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蓮野に降る雪

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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  蓮野に降る雪
 
 もう、どれくらい歩いただろうか。
 サヨンは鉛のように重い脚を引きずるようにして歩いた。
 屋敷を出ること自体は、考えていたよりははるかに容易かった。丁度、二人が居た場所が庭の最奥部であったこともあり、二人は手近な塀を乗り越えて易々と脱出したのだ。
 お嬢さま育ちのサヨンは、これまで塀を乗り越えて外に出た経験はない。トンジュは先に自分が楽々と塀に飛び乗り、後に続くサヨンを逞しい腕で引き上げてくれたのだった。
 サヨンは塀の上でかなりまごついた。屋敷をぐるりと取り囲む塀はかなりの高さがあるのだ。しかも、そのときのサヨンはチマを穿いていた。その姿で飛び降りるのは正直、躊躇われたものの、先に着地したトンジュに励まされ、ようよう眼を瞑って身を躍らせたのだ。
 下で待っていたトンジュはサヨンを難なく両腕で受け止めた。彼の力強い腕にしっかりと抱き止められた時、サヨンは自分でもはしたないと思うほど胸の鼓動が速くなった。
 が、一方のトンジュはといえば、実に淡々とした態度で、あっさりと手を離したし、これまでにサヨンが知る彼と何一つ変わらない。
 恐らく、トンジュにとっては自分は女には見えないのだろう。それも無理はない。子どものときから互いを知っていて、あまつさえ、サヨンは彼には、どこまで行っても主家の〝お嬢さま〟なのだ。
 なりゆきで行動を共にすることにはなったけれど、彼が自分を異性として殊更、意識しているとは思えなかった。まるで、自分一人だけがトンジュの一挙手一投足に振り回されているようで、少し惨めだった。
「どうしました?」
 屋敷を出てまだ半刻余りしか経っていないのに、早くもサヨンの息は上がり、足取りは鉛のように重かった。
 普段からろくに歩いた試しがないのだ。要するに、意思とは裏腹に身体がついてゆかないのである。
 サヨンは眉を寄せ、かぶりを振った。
「脚が少し」
 サヨンはしきりに悲鳴を上げる右の脹ら脛を撫でながら訴えた。
「痛むのですか?」
 数歩先を歩いていたトンジュが引き返してくる。もうかなり前から、サヨンはトンジュの速さについてゆけず、遅れがちになっていた。トンジュの身になって考えれば、ここは少しでも遠くまで進んでおきたいところだろう。
 サヨンとトンジュの二人がほぼ同時にいなくなったことが知れれば、当然ながら、二人の関係が取り沙汰されるに相違ない。
 サヨンが事前に心配したとおり、家僕が世間知らずの主家の娘を誑かして逃げた―と誰もが思い込むはずだ。
 そうなれば、時を経ずして追っ手が放たれる。何しろ明日に婚約式を控えた娘の失踪だ。父が血眼になってサヨンを探すであろうことは容易に想像がついた。下手をすれば、今夜の中には役所に届けが出され、役人までもが二人の捜索に乗り出すかもしれない。
 屋敷を出る前、トンジュはこの逃避行を一か八かの賭だと言ったけれど、確かにそのとおりなのだった。トンジュは真の自由を得るために、自らの生命を、すべてを賭けたのだ。
 それだけではない、サヨンの逃亡を助けるためにも多大な犠牲を払った。万が一、捕まったとしても、サヨンの身は無事だが、恐らくトンジュの生命はない。二人して捕まったときの顛末を考えると、サヨンはトンジュに心底申し訳ないと思うのだった。
「どれ、少し見てみましょう」
 トンジュがそう言って、屈み込む。いきなりチマの裾を捲られ、サヨンは声にならない声を上げた。
「何をするの!?」
「脚が痛むのなら、どうなっているのか実際に見てみないと判りませんよ」
 トンジュの声はやはり何の感情も窺えず、平坦だ。
 唖然としているサヨンには構わず、トンジュはサヨンがチマの下に穿いているズボンまで捲ろうとした。
「止めて」
 サヨンは脚を引っこめようとするが、強引な手は脹ら脛から離れようとしない。トンジュはサヨンの脚を眺め、淡々とした様子で告げた。
「腫れていますね。塀に上るときにでも挫いたのかもしれない」
