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5章 幸せの形
13-3
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13-3
それからまた時間が進んだ。どれくらい経ったのかは分からない、相変わらず真っ暗闇の中だ。
「ぃた……おなか、すいた……」
ライラの声は、信じられないくらい弱っていた。
(飢えだ……)
空気の問題は解決しても、食べ物が無ければどうにもならない。ライラは口元で何かをしゃぶっていたが、どうやらそれはライラを縛っていた縄のようだ。そんなものしゃぶっても腹がふくれるはずもないが、ライラにもはや正常な判断力は残っていないようだった。
「ライラ……」
アルフの声も、ずいぶんかすれていた。今まで、ずっと飲まず食わずだったのだろうか……
「おに……ちゃん。おなか、すいた……」
ライラはうわ言のように、お腹空いたと繰り返している。これ、かなりまずいんじゃないか……?
「ライラ………………わかった。僕は、お前を生かすためならなんだってすると誓った。それが嘘じゃないことを、ここで証明するよ」
アルフはかすれた、だが決意に満ちた声でそう言った。何をする気だろう?
すると、かすかに何かを引き裂く様な、ビリリという音が聞こえてきた。アルフの荒い息遣いと、つぶやくような声が混じっている。
「母さん……ごめん」
しばらくすると、その音は止んだ。そしてライラの鼻さきに、なにかぬるっとしたものが触れた。
「ライラ。これをお食べ」
「これ……なに……?」
「ねずみだ。さっき見つけたんだ。生で食べにくいだろうけど、お食べ」
ライラは最後まで聞かずに、その肉に夢中でかぶりついた。味は俺には分からなかったが、ずいぶん固い肉のようだ。ライラはその肉にずっとしゃぶりついている。
「ライラ……お前は、せめてお前だけでも、生き延びてくれ……」
アルフのかすかな声を最後に、またしても記憶は途切れた。
次の場面もやはり暗闇だったが、ライラはいくぶんか元気を取り戻していた。反対に、アルフはもうほとんど虫の息だったが……
「おにぃちゃん……だいじょうぶ?」
「ああ……ライラ、お腹は空いてないかい……?」
「うん、すいた……またあのねずみのおにく、たべたいな」
「そっか……なら、ライラ。次はねずみじゃなくて、もっと大きな獣を見つけようと思うんだ……」
「おおきな?」
「ああ。そうだな……モグラ、モグラがいい。モグラの巣穴を見つけて、ここに持ってきてあげるよ……」
「うん。へへ、たのしみ……」
「だからね、ライラ。僕はモグラを探しに、ちょっと出かけてこようと思うんだ……」
「え。おにぃちゃん、いっちゃうの?ライラもいっしょにいく!」
「ダメだよ、ライラ。お前は土の魔法が使えないから、ここから出られないじゃないか……」
「え……でも、おにぃちゃんは?」
「ライラ、今まで言ってなかったけどね。実は僕は、地と水の魔力を持っているんだ……」
「そう……だったの?しらなかった」
「うん。結局、お前みたいに魔法は使えなかったけど……だからね、僕は大丈夫。僕がモグラを見つけたら、ここに置いておいてあげるから、必ず食べるんだよ……どんなに大きくても、頑張って食べるんだ。いいね?」
「うん……?」
「それで、もしも……もしも土の魔法が使えるようになったら、それを使ってここから抜け出すんだ。絶対無理だなんて、思っちゃいけないよ……」
「うん。けど、おにぃちゃんは?それに、おかーさんも……」
「……平気さ。僕も母さんも、ライラのそばにずっといるよ。だから、お前だけは必ずここから出るんだ。諦めないって、約束してくれるね……?」
「うん……わかった。そうする」
「よし。いいこだ……」
アルフのかさかさの手が、ライラの顔に触れた。撫でようとしているのかもしれないが、手はほとんど動いていない。
「おにぃちゃん……そとにでたら、またあえるよね?」
「もちろん……ぼくたちは、いつだっていっしょに……」
アルフの手が離れる。それからアルフは、これまで堪えていたものを解き放つかのように、ふうーと深く息を吐くと、それきりしゃべらなくなった。ライラが何度呼びかけても、もうアルフが返事を返すことはなかった。
「もう、いっちゃったのかな……」
