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見知らぬ花婿③
第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」
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「もし、そこの方」
千種が声をかけると、小男は眼を丸くした。更に千種が雪膚の妙齢の女だと判り、赤面する。純情な男なのだろう。
「不躾なことをお訊ねしますが、懐の中を確かめられた方が良いですよ」
「―?」
不審げな貌ながらも、男は片手を懐に突っ込んだ。途端に、その貌が蒼白になった。
やっぱりと、千種は自分の読みが外れてはいなかったことを今更ながらに知った。
「やはり、盗られていましたか?」
「は、はいっ」
男は泣きそうな表情で幾度も頷いた。
千種は肩を竦めた。
「あやつは掏摸(すり)ですよ。玄人(くろうと)かどうかまでは判りませんが、かなりの手練れであることは確かなようです。ここで大人しく待っていて下さい。あなたは騒がない方が良い、私が盗まれた財布を取り返してあげますから」
「あ、あなたが?」
誰が見ても可憐な娘があの大男に立ち向かっていくなぞ、およそ正気の沙汰とも思えない。現に男も眼をぱちくりさせていたが、その前に千種は男の前から姿を消していた。
それにしても、逃げ足の速いヤツだ。千種は大男の後を付かず離れず追いながら、妙なところで感心する。
大男は付けられているとは露も知らず、大股で歩いているが、その貌には余裕の笑みが浮かんでいた。さて、そろそろ哀れな男が掏られた財布を取り返してやろうか。千種は深呼吸した。
こう見えても、幼い頃から庭の樹によじ登ったり、屋敷を抜け出して物珍しい市をひやかして歩くのは日常茶飯事だ。父康正は千種のお転婆ぶりを知ってはいたけれど、生涯嫁げぬ宿命を背負った娘が不憫なのか、見て見ぬふりをしてくれたから、叱られることもなかった。
恐らく今でも木登り比べをしたら、あの小猿よりは敏捷に登れる自信はある。
目抜き通りを抜け、人気が殆どなくなった細道に差し掛かった頃、千種は漸く大男を呼び止めた。
「ちょっと、そこのお兄さん」
何度目かに漸く大男が立ち止まった。いかにも面倒臭そうに振り向くのに、相手が美人と知るや、現金なもので、眼の色が変わる。その眼に下卑た光が宿るのも無視して、千種は腕組みをした。
「お兄さん、さっき、隣の人から財布を擦ったでしょ」
いきなり罪を暴かれて大男は真っ赤になった。
「な、何を言いがかりをつけやがるんでぇ」
「言いがかり? あくまでもそう言い張るのなら、それでも良いけれど、それじゃまず、お兄さんの懐の中を検めさせて貰っても良いかしら?」
挑発するように上目遣いに見やると、大男は更にゆであげた蛸のように真っ赤になった。
「こいつ、別嬪だと思ってりゃア、調子に乗りやがって」
大男が拳を固めて突き出してきた一撃を、千種はひらりと鮮やかな身のこなしで交わす。以後も似たようなもので、千種は自分から攻撃を仕掛けることもなく、次々と繰り出される相手の攻撃を難なくよけていった。
だが、身軽さにおいては勝っていても、所詮は女である。それが長く続くと、千種の息も上がってきて、身のこなしも遅くなってくるのは、いかんともしがたい。それでも、かなりの間、千種は男の攻撃をすいすいと交わし続けていたが、流石に疲れを感じ始めると、焦った。
―そろそろ決着をつけた方が良さそうね。
そう思った隙を突かれたのか、向こうの手をよけ損ね、むんずと左腕を掴まれてしまった。
万事休す。しかも、掴まれた腕ごとグイと引き寄せられ、空いた方の手で胸のふくらみを厭らしく揉まれたものだから、堪らない。
「いやっ」
思わず悲鳴を上げて、大男の頬を思いきりはたいてしまった。
「何をしやがる! この性悪女め、このままねぐらへ連れ帰って仲閒としっかり可愛がってやろうか」
大男の双眸に閃くのは、何ともおぞましい光だ。まるで、この場で小袖も何もかも剥ぎ取られて裸にされ辱められているかのようで、この眼で眺められているだけで鳥肌が立ちそうだ。
