もう我慢の限界ですわ〜私は、ただの都合の良い婚約者ではありません――もう、二度と私に話しかけないでくださいませ

野良うさぎ(うさこ)

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九尾、皿を洗う①


 俺、刹那・アイギスは畳の上で目を覚ました。

 いや、目を覚ましたというより、気絶から戻ったという方が近いのかもしれない。

 身体が痛い。胸も痛い。目も痛い。あと、腹が減っている。

「……朝、か」

 カーテンのない窓から差し込む朝日がやけに眩しかった。

 昨日の夜、俺はロゼッタが作ってくれたクッキーを食べて、自分でもよくわからないくらい泣いた。
 泣いて、泣いて、泣いて……気がついたら朝になっていた。

 畳が少し濡れている。……俺の涙か。

 男が一晩中泣くなんて情けない。昔の俺ならそう思っただろう。でも、今は違う。
 情けないと分かっていても、泣かずにはいられなかった。

 ロゼッタがくれたクッキーは、皿の上から消えていた。俺が食べた。一枚一枚、大事に食べるつもりだったのに、最後は泣きながら全部食べてしまった。

「……なくなった、な」

 口の中には、もう甘さは残っていない。残っているのは、胸の奥に刺さった後悔だけだった。

 俺はゆっくりと起き上がる。すると、腹の虫が鳴った。

 ……そうだ。腹が減っている。

 今までは、目が覚めれば食事が用意されていた。侍女が着替えを持ってきて、執事が予定を読み上げて、湯浴みも、髪の手入れも、全部、誰かがやってくれていた。

 だが、ここには誰もいない。

 あるのは畳と、小さな机と、昨日買った食器と、焦げた肉じゃがの残骸が入った鍋だけ。


 俺は立ち上がり、焦げた鍋を見る。

 料理とは、こんなにも黒くなるものなのか?

 昨日、俺が作ろうとした肉じゃがは、肉でもじゃがいもでもなく、もはや呪物だった。

 ロゼッタは毎日、俺のために弁当を作っていた。
 あの色とりどりの弁当箱の中身は、どうやって出来ていたのだろう。

 俺は、あれを食べて、点数をつけていた。

 点数……。

「……馬鹿か、俺は」

 声に出すと、胸がまた痛くなった。自分の胸をどんっと叩く。痛みは感情を紛らわしてくれる。

 皿を持ち上げる。昨日、クッキーを乗せていた皿だ。他にも肉じゃがを作った時の道具。洗わなければならない。

 そう思って、流しの前に立った。

「洗う、とは一体どうすればいいんだ?」

 水を出す。皿を濡らす。じっと見る。綺麗になったように見える。

 いや、指で触ると少し油っぽい。たぶんクッキーのバターだ。

「そうだ洗剤だ! 洗剤は……」

 昨日、ジョシュアと買った袋の中から、透明な液体が入った瓶を取り出す。これか?

 説明を読む。

『少量でよく泡立ちます』

 少量とは、どのくらいだ? くそ、もっと正確な分量を書いてくれないとわからない。

 俺は適当に瓶を傾けた。

「多ければ多いほどいいんだろう」

 勢いよく水を出したら流しが泡に支配された。

「な、なんだこれは!? 術式反応か!?」

 泡が流しから溢れそうになる。
 俺は慌てて手で押さえた。泡は手の隙間から逃げる。くっ、かくなる上は上級術で――

 その時、部屋の扉がドンドンと叩かれた。

「アイギス君! 朝から何してるの!? 騒がしいよ!」

「ジョシュア! 来てくれ! 水が泡に変わった!」

「そんなわけないでしょ!!」

 扉を開けると、ジョシュアが顔を引きつらせながら立っていた。手には紙袋を抱えている。

 ……よかった。食事か? だが、肉じゃがの残りも食べなければ。食材に失礼だ。

「その顔、ひどいね。目、真っ赤だよ」

「ああ。俺はひどい男だからな」

「そういう返しを朝一番からされると、こっちが困るんだけど……。というか、流し! 泡!」

 ジョシュアは慌てて部屋に入り、流しの前に立った。
 そして、俺が持っていた洗剤瓶を見て固まった。

「……どれくらい入れたの?」

「少量だ」

「絶対に嘘だよね?」

「少量の定義が分からなかった」

「分からないなら聞いてよ! いや、誰もいなかったか……」

 ジョシュアはブツブツ言いながら、泡をどうにかしてくれた。
 水の出し方、皿の持ち方、洗剤の量、すすぎ方、布巾で拭くこと。そんな当たり前のことを、一つ一つ説明してくれた。