ライラが闇の中に一人呟く。俺には、あれがアルフの最期の言葉だったように思えた。
ライラは一人になってしまった。俺はアルフがライラを外に逃がしたのだとばかり思っていたから、これからどうやってライラが脱出するのか、さっぱり分からなくなった。けど、この記憶を最後までたどれば、ライラがどうしてグールになってしまったのか、その真相が明らかになるはずだ……
記憶は次の場面へと移った。ライラのお腹がくぅくぅと鳴っている。ライラは、またも飢えていた。
「…………」
闇の中には、もうライラのかすかな息遣いしか聞こえない。アルフの気配も、母親の気配も、もう無かった。
「……あれ?」
ライラのつま先に、何かが触れた。ライラが手を伸ばすと、ふわっとした毛のようなものに指先が触れる。
「……もぐらだ」
ライラがそれを引き寄せた。
「おにぃちゃんが、もぐらをおいていってくれたんだ。じゃあ、これをたべなきゃ」
もぐら?けど、ここは密閉された箱の中だ。獣が迷い込んでくるはずは……だがライラは口を大きく広げると、躊躇なくそれにかぶりついた。
ぐちゃり……
ライラがそれを食べきるまで、かなりの時間がかかった。俺はライラが何を食べたのか、深く考えないようにした。どっちにしてもこの暗闇の中では、正体を確かめることもできない。
それを食べ終えたライラは、なおも闇の中で、魂が抜けたかのようにだらりと横たわっていた。腹は満たされたはずだが、こんな劣悪な環境に居続けているんだ。空腹以外にも、どこか体に支障が出ても、おかしくない。
「おにぃちゃん……おかーさん……」
返事は返ってこない。
「……ここを出なきゃ。おにぃちゃんが、外で待ってるんだ」
ライラはむくりと起き上がると、自分の気力を奮い起こすように強く言った。けなげで、痛ましかった……この小さな体のどこに、それだけの力が残っているのか。考えると、胸が痛くなる。
「どこか、すき間が無いかな……」
ライラは手探りで狭い木箱の中を探る。しかし、その前にさんざんアルフが調べつくしたのだ、人ひとりが抜け出せるほどの穴があるはずもない。ライラは次第に癇癪を起して、壁や天面を手当たり次第に殴りつけた。
「このっ!開いてよ!」
箱はびくともしなかった。ライラが暴れたせいで、箱の中の酸素が薄くなり、ライラは荒い息をして床にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……こんなの、どうやって……」
弱音をこぼしそうになるライラだったが、すんでのところで唇を引き結んだ。
「……諦めないって、約束したんだ。かならずここを出て、おにぃちゃんに会うんだ」
ライラは魔法を唱えて、新鮮な空気で箱を満たすと、再び壁を叩き始めた。一度だけ、強い風を起こして天面の一部を破壊したりもしたが、そこから結構な量の土が降り注いできたため、ライラは天井をふっ飛ばすことは諦めた。
「でも、この穴から土を掘り返せば……」
ライラは壊したすき間に腕を突っ込み、土を少しずつ掘り始めた。しかし土は重く固く、ライラの細腕ではほとんど掘り進むことはできなかった。それでも手の届く範囲の土を全て掻きだすころには、ライラの左手の爪はほとんど剥がれてしまっていた。
「これ以上は、掘れない……」
ライラは精根尽き果てて、床にゴトリと倒れた。体力はとっくの昔に限界だっただろうが、気力だけでここまで動き続けていた。その気力までもが、今、切れた。
「おにぃちゃん……おかーさん……」
そのままライラは、少しのあいだ眠ってしまったようだ。次に目を覚ました時、ライラは指一本動かす体力すら残っていなかった。
「……」
ライラは薄く開いた目の間から、光の差さない暗闇を見つめていた。時おり、瞳の前をほんの小さな影が横切る気がした。最初は錯覚かとも思ったが、おそらくライラが掘った穴の中から、虫が湧いてライラに群がっているんだ。やがてライラが力尽きれば、今度はライラが、彼らの食べ物となるのだろう……
(いや、そうはならない。だってライラは、現在まで生きている……)
しかし、ライラの命は今にも尽きかけそうだった。今やライラの体で動いているものは、たった一つしかない。息をする肺すらも、その役割を放棄していた。ただ唯一、心臓だけが、最後のあがきを見せるように、どくんどくんと激しく脈打っていた。
「……」
(……?)