千種が怯えているのが伝わったらしく、男はニヤリと淫らな欲望を滾らせた笑みを浮かべ、その場に彼女を押し倒した。無骨な手がまた伸びてきて、先刻より遠慮なく胸を包み込む。更に男の貌が近づいてきて、生暖かい吐息が首筋にかかった。
吐く息が異様に臭く、千種は思わず貌を背けた。
「いやっ、誰か。助けて」
こんなところで卑しい男に陵辱されてしまうのかと思えば、死んだ方がマシだと思う。祝言からはや四年、形ばかりの良人頼経とは貌を合わせることもなく日々が過ぎている。
実のところ、一、二度は政子に泣きつかれたらしい頼経が寝所を共にしようと遣いを通じて誘ってきたこともあったのだが、千種の方で丁重に辞退した。自分を疎んじている年若い良人と今更、お義理で同衾して戴かなくても結構、それほどの誇りは身代わり姫の千種にも許されるはずだ。
政子から叱責されるかと覚悟していたのに、頼経のお召しを辞退したことについて、特に何も言われなかった。
十六も年下の良人と今になって結ばれるとも結ばれたいとも考えてはいないけれど、こんなことなら、頼経のお召しを拒まず受けていれば良かったと一瞬、後悔がちらりと掠めた。路傍で名も知らぬ男に純潔を奪われるのは末代までの恥辱だ。
たとえ賤(しず)の男(お)でも、志や優しさの欠片でも持つ男ならまだしも、こんな心の卑しい男は絶対にいやだ。この時、千種が嫌ったのは男の身分ではなく、人間としてのさもしさだった。
「助けてーっ」
大声を出した刹那、右頬に鋭い痛みを感じた。殴られたのだ。まるで火球が炸裂したかのような一撃で、眼の前に白い火花が散った。
「煩せェ女だな。こう騒がれたら、ろくすっぽ愉しめねえ」
大男は千種の口に厭な匂いの染みついた布の塊を押し込んだ。布そのものについた悪臭と異物を容赦なく押し込まれたことで、嘔吐(えず)きそうになった。涙眼で睨み上げると、男が荒んだ笑いを浮かべる。
「その負けず嫌いな眼がそそられるねぇ。男を挑発するような、誘うような何とも良い眼だ」
男が再び手を伸ばしてこようとしたまさにその時、鋭い一喝が二人の間に割って入った。
「止さぬか!」
凜とした声音と共に現れたのは、背の高い男だった。愕いた千種と大男がほぼ同時に声の主を見やる。
「か弱き女人一人に大の男が昼日中から狼藉を働くとは、許しがたい」
まだ若い男らしく、均整の取れた引き締まった身体は無駄に縦も横も大きい蛸入道とは対照的だ。
大男が吠えた。
「余計なお世話なんだよ、この青臭せぇガキがよ」
大男の拳が繰り出される寸前、若者は大男をあっさりと交わした上に、その巨躯を軽々と両手で持ち上げた。横向きにまるで荷物を持ち上げるように高々と掲げられ、大男は狼狽えた。
「なっ、何をする。ここいらの漁師仲閒では、ちったア、名の知られた元六(げんろく)をこんな眼に遭わせて、ただで済むと思うなよ、若造」
「元六などとたいそうな名前は、お前のような卑劣漢には勿体ない。これからは、阿呆六と名乗るが良い」
若者が鼻を鳴らすと、大男が真っ赤になった。
「な、何だとォ―」
更に吠えようとした大男の声はそのまま途切れた。若い男が大男を持ち上げたまま、放り投げたからだ。巨体は軽々と鞠のように飛んでゆき、やがて大きな音を立てて地面に落ちた。
男はフンとまた鼻を鳴らし、つかつかと千種の方に歩いてきた。
「とんだ災難だったな」
彼は千種の口から詰め物を取ってくれ、更に手を貸して助け起こしてくれた。
「大丈夫か?」
気遣わしげに問うが、千種は返事ができなかった。身代わり姫となるまでも、〝紫〟となってからも、彼女は度々住まいを抜け出しては鎌倉の町をお忍びで闊歩したものだ。
これまで、こんな危うい目に遭遇したことは一度たりともなく、もちろん伴の者を連れていたこともない。だが、一歩間違えば、一人で出歩くことは、こんなにも無防備なのだと初めて知り、衝撃を受けてしまったのである。
千種の瞳にはまだ涙の雫が残っている。その涙を見て、男はハッとした表情になった。
「可哀想に、さぞ怖かったのであろうな。どこの娘かは知らぬが、これより後は無闇に無頼の輩に拘わってはならぬ」