 俺はその説明を聞きながら、胸の奥が重くなっていくのを感じた。

 皿を一枚洗うだけで、こんなにも手順がある。

 ロゼッタは俺の弁当箱を洗っていたのだろうか。
 食材を切って、煮て、焼いて、詰めて、包んで、持たせて、俺が食べ終わった後の容器までどうにかしていたのだろうか。

 俺は、その手間を何も知らなかった。

「……ジョシュア」

「なに?」

「俺はロゼッタに、どれだけのことをさせていたんだ?」

 ジョシュアの手が止まった。

 彼は俺を見た。少し驚いたような顔をして、それから目を伏せた。

「いやね、それを、これから知るんだと思うよ」

「……そうか」

「あと、今日から予定があるよ」

「予定とは?」

 ジョシュアは紙袋から一枚の封筒を取り出した。
 封蝋には、母上――ビオレッタの印が押されている。

 俺は封筒を受け取った。
 中には、短い手紙が入っていた。


『アイギスへ。

 今日から、あなたは私の店で働きなさい。
 皿洗いから始めること。

 給金は最低賃金。
 食事は賄い。
 勤務態度が悪ければ、店主が罰します。

 なお、術で誤魔化した場合は三倍働かせます。

 あなたを愛する母より』


 なんとも言えない感情が胸に広がった。母様はまだ俺を見捨てていない。ならば、期待に答えなければ。

 くっ、込み上げてくる嗚咽を止めないと。もう俺は泣かないと決めたんだ。

「……しかし、皿洗いか」

 ジョシュアの目が細くなる。

「あ、今、『俺が皿洗いなんて』って思ったでしょ」
 
 こいつは俺の心が読めるのか?

「……正直少しだけ思った」

「そこから直そうね」

「……ああ」

 俺は素直に頷いた。

 以前の俺なら、ジョシュアにそんなことを言われたら不快に思っただろう。
 だが、今は違う。不快というより、恥ずかしい。

 俺は本当に、何も知らない。

 ジョシュアは次に、もう一枚の紙を出した。

「それと、セリア様から三つの禁止事項」

 ジョシュアが真剣な顔で俺を見つめる。……こいつ、随分と清々しい顔をしているな。なかなかの美男子だったんだな。
 ジョシュアは続ける。

「一つ目。ロゼッタさんに勝手に会いに行かないこと」

「もちろんだ」

「二つ目。謝罪を、自分が楽になるための道具にしないこと」

「……ああ」

「三つ目。復縁を目的に反省しないこと」

「……ん?  それはなぜだ? 俺は真実の愛に気がついて――」

 ジョシュアの顔が苦み走る。なんともわかりやすい。俺の答えが間違っているんだろう。

「僕も偉そうなことは言えないけどさ。アイギス君が変わる理由が『ロゼッタさんに戻ってきてほしいから』だけだったら、それはロゼッタさんをまた目的にしてるんだよ」

「目的か、なるほど。確かにそうだ。俺はロゼッタと復縁したいがために努力をするつもりだ」

「うん。それね、ロゼッタさんの気持ちより、自分の望みを優先してるよ」

 俺は言葉を失った。

 ロゼッタとやり直したい。その気持ちはある。今もある。胸が痛いほどある。こんなに苦しいなら愛になんて気が付かなければよかったと思えるほどだ。

 ロゼッタは美しい。ロゼッタは愛らしい。だが、見た目以上に素晴らしい内面の女性であり……。

 あ、そうか、復縁を迫るなんてまた、俺の気持ちを押しつけられたと感じるのではないか?

 俺は、昨日までそれすら分かっていなかった。

「……では、俺は何のために変わればいいと思う?」

 ジョシュアは少し困った顔をした。
 それから、ゆっくりと言った。

「自分がもう、誰かを同じように傷つけないためじゃないかな」

 胸に手を当てる。胸の奥が、また痛くなる。

 ロゼッタのために変わる。
 それは聞こえがいい。

 でも、それすら俺の都合なのかもしれない。

「魂に刻みつけた。俺はもう誰も傷つけない」

 ジョシュアがそっと俺を抱きしめてくれた。親愛のハグ。なんだか気恥ずかしいが、とても心が安らぐ。

「うん、アイギス君ならきっと大丈夫」

「ああ、俺が失敗しそうになったら止めてくれ」

「帝都でアイギス君に勝てる人なんて、三人位しかいないからね。可能な限り頑張るよ」

 ジョシュアはそう言って、少しだけ笑った。

 俺はその笑みに救われたような気がした。

 ……友達というのは、こういうものなのかもしれない。

 それにしてもジョシュアの身体が随分と熱く感じる。人の体温を知らないからこんなものなのだろう、と思いながら、ハグは随分と長く続いた。
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