なんだ?さっきから、妙な感覚がある……体を這いまわる虫なんかじゃない。なんて言えばいいのか……体の中心から、湧水が染み出しているみたいなんだ。そう、心臓の鼓動にあわせて、見えない水が全身を満たすような……
ドックン!
「ッ!!!」
ライラが突然、ひきつけを起こしたように体を震わせた。心臓が、心臓が熱い!俺は今までにない経験にどぎまぎしていた。だって、こうして過去の記憶をのぞくときに、これだけはっきりした“感覚”を味わったことはなかったから。それだけの、普通じゃない特別な何かが、ライラの身に起ころうとしているのか。
「くぁ……!」
ライラが小さくうめき声を漏らす。ライラの心臓は胸から飛び出そうとでもいうのか、激しく肋骨を打ちつけている。その度にライラの体は弓なりに反りかえった。
「うぁぁ……」
体から湧き出してくる感覚は、最高潮に達していた。皮膚の薄皮一枚はさんだすぐ下まで、謎の力が満ち満ちているようだ。破裂寸前の、水風船のような……俺は、そんな場違いなものを思い出していた。
「うあああああぁぁぁあぁぁ!!!」
ライラが絶叫する。次の瞬間、ライラの中で、何かが弾けた。
ドドオオオォーーーン!
…………
(…………な、なんだ?いったい、何が……?)
世界が、吹き飛んだ。俺は一瞬、本気でそう思った。辺りを覆っていた暗く重い闇は跡形もなく消えさり、ぐっと世界が広がった。風の音、虫の声、星の瞬きが聞こえる……まばたきをするほどのわずかな間に、木箱は砕け、土は巻き上げられた。ライラは、ついに外へと脱出したのだ。
(魔法で穴を掘ったのか?)
辺りの様子をうかがう。闇が晴れ、とてつもなく明るくなったように感じたが、実際には外は夜だった。月明りがこんなにまぶしいなんて……
「ここ、どこ……?」
ライラの周囲には大穴が開き、クレーターのようになっていた。斜面をのぼってそこから這い出してみると、辺りは墓石に囲まれた陰気な墓地だった……ここ、もしかしてサイレンヒル墓地じゃないか?こんなところに埋められていたのか。けど、死体を隠すなら最も自然な場所だ。
「ここ、お墓だ……そうだ、おにぃちゃんは!」
ライラが墓地をきょろきょろと見渡す。だがそこに、アルフの姿はあるはずもなかった。それでもライラは懸命に、兄の姿を探す。その時ライラは、今しがた出てきた大穴の底に、白と赤のまだら模様の塊が転がっていることに気付いた。
(う、あれは……)
「え……」
俺には、それを直視することはできなかった。あまりにもつらすぎる……
それは、人間二人分の、変わり果てた遺体だった。肉は削げ落ち、あちこちが腐りかけている。衣服は何も身に着けておらず、体の下に隠すように押し込められていた。服もなく顔も腐っていたが、残った赤色の毛髪で辛うじて、それが誰かくらいは、判別ができそうだった……
「うそ……」
ライラが穴のふちにがっくりと膝をつく。
「どうして……だって、外に出てるって……なんで」
ライラはその時、はっとしたように口元を抑えた。
「いつ……おにぃちゃんは、いついなくなったんだっけ……?おかしいよ、だってあそこにあったのは、モグラだったはずなのに。ライラ、ライラは……?」
ライラは目を、はち切れそうなほど見開く。瞳がキュッと細くなる。
「・・・・・・・」
そこから先は、声がかすれて聞き取れなかった。だが俺には口の動きで、なんと言ったかが分かった。
“なにたべたっけ”
「……そんな、そんな」
ライラはがくがく震えると、自分の髪をわしづかみした。
「そんなはずない!ちがう、ライラがそんなことするはずない!」
ライラは取り乱し、激しく頭を振った。そして両手で土をかき集めると、それを穴の底の遺体に向かって投げかけ始めた。まるで見えないように隠してしまえば、それをなかったことにできると思っているみたいだった……
「きえろ、きえろ、きえろ……」
ライラは一心に土をかき集めていたが、ふと思い出したように、おもむろに両手を前に突き出した。
「ま、ま、マウルヴルフ!」
ライラが手で宙をすくうように動かすと、大量の土が、まるで透明なスコップにすくい上げられたように宙に浮かんだ。土は遺体の佇む穴の上まで行くと、その中へと降り注いだ。どさささっ!