「あっ、そういえば」
千種は商人風の男に盗まれた財布を取り返してやると約束したことを思い出し、男にそれを告げた。
千種が声をかけると、小男は眼を丸くした。更に千種が雪膚の妙齢の女だと判り、赤面する。純情な男なのだろう。
「不躾なことをお訊ねしますが、懐の中を確かめられた方が良いですよ」
「―?」
不審げな貌ながらも、男は片手を懐に突っ込んだ。途端に、その貌が蒼白になった。
やっぱりと、千種は自分の読みが外れてはいなかったことを今更ながらに知った。
「やはり、盗られていましたか?」
「は、はいっ」
男は泣きそうな表情で幾度も頷いた。
千種は肩を竦めた。
「あやつは掏摸(すり)ですよ。玄人(くろうと)かどうかまでは判りませんが、かなりの手練れであることは確かなようです。ここで大人しく待っていて下さい。あなたは騒がない方が良い、私が盗まれた財布を取り返してあげますから」
「あ、あなたが?」
誰が見ても可憐な娘があの大男に立ち向かっていくなぞ、およそ正気の沙汰とも思えない。現に男も眼をぱちくりさせていたが、その前に千種は男の前から姿を消していた。
それにしても、逃げ足の速いヤツだ。千種は大男の後を付かず離れず追いながら、妙なところで感心する。
大男は付けられているとは露も知らず、大股で歩いているが、その貌には余裕の笑みが浮かんでいた。さて、そろそろ哀れな男が掏られた財布を取り返してやろうか。千種は深呼吸した。
こう見えても、幼い頃から庭の樹によじ登ったり、屋敷を抜け出して物珍しい市をひやかして歩くのは日常茶飯事だ。父康正は千種のお転婆ぶりを知ってはいたけれど、生涯嫁げぬ宿命を背負った娘が不憫なのか、見て見ぬふりをしてくれたから、叱られることもなかった。
恐らく今でも木登り比べをしたら、あの小猿よりは敏捷に登れる自信はある。
目抜き通りを抜け、人気が殆どなくなった細道に差し掛かった頃、千種は漸く大男を呼び止めた。
「ちょっと、そこのお兄さん」
何度目かに漸く大男が立ち止まった。いかにも面倒臭そうに振り向くのに、相手が美人と知るや、現金なもので、眼の色が変わる。その眼に下卑た光が宿るのも無視して、千種は腕組みをした。
「お兄さん、さっき、隣の人から財布を擦ったでしょ」
いきなり罪を暴かれて大男は真っ赤になった。
「な、何を言いがかりをつけやがるんでぇ」
「言いがかり? あくまでもそう言い張るのなら、それでも良いけれど、それじゃまず、お兄さんの懐の中を検めさせて貰っても良いかしら?」
挑発するように上目遣いに見やると、大男は更にゆであげた蛸のように真っ赤になった。
「こいつ、別嬪だと思ってりゃア、調子に乗りやがって」
大男が拳を固めて突き出してきた一撃を、千種はひらりと鮮やかな身のこなしで交わす。以後も似たようなもので、千種は自分から攻撃を仕掛けることもなく、次々と繰り出される相手の攻撃を難なくよけていった。
だが、身軽さにおいては勝っていても、所詮は女である。それが長く続くと、千種の息も上がってきて、身のこなしも遅くなってくるのは、いかんともしがたい。それでも、かなりの間、千種は男の攻撃をすいすいと交わし続けていたが、流石に疲れを感じ始めると、焦った。
―そろそろ決着をつけた方が良さそうね。
そう思った隙を突かれたのか、向こうの手をよけ損ね、むんずと左腕を掴まれてしまった。
万事休す。しかも、掴まれた腕ごとグイと引き寄せられ、空いた方の手で胸のふくらみを厭らしく揉まれたものだから、堪らない。
「いやっ」
思わず悲鳴を上げて、大男の頬を思いきりはたいてしまった。
「何をしやがる! この性悪女め、このままねぐらへ連れ帰って仲閒としっかり可愛がってやろうか」
大男の双眸に閃くのは、何ともおぞましい光だ。まるで、この場で小袖も何もかも剥ぎ取られて裸にされ辱められているかのようで、この眼で眺められているだけで鳥肌が立ちそうだ。
千種が怯えているのが伝わったらしく、男はニヤリと淫らな欲望を滾らせた笑みを浮かべ、その場に彼女を押し倒した。無骨な手がまた伸びてきて、先刻より遠慮なく胸を包み込む。更に男の貌が近づいてきて、生暖かい吐息が首筋にかかった。
