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第二章

やりたいことと、やりたくないこと

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 彼女は赤いシャツを着ていて、学校にいるときと比べて雰囲気が違う。私服だから、というわけじゃない。たぶん、メイクをしているからか。目元がさりげなくキラキラしていて、さらに大人っぽく見える。
 彼女を前にして、俺の心が一気に弾んだ。
 だが、隣には関さんがいる。業務中でもあるわけだから、ここはあくまでもマニーカフェ店員として対応しよう。

 今日の彼女の注文は、抹茶クリームラテだった。俺が奢ると言ったのだが「別にいい」と軽くあしらわれてしまった。
 この前ご馳走すると、俺が一方的に約束したんだけどな。

「あんまりしつこいと、もう店に来ないわよ?」

 そう言われてしまっては、仕方がない。渋々彼女からお金を受け取り、俺は抹茶ラテを作り始めた。スチームミルクをカップに注ぎ、ホワイトクリームと抹茶パウダーを盛り付けていく。

 出来上がった商品を、このまま彼女に手渡してもいい。だが俺は、諦めが悪い奴なんだ。
 抹茶クリームラテを差し出しながら、俺は彼女に囁いた。

「六時にバイトが終わるから、それまで待っていてくれないかな」

 彼女は一瞬だけ目を見開いた。数秒だけ間を置いてから、ぎこちなく、ゆっくりと頷いた。
 彼女は無言で俺から背を向け、窓際の席に座った。参考書らしきものを開き、耳にイヤホンをつけて勉強を始めたみたいだ。

 来てくれたのが嬉しくて、つい彼女を誘ってしまった。後悔したって遅いが、迷惑じゃなかったか心配になる。

「おいイヴァン」

 関さんの、低い声が真横で聞こえた。俺は内心、どきりとする。

「す、すみません」
「まだなんも言ってねぇよ」

 いえ、だいたい想像はつきます。今のやり取りを注意するんですよね?
 俺が身構えていると、関さんは肩をすくめた。

「別に知人が来て喜ぶのは構わねえよ」
「そんなわけには」
「いいから、これだけは覚えておけ。客とは一定の距離を保つよう意識しろ。のちのち面倒なことになりかねないからな」
「え?」

 一定の距離とは……? どういうことだろう。
 今までにない注意を受け、俺は思わず首を傾げる。
 いや、やっぱり彼女とのやり取りを注意されてるんだ。知人や友人が来店しても、業務中は店員としての立場を忘れるなと関さんは言いたいんだろう。
 
「すみません。今後は気をつけます」
「わかりゃいい」

 このときの、関さんの表情がどことなく固くなっている気がした。
 

 ──バイトが終わり、店を出た頃には陽が沈みかけていた。夕焼け空を見上げると、うっすら飛行機雲が描かれているのが目に映る。
 明日はまた雨になるのかな。

 店の裏側から表に出ると、不意にポケットの中のスマートフォンが受信音を鳴らした。

 ……嫌な予感しかしない。

 気乗りしないが、仕方なく中身を確認してみる。
 すると案の定、父親からのメッセージが届いていた。
 
《イヴァン、バイトは終わったか。今朝の件について、よく考えてほしい。お前が本当に日本に残りたいなら、将来どうするのかを決めるんだ。お前がやりたいことを優先したい。だが、日本にいるきちんとした理由が見つからないのなら、イギリスで暮らすことも視野に入れるんだぞ》

 その文言を見た瞬間、忘れていたはずのイライラが再び復活してしまう。

 どの口が言っている? 俺がやりたいことをやらせてくれたことなんて、一度たりともないだろうが。

 俺の頭の中で、苦い過去が蘇る。楽しいとは言いがたい、小学生時代の話だ──
 俺は、親に言われていくつもの習い事に通っていた。学習塾はもちろん、水泳やダンス、フットボールに加えてピアノやその他もろもろやらされた。
 塾のおかげで、苦手教科を少しでも克服できた。水泳教室に通ったことにより、泳げるようになった。ダンスレッスンを受けたから、体幹は強くなったしリズム感もよくなったと思う。ピアノのセンスはいまいちだが、譜面を読めるようになった。フットボールクラブに所属した経験から、体力の向上だけでなくチームワークの大切さも学んだ。
 だがそれらは、どれもこれも俺自身がやりたかったものではない。日曜日以外は毎日なにかしらの習い事で予定が埋まっていた。友だちと遊ぶ時間はほぼなかった。
 習い事をしている時間は、苦痛以外のなにものでもない。たまに学校行事や体調不良などで休めたときは、この上ないほどの至福だった。最高に怠い日は、仮病を使った。サボりに成功すると、また次もなにか理由を考え、サボりたくなる。
 つまらない習い事なんて、俺にとってはストレスの塊に過ぎなかったんだ。
 だから小学校卒業を機に、通っていた教室は全て辞めさせてもらった。これまで手にしたことがなかった自分の時間。自由が増えた日常は、天国に感じた。

 その反動からか、中学生になってからは部活動など一切入らなかった。友だちと遊んだり、家でゲームをしたり、漫画や小説を読んだり、とにかく好きに過ごしていた。

 これは、俺にとってあまりよくない経験になっているかもしれない。少なくともプラスの方向には転がっていない。
 俺は高校生になった。なにをしたいのか、好きなことはなんなのか。自分でも分からなくなってしまったんだ。

 でも──なにも持っていない俺でも、ひとつだけはっきりと言える。
 俺は日本で生まれ育ってきた。文化も習慣も食の好みも、この国のものに慣れ親しんでいる。どんなに混んでいても、列が乱れない日本。食事をする前は、必ず「いただきます」と手を合わせる日本人。旨くてヘルシーな和食料理。その他も全部、日本で生まれ育ったからこそ知れたよさだ。高校を卒業したとしても、この国から離れたくない。可能ならば、いつか帰化したいと思っている。
 頑固で自己中な父親にそう伝えたとしても、簡単には頷いてくれないだろうが。

 メッセージに返信することもなく、俺はスマートフォンの画面を睨みつけながら立ち尽くしていた。

「──なに? 恐い顔して」

 ハッとした。聞き慣れた、女性の冷めた声。前を向くとそこには、彼女が呆れたような顔をして立っていたんだ。

「待てって言うからあなたを待ってたのに。ずいぶん遅いのね。店を出たら、あなたが機嫌悪そうな顔して突っ立ってるんだもの。驚いたわ」

 まずい、彼女を待たせてしまった。しかも、無意識のうちに心のイライラが表に出てしまっていたようだ。
 俺は慌てて首を横に振る。

「ごめん……少しだけ、考え事をしてた」

 思わず口ごもってしまった。
 こんな俺を見て、彼女は小首をかしげる。

「らしくない。なにか、あったの?」
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