「で、できた。地のまほー……」
ライラの魔法によって、穴は完全に埋められた。ライラは、今まで使えなかったはずの地属性魔法を、使えるようになっていた。
「なんでだろう、魂の性質は変わらないはずなのに……まるで……」
ぐぐぅー。その時ライラの胃袋が、獣の唸り声のような音を発した。忘れていた飢えの苦しみが、ここに来て再びライラを襲ってきたのがわかった。
「うぅ……何か、食べるもの……」
ライラは視線をさまよわせ、ふと、さっき魔法で掘り返した一角を見つめた。そこの地面は深くえぐれ、墓の下に埋まっていたはずの屍が露出してしまっていた。
「……お肉だ」
(え?)
ライラはふらふらと、その屍に近づいていく。そして屍のすぐそばに膝をつくと、ぐっと身を乗り出した。まさか……
「……これは、お肉だから。ライラはおかしくなってなんかないよ。お肉を食べるのは、普通のことだもん……」
ライラは死肉にかぶりつき、むしゃむしゃと食べ始めた。俺はその時、ライラの中で決定的な何かが変わってしまったのだと気づいた。
(そうか。こうして、グールが生まれたんだな……)
理由は、わからない。もしかすると、人の死体に口を付けるという、許されざる行為の代償なのかもしれない……だけど、これだけは言える。ライラはもう、人間ではないんだ。
俺は屍を貪るライラの後姿を眺めながら、ぼんやりと思った。俺の視界は、もうライラのものではなくなっていた。ライラを離れ、俺の見る景色はだんだんかすみ、ぼやけてくる。そして夢から覚める時のように、俺の意識はゆっくり現実へと浮上していった。
つづく
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読了ありがとうございました。
続きは【翌日0時】に更新予定です(日曜日はお休み)。
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「ぃた……おなか、すいた……」
ライラの声は、信じられないくらい弱っていた。
(飢えだ……)
空気の問題は解決しても、食べ物が無ければどうにもならない。ライラは口元で何かをしゃぶっていたが、どうやらそれはライラを縛っていた縄のようだ。そんなものしゃぶっても腹がふくれるはずもないが、ライラにもはや正常な判断力は残っていないようだった。
「ライラ……」
アルフの声も、ずいぶんかすれていた。今まで、ずっと飲まず食わずだったのだろうか……
「おに……ちゃん。おなか、すいた……」
ライラはうわ言のように、お腹空いたと繰り返している。これ、かなりまずいんじゃないか……?
「ライラ………………わかった。僕は、お前を生かすためならなんだってすると誓った。それが嘘じゃないことを、ここで証明するよ」
アルフはかすれた、だが決意に満ちた声でそう言った。何をする気だろう?