吐く息が異様に臭く、千種は思わず貌を背けた。
「いやっ、誰か。助けて」
こんなところで卑しい男に陵辱されてしまうのかと思えば、死んだ方がマシだと思う。祝言からはや四年、形ばかりの良人頼経とは貌を合わせることもなく日々が過ぎている。
実のところ、一、二度は政子に泣きつかれたらしい頼経が寝所を共にしようと遣いを通じて誘ってきたこともあったのだが、千種の方で丁重に辞退した。自分を疎んじている年若い良人と今更、お義理で同衾して戴かなくても結構、それほどの誇りは身代わり姫の千種にも許されるはずだ。
政子から叱責されるかと覚悟していたのに、頼経のお召しを辞退したことについて、特に何も言われなかった。
十六も年下の良人と今になって結ばれるとも結ばれたいとも考えてはいないけれど、こんなことなら、頼経のお召しを拒まず受けていれば良かったと一瞬、後悔がちらりと掠めた。路傍で名も知らぬ男に純潔を奪われるのは末代までの恥辱だ。
たとえ賤(しず)の男(お)でも、志や優しさの欠片でも持つ男ならまだしも、こんな心の卑しい男は絶対にいやだ。この時、千種が嫌ったのは男の身分ではなく、人間としてのさもしさだった。
「助けてーっ」
大声を出した刹那、右頬に鋭い痛みを感じた。殴られたのだ。まるで火球が炸裂したかのような一撃で、眼の前に白い火花が散った。
「煩せェ女だな。こう騒がれたら、ろくすっぽ愉しめねえ」
大男は千種の口に厭な匂いの染みついた布の塊を押し込んだ。布そのものについた悪臭と異物を容赦なく押し込まれたことで、嘔吐(えず)きそうになった。涙眼で睨み上げると、男が荒んだ笑いを浮かべる。
「その負けず嫌いな眼がそそられるねぇ。男を挑発するような、誘うような何とも良い眼だ」
男が再び手を伸ばしてこようとしたまさにその時、鋭い一喝が二人の間に割って入った。
「止さぬか!」
凜とした声音と共に現れたのは、背の高い男だった。愕いた千種と大男がほぼ同時に声の主を見やる。
「か弱き女人一人に大の男が昼日中から狼藉を働くとは、許しがたい」
まだ若い男らしく、均整の取れた引き締まった身体は無駄に縦も横も大きい蛸入道とは対照的だ。
大男が吠えた。
「余計なお世話なんだよ、この青臭せぇガキがよ」
大男の拳が繰り出される寸前、若者は大男をあっさりと交わした上に、その巨躯を軽々と両手で持ち上げた。横向きにまるで荷物を持ち上げるように高々と掲げられ、大男は狼狽えた。
「なっ、何をする。ここいらの漁師仲閒では、ちったア、名の知られた元六(げんろく)をこんな眼に遭わせて、ただで済むと思うなよ、若造」
「元六などとたいそうな名前は、お前のような卑劣漢には勿体ない。これからは、阿呆六と名乗るが良い」
若者が鼻を鳴らすと、大男が真っ赤になった。
「な、何だとォ―」
更に吠えようとした大男の声はそのまま途切れた。若い男が大男を持ち上げたまま、放り投げたからだ。巨体は軽々と鞠のように飛んでゆき、やがて大きな音を立てて地面に落ちた。
男はフンとまた鼻を鳴らし、つかつかと千種の方に歩いてきた。
「とんだ災難だったな」
彼は千種の口から詰め物を取ってくれ、更に手を貸して助け起こしてくれた。
「大丈夫か?」
気遣わしげに問うが、千種は返事ができなかった。身代わり姫となるまでも、〝紫〟となってからも、彼女は度々住まいを抜け出しては鎌倉の町をお忍びで闊歩したものだ。
これまで、こんな危うい目に遭遇したことは一度たりともなく、もちろん伴の者を連れていたこともない。だが、一歩間違えば、一人で出歩くことは、こんなにも無防備なのだと初めて知り、衝撃を受けてしまったのである。
千種の瞳にはまだ涙の雫が残っている。その涙を見て、男はハッとした表情になった。
「可哀想に、さぞ怖かったのであろうな。どこの娘かは知らぬが、これより後は無闇に無頼の輩に拘わってはならぬ」
「あっ、そういえば」
千種は商人風の男に盗まれた財布を取り返してやると約束したことを思い出し、男にそれを告げた。
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