石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ

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石榴の月㉛

石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 鞘から静かに刃を抜き、その切っ先を白い喉許に当てる。その刹那、白刃が月の明かりに煌めいた。刃は己れの喉にピタリとつけたまま、お民は腹部に手のひらを押し当てた。
 医者の診立てでは、腹の子は既に四月(よつき)に入っているという。考えたくもないことだが、月数から考えれば、三月(みつき)前の弥生の末、椿の花冠を浮かべた風呂で嘉門に幾度も抱かれたあの頃に身ごもったに違いなかった。
 忌まわしい夜を思い出させるだけの赤児、嘉門に犯され夜毎責め立てられた陵辱の証。腹の子を不憫だと思う心はあったけれど、ただ弄ばれただけの末に身ごもった子を愛しいとは思えない。
 ここに、生命が、小さな新しい生命が息づいている。でも、その生命の芽は摘み取られてしまうだろう。他ならぬこの母の手で。
 お民が息絶えれば、共に腹の子も死ぬ。子どもには何の罪もないけれど、母に疎まれて生きてゆくよりは、よほど幸せかもしれない。
 何より、お民自身がもう限界だ。予期もせぬ懐妊を知ったその瞬間、お民の心は壊れてしまった。源治に再び逢える日だけを愉しみに今日まで何とか辛い日々にも耐えてきたが、もう、これですべてが終わりだ。
 張りつめていた糸が断ち切られたように、お民の心には最早、生きる力も、生きたいと願う気持ちもない。源治の許に帰るという目的があったからこそ、お民は生きてこられたのだ。
 そのたった一つの道標(みちしるべ)を失った今、お民がこの世に存在する意味もなくなってしまった。
 お民が鈍く光る刃を力を込めて引こうとしたまさにその時。
「何をしている、止めよッ」
 嘉門の悲鳴のような声が張りつめた静けさを破って響き渡った。走ってきた嘉門に有無を言わさず懐剣を取り上げられる。
 嘉門はお民から奪った懐剣を手の届かぬ場所に放り投げた。
「そなたは自分が何をしでかそうとしておったか判っているのか?」
 嘉門の怒気を孕んだ声が降ってくる。うなだれたお民の頬を刹那、火球が炸裂するかのような痛みが見舞った。
「それほどまでに俺の子を生むのが厭なのか。自分で自らの生命を絶とうと思うほどに!」
 頬を押さえて瞳にうっすらと涙を滲ませたお民に、嘉門は静かすぎる声音で言う。それは先刻までの怒りに満ちた荒々しさの片鱗すら残してはいない。
 お民を打った嘉門の方が、打たれた当人のお民よりも辛そうな顔をしていた。痛みを堪(こら)えるような眼で嘉門はお民を見つめた。
「腹の子に罪はない。頼む、漸く待ち望んだ子に恵まれたのだ。生んではくれぬか」
 どれほどの静寂が続いただろう、唐突に嘉門が言った。
「そなたにとっても待ち望んだ子ではないのか?」
 お民は溢れる涙をぬぐおうともせずに、眼を伏せた。
 四年前に亡くなった我が子兵太を一日として忘れた日はなかった。兵太を突如として失ってからというもの、ずっと子どもが欲しいと焦がれるように願ってきたのだ。だが、その祈りにも似た望みがこのような形で叶えられるとは想像だにしなかった。
 兵太を失ってから、最初の良人兵助との間に二度と子は恵まれず、一度は、再び母となることを諦めようとさえした。兵助の死後、源治と再婚して一年、月のものが少しでも遅れる度、もしや―と儚い希望を抱いたが、その度にがっかりして泣くことになった。
 そんなことの繰り返しだった。
 それなのに、嘉門に抱かれるようになってたった数ヵ月で、何故、自分は身ごもってしまったのだろう。このときほど、己れの苛酷な宿命(さだめ)を恨めしいと思ったことはなかった。
「良いな、馬鹿げたことは二度と考えるでないぞ。折角授かった子ではないか、身体をいとうて、健やかな子を生め」
 嘉門の手がそっとお民の頬に触れる。
 つい今し方、嘉門が殴った箇所だった。まだかすかに痛みが残っているその場所を、嘉門が撫でた。
「判ったな」
 念を押すような口調には、到底逆らいがたいものがある。
 お民は力なく頷くしかなかった。
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