すると、かすかに何かを引き裂く様な、ビリリという音が聞こえてきた。アルフの荒い息遣いと、つぶやくような声が混じっている。
「母さん……ごめん」
しばらくすると、その音は止んだ。そしてライラの鼻さきに、なにかぬるっとしたものが触れた。
「ライラ。これをお食べ」
「これ……なに……?」
「ねずみだ。さっき見つけたんだ。生で食べにくいだろうけど、お食べ」
ライラは最後まで聞かずに、その肉に夢中でかぶりついた。味は俺には分からなかったが、ずいぶん固い肉のようだ。ライラはその肉にずっとしゃぶりついている。
「ライラ……お前は、せめてお前だけでも、生き延びてくれ……」
アルフのかすかな声を最後に、またしても記憶は途切れた。
次の場面もやはり暗闇だったが、ライラはいくぶんか元気を取り戻していた。反対に、アルフはもうほとんど虫の息だったが……
「おにぃちゃん……だいじょうぶ?」
「ああ……ライラ、お腹は空いてないかい……?」
「うん、すいた……またあのねずみのおにく、たべたいな」
「そっか……なら、ライラ。次はねずみじゃなくて、もっと大きな獣を見つけようと思うんだ……」
「おおきな?」
「ああ。そうだな……モグラ、モグラがいい。モグラの巣穴を見つけて、ここに持ってきてあげるよ……」
「うん。へへ、たのしみ……」
「だからね、ライラ。僕はモグラを探しに、ちょっと出かけてこようと思うんだ……」
「え。おにぃちゃん、いっちゃうの?ライラもいっしょにいく!」
「ダメだよ、ライラ。お前は土の魔法が使えないから、ここから出られないじゃないか……」
「え……でも、おにぃちゃんは?」
「ライラ、今まで言ってなかったけどね。実は僕は、地と水の魔力を持っているんだ……」
「そう……だったの?しらなかった」
「うん。結局、お前みたいに魔法は使えなかったけど……だからね、僕は大丈夫。僕がモグラを見つけたら、ここに置いておいてあげるから、必ず食べるんだよ……どんなに大きくても、頑張って食べるんだ。いいね?」
「うん……?」
「それで、もしも……もしも土の魔法が使えるようになったら、それを使ってここから抜け出すんだ。絶対無理だなんて、思っちゃいけないよ……」
「うん。けど、おにぃちゃんは?それに、おかーさんも……」
「……平気さ。僕も母さんも、ライラのそばにずっといるよ。だから、お前だけは必ずここから出るんだ。諦めないって、約束してくれるね……?」
「うん……わかった。そうする」
「よし。いいこだ……」
アルフのかさかさの手が、ライラの顔に触れた。撫でようとしているのかもしれないが、手はほとんど動いていない。
「おにぃちゃん……そとにでたら、またあえるよね?」
「もちろん……ぼくたちは、いつだっていっしょに……」
アルフの手が離れる。それからアルフは、これまで堪えていたものを解き放つかのように、ふうーと深く息を吐くと、それきりしゃべらなくなった。ライラが何度呼びかけても、もうアルフが返事を返すことはなかった。
「もう、いっちゃったのかな……」
ライラが闇の中に一人呟く。俺には、あれがアルフの最期の言葉だったように思えた。
ライラは一人になってしまった。俺はアルフがライラを外に逃がしたのだとばかり思っていたから、これからどうやってライラが脱出するのか、さっぱり分からなくなった。けど、この記憶を最後までたどれば、ライラがどうしてグールになってしまったのか、その真相が明らかになるはずだ……
記憶は次の場面へと移った。ライラのお腹がくぅくぅと鳴っている。ライラは、またも飢えていた。
「…………」
闇の中には、もうライラのかすかな息遣いしか聞こえない。アルフの気配も、母親の気配も、もう無かった。
「……あれ?」
ライラのつま先に、何かが触れた。ライラが手を伸ばすと、ふわっとした毛のようなものに指先が触れる。
「……もぐらだ」
ライラがそれを引き寄せた。
「おにぃちゃんが、もぐらをおいていってくれたんだ。じゃあ、これをたべなきゃ」
もぐら?けど、ここは密閉された箱の中だ。獣が迷い込んでくるはずは……だがライラは口を大きく広げると、躊躇なくそれにかぶりついた。
ぐちゃり……
ライラがそれを食べきるまで、かなりの時間がかかった。俺はライラが何を食べたのか、深く考えないようにした。どっちにしてもこの暗闇の中では、正体を確かめることもできない。
それを食べ終えたライラは、なおも闇の中で、魂が抜けたかのようにだらりと横たわっていた。腹は満たされたはずだが、こんな劣悪な環境に居続けているんだ。空腹以外にも、どこか体に支障が出ても、おかしくない。
