赦ない問いに、即答ができない。こんな自分が心底憎らしい。

「……もういい。アスカの気持ちは変わらないんだね。だったら面倒だ。堕ろせよ・・・・

 刃物のように鋭い口調で、タクトはそう言い放った。とんでもないひとことに、私は顔をしかめる。

「アスカと一緒にいられないなら、腹の子供に価値はない。中絶費の半分は出すから堕ろしてくれ」
「おいコラッ、お前いい加減にしろ!」

 ジンさんが再び絶叫し、拳を翳した。
 
「ジンさん、やめて……」
「でもアスカ!!」
「お願い。落ち着いてください」

 タクトが簡単に口にした言葉はあまりにも酷すぎる。価値がないだなんて。どうしてそんな酷いことを言えるの。
 でも、どれだけ悔しい思いをしても、今は冷静にならなきゃ。
 私の訴えに、ジンさんは眉間にしわを寄せた。震えながらも拳を引っ込める。

 私は鞄からエコー写真を取り出した。小さな命が映る、一枚の白黒写真。
 テーブルの上にそれを置いた。

「赤ちゃんのエコー写真です。元気に育ってるって、お医者さんが言ってました」

 赤ちゃんの大きさは、約十二ミリ。体重はおよそ四グラム。
 こんなにも小さな命が、私のお腹の中で今も生きている。

「私……最初妊娠してるかもって思ったとき、すごく不安だった。ううん。今も不安でいっぱい。だけど」

 声が、震えた。目の奥が熱くなった。涙が溢れ出してしまいそうだった。

「心臓が動いているのを見たの。赤ちゃんは、一生懸命生きようとしてる。だから私、この子を堕ろすかどうかなんて、今すぐには決められなくて……」

 私は優柔不断で、考えが甘い。悩んでいる時間なんてないのに。
 もし一人で産んだとしてもちゃんと育てるのは難しい。自分を苦しめてきた相手との子を産むなんてことも、常識的に考えて絶対にありえない。
 それなのに、中絶する決断ができない。
 自分で自分の感情がわからなかった。
 タクトは舌打ちをして、ついに私を睨んできた。

「君は本当にクソビッチだな」

 タクトの苛立ちは止まることを知らず。

「気の迷いで万が一産むと決めても、僕は絶対に認知しないよ。だけどこれだけは覚えておけ。必ず君を不幸にしてやるからな?」
「そこまでだ、小野。ここから出ていけ。二度と俺らにその面見せるんじゃねえ」
「言われなくてもそうするよ。僕もお前にはもう用はない」

 ジンさんと睨み合ってから、タクトは逃げるようにバーから立ち去っていく。
 私は冷めた心で、その後ろ姿を眺めた。

 その場はたちまち静寂に包まれた。放心状態で、頭がボーッとしている。
 これまでのやり取りを聞いていたユウキさんのすすり泣く声が、カウンターから聞こえてきて。本当に申し訳なくて。
 高峰さんは無表情で、テーブルに置き去りにされたお札の束を眺めている。
 ……最悪だと思った。何もかも。たった一日で、人生がどん底まで転落してしまった。 

 私が俯いていると、ふと、ジンさんに抱きしめられた。
 大好きな人からの抱擁。世界一癒やされるぬくもり。
 絶対に離れたくないって思っていたのに。

「アスカ……帰ろう」
「いえ、それはできません」

 私は静かに、ジンさんの腕の中から離れていく。

「これ以上ジンさんを巻きこむわけにはいきません。あなたとは一緒にいられません」

 ジンさんの瞳が揺れた。悲しみと戸惑いに満ちた表情。
 そんな顔、しないで。
 私は偽物の笑みを浮かべた。

「今までお世話になりました。私はジンさんの幸せを願っています」

 私の最後のひと言を聞いた彼の瞳からは──大粒の涙が溢れ出た。
 悲しみの雫を見て見ぬふりをし、私はBarオアシスから立ち去った。

 全てが嫌になる。全部なかったことにしたい。それが叶わないのなら、消えてなくなってしまいたい──。
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