 なるほど、自分の眼にも右の脹ら脛から足首にかけて薄赤く腫れているのが判った。
「すぐにでも、ちゃんとした手当をした方が良いのですが、今はどうにもなりません」
 トンジュは懐から小さな巾着を取り出した。中から小振りな容器を出し、蓋を開けている。
「これは私の生まれた村に古くから伝わる薬ですよ。打ち身や捻挫にとてもよく効くんです」
 トンジュは言いながら、再びしゃがみ込んだ。どうやら、この薬を塗るらしい。
「―きれいな脚だ」
 ふいに、そろりと脹ら脛を撫でられ、サヨンはピクリと身を震わせた。
「トンジュ? 薬を塗ってくれるのではないの?」
 サヨンが訝しげに問うのに、トンジュは頷いた。
「私の村は都から少し離れた場所にありますが、はるか昔から様々な薬草を採って、それを売って生計を立ててきたのです。これを塗れば、何とか悪化させずに歩き続けることができるかもしれない」
「そういえば、トンジュの生まれ故郷の話を聞くのは初めてだわ」
 少しだけ興味を引かれて訊ねると、彼は淡く微笑った。
「つまらない話しかありませんよ。お嬢さまのように都生まれの都育ちの方には想像もできない貧しい村ですので」
「自分のふるさとをそんな風に言うものではないわ。ね、また、いつかトンジュの故郷の村の話を聞かせて」
 わざと歩く明るく言うと、トンジュが笑った。
「いつか、ね。それにしても、白い膚だ。俺の村も真冬にはたくさん雪が降るんです。こんな風にすべらかな真っ白な雪が」
 トンジュの声がいつしか熱を帯びている。
 まるで歌うように喋りながら、彼はサヨンの脚を優しい手つきで撫でている。
「旦那さまがお嬢さまを掌中の玉と愛でていたお気持ちが今になってよく判りますね。お嬢さまは宝だ。宝は屋敷の奥深くに隠して、けして誰にも奪われないようにしまっておくものなんです」
「ねえ、トンジュ。薬を早く塗って」
 早く手を離して欲しいと思うのに、トンジュは執拗に脚に触れた。サヨンが急かすまで、トンジュはサヨンの脚をまるで憑かれたように撫で続けていた。薬を塗り終えてから、サヨンは立ち上がろうとして思わず呻いた。
「痛ッ」
 トンジュが溜息をついた。
「仕方ありませんね、少しだけここで休んでいきましょうか」
 トンジュの横顔は硬かった。
 サヨンは申し訳なさで一杯になりながら謝る。
「ごめんなさい。私のせいで、予定が遅れてしまうわね」
 トンジュは何も言わず、無表情に前方を見つめているだけだ。
 沈黙に押し潰されそうになった時、トンジュが唐突に口を開いた。
「お嬢さまは俺に触れられるのは嫌ですか?」
 え、と、サヨンは思いもかけない言葉に眼を見開いた。
 トンジュがほろ苦く笑う。
「俺がさっき脚に触れた時、すごく嫌そうに見えたから」
 サヨンは首を振った。
「そういうわけではないの。あの―、誤解しないで。トンジュが嫌というわけではなくて、誰でもよ。他の誰にも身体を触れられるのは嫌いなの」
 先刻、トンジュの手と自分の手が触れあったときは、むしろ胸のときめきを憶えたほどだった。しかし、あのときはサヨンの方が呆気ないと思うほどあっさりと手を放したし、手をほんの束の間だけ繋ぐのと、脚を執拗に触れられるのとは訳が違う。
 流石に〝馴れ馴れしく〟という形容は控えた。今のサヨンは既に〝コ家のお嬢さま〟ではない。身分も名前も何もかもを棄てて家を出てきたからには、今やトンジュとの間に身分の隔たりはない。
 むしろ、トンジュがいてくれなければ、サヨンは屋敷を出たら即刻、一人では何もできないほどの世間知らずなのだ。
「でも、お嬢さまは近々、李家に嫁ぐはずだったんですよ? 嫁ぐということが何を意味するかは知っていたでしょうに」
 話が変な方向に向かい始め、サヨンは頬を赤らめて狼狽えた。
「そんな話は止めましょう」
「どうして? お嬢さまはいずれ俺に―」
 言いかけ、トンジュは首を振った。
「そうですね。今はまだ呑気にこんな話をしている場合ではない。そろそろ行きましょうか。そうそうのんびりしていられませんので」
 トンジュの後について歩きながら、サヨンは俄に不安がどす黒く胸の内を染めてゆくのを感じていた。
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