「おにぃちゃん……おかーさん……」
返事は返ってこない。
「……ここを出なきゃ。おにぃちゃんが、外で待ってるんだ」
ライラはむくりと起き上がると、自分の気力を奮い起こすように強く言った。けなげで、痛ましかった……この小さな体のどこに、それだけの力が残っているのか。考えると、胸が痛くなる。
「どこか、すき間が無いかな……」
ライラは手探りで狭い木箱の中を探る。しかし、その前にさんざんアルフが調べつくしたのだ、人ひとりが抜け出せるほどの穴があるはずもない。ライラは次第に癇癪を起して、壁や天面を手当たり次第に殴りつけた。
「このっ!開いてよ!」
箱はびくともしなかった。ライラが暴れたせいで、箱の中の酸素が薄くなり、ライラは荒い息をして床にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……こんなの、どうやって……」
弱音をこぼしそうになるライラだったが、すんでのところで唇を引き結んだ。
「……諦めないって、約束したんだ。かならずここを出て、おにぃちゃんに会うんだ」
ライラは魔法を唱えて、新鮮な空気で箱を満たすと、再び壁を叩き始めた。一度だけ、強い風を起こして天面の一部を破壊したりもしたが、そこから結構な量の土が降り注いできたため、ライラは天井をふっ飛ばすことは諦めた。
「でも、この穴から土を掘り返せば……」
ライラは壊したすき間に腕を突っ込み、土を少しずつ掘り始めた。しかし土は重く固く、ライラの細腕ではほとんど掘り進むことはできなかった。それでも手の届く範囲の土を全て掻きだすころには、ライラの左手の爪はほとんど剥がれてしまっていた。
「これ以上は、掘れない……」
ライラは精根尽き果てて、床にゴトリと倒れた。体力はとっくの昔に限界だっただろうが、気力だけでここまで動き続けていた。その気力までもが、今、切れた。
「おにぃちゃん……おかーさん……」
そのままライラは、少しのあいだ眠ってしまったようだ。次に目を覚ました時、ライラは指一本動かす体力すら残っていなかった。
「……」
ライラは薄く開いた目の間から、光の差さない暗闇を見つめていた。時おり、瞳の前をほんの小さな影が横切る気がした。最初は錯覚かとも思ったが、おそらくライラが掘った穴の中から、虫が湧いてライラに群がっているんだ。やがてライラが力尽きれば、今度はライラが、彼らの食べ物となるのだろう……
(いや、そうはならない。だってライラは、現在まで生きている……)
しかし、ライラの命は今にも尽きかけそうだった。今やライラの体で動いているものは、たった一つしかない。息をする肺すらも、その役割を放棄していた。ただ唯一、心臓だけが、最後のあがきを見せるように、どくんどくんと激しく脈打っていた。
「……」
(……?)
なんだ?さっきから、妙な感覚がある……体を這いまわる虫なんかじゃない。なんて言えばいいのか……体の中心から、湧水が染み出しているみたいなんだ。そう、心臓の鼓動にあわせて、見えない水が全身を満たすような……
ドックン!
「ッ!!!」
ライラが突然、ひきつけを起こしたように体を震わせた。心臓が、心臓が熱い!俺は今までにない経験にどぎまぎしていた。だって、こうして過去の記憶をのぞくときに、これだけはっきりした“感覚”を味わったことはなかったから。それだけの、普通じゃない特別な何かが、ライラの身に起ころうとしているのか。
「くぁ……!」
ライラが小さくうめき声を漏らす。ライラの心臓は胸から飛び出そうとでもいうのか、激しく肋骨を打ちつけている。その度にライラの体は弓なりに反りかえった。
「うぁぁ……」
体から湧き出してくる感覚は、最高潮に達していた。皮膚の薄皮一枚はさんだすぐ下まで、謎の力が満ち満ちているようだ。破裂寸前の、水風船のような……俺は、そんな場違いなものを思い出していた。
「うあああああぁぁぁあぁぁ!!!」
ライラが絶叫する。次の瞬間、ライラの中で、何かが弾けた。
ドドオオオォーーーン!
…………
(…………な、なんだ?いったい、何が……?)
世界が、吹き飛んだ。俺は一瞬、本気でそう思った。辺りを覆っていた暗く重い闇は跡形もなく消えさり、ぐっと世界が広がった。風の音、虫の声、星の瞬きが聞こえる……まばたきをするほどのわずかな間に、木箱は砕け、土は巻き上げられた。ライラは、ついに外へと脱出したのだ。
(魔法で穴を掘ったのか?)
辺りの様子をうかがう。闇が晴れ、とてつもなく明るくなったように感じたが、実際には外は夜だった。月明りがこんなにまぶしいなんて……
「ここ、どこ……?」
ライラの周囲には大穴が開き、クレーターのようになっていた。斜面をのぼってそこから這い出してみると、辺りは墓石に囲まれた陰気な墓地だった……ここ、もしかしてサイレンヒル墓地じゃないか?こんなところに埋められていたのか。けど、死体を隠すなら最も自然な場所だ。
「ここ、お墓だ……そうだ、おにぃちゃんは!」
ライラが墓地をきょろきょろと見渡す。だがそこに、アルフの姿はあるはずもなかった。それでもライラは懸命に、兄の姿を探す。その時ライラは、今しがた出てきた大穴の底に、白と赤のまだら模様の塊が転がっていることに気付いた。
(う、あれは……)
「え……」
俺には、それを直視することはできなかった。あまりにもつらすぎる……
それは、人間二人分の、変わり果てた遺体だった。肉は削げ落ち、あちこちが腐りかけている。衣服は何も身に着けておらず、体の下に隠すように押し込められていた。服もなく顔も腐っていたが、残った赤色の毛髪で辛うじて、それが誰かくらいは、判別ができそうだった……
「うそ……」
ライラが穴のふちにがっくりと膝をつく。
「どうして……だって、外に出てるって……なんで」
ライラはその時、はっとしたように口元を抑えた。
「いつ……おにぃちゃんは、いついなくなったんだっけ……?おかしいよ、だってあそこにあったのは、モグラだったはずなのに。ライラ、ライラは……?」
ライラは目を、はち切れそうなほど見開く。瞳がキュッと細くなる。
「・・・・・・・」
そこから先は、声がかすれて聞き取れなかった。だが俺には口の動きで、なんと言ったかが分かった。
“なにたべたっけ”
「……そんな、そんな」
ライラはがくがく震えると、自分の髪をわしづかみした。
「そんなはずない!ちがう、ライラがそんなことするはずない!」
ライラは取り乱し、激しく頭を振った。そして両手で土をかき集めると、それを穴の底の遺体に向かって投げかけ始めた。まるで見えないように隠してしまえば、それをなかったことにできると思っているみたいだった……
「きえろ、きえろ、きえろ……」
ライラは一心に土をかき集めていたが、ふと思い出したように、おもむろに両手を前に突き出した。
「ま、ま、マウルヴルフ!」
ライラが手で宙をすくうように動かすと、大量の土が、まるで透明なスコップにすくい上げられたように宙に浮かんだ。土は遺体の佇む穴の上まで行くと、その中へと降り注いだ。どさささっ!
「で、できた。地のまほー……」
ライラの魔法によって、穴は完全に埋められた。ライラは、今まで使えなかったはずの地属性魔法を、使えるようになっていた。
「なんでだろう、魂の性質は変わらないはずなのに……まるで……」
ぐぐぅー。その時ライラの胃袋が、獣の唸り声のような音を発した。忘れていた飢えの苦しみが、ここに来て再びライラを襲ってきたのがわかった。
「うぅ……何か、食べるもの……」
ライラは視線をさまよわせ、ふと、さっき魔法で掘り返した一角を見つめた。そこの地面は深くえぐれ、墓の下に埋まっていたはずの屍が露出してしまっていた。
「……お肉だ」
(え?)
ライラはふらふらと、その屍に近づいていく。そして屍のすぐそばに膝をつくと、ぐっと身を乗り出した。まさか……
「……これは、お肉だから。ライラはおかしくなってなんかないよ。お肉を食べるのは、普通のことだもん……」
ライラは死肉にかぶりつき、むしゃむしゃと食べ始めた。俺はその時、ライラの中で決定的な何かが変わってしまったのだと気づいた。
(そうか。こうして、グールが生まれたんだな……)
理由は、わからない。もしかすると、人の死体に口を付けるという、許されざる行為の代償なのかもしれない……だけど、これだけは言える。ライラはもう、人間ではないんだ。
俺は屍を貪るライラの後姿を眺めながら、ぼんやりと思った。俺の視界は、もうライラのものではなくなっていた。ライラを離れ、俺の見る景色はだんだんかすみ、ぼやけてくる。そして夢から覚める時のように、俺の意識はゆっくり現実へと浮上していった。
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