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秘花㊸
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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夢のような幸福な日々が続いた。
六月が終わり、七月に入った。七月まもないその日、賢は近くの川原まで出かけた。この頃はジュチに教えられ、釣りを憶えた賢である。これがどうしたものか、面白いほどよく釣れる。
―賢華は筋が良い。
と、太鼓判を押してくれるほどなのである。
自分に釣りの才能があるとは意外なものだ。おかしいやら、良かったと思うやらだが、とりあえず釣った魚はそのまま村で売れるので、これまでよりはほんの少しジュチの助けにはなっていることが何より嬉しい。
料理の方は相変わらずで、包丁を持てばジュチの方がハラハラして見ていられないらしいけれど、こちらも少しずつ良人に習いながら憶えていっていた。
本物の若い娘ならミミズなど到底素手で触れないだろうが、賢は平気だ。ミミズだって何ということはなく掴んで釣り竿に付ける。
今、ジュチは裏山に薬草を採りにいっている。たくさん釣れれば、売る分を残してもジュチのお昼用になるだろう。彼のために美味しそうな魚が釣れれば良いと都合の良いことを考えながら、釣り糸を垂れる。
想いに耽っている中に、手許の釣り竿が強く引っ張られた。時機を見計らって引くと、結構な大物が掛かった。よく太った鮎だ。
「美味しそう。ジュチが悦んでくれるかな」
魚籠を見やると、もう底が見えないほどだ。これだけ釣れば良いだろうと釣り竿を持ち、魚籠を下げた。ふと一面に群れ咲く木春菊に眼を止める。
思いついてしゃがみ込み、木春菊を摘み始めている中に、つい夢中になって時間の経つのを忘れてしまっていた。ひろげたスカートに一杯になった花を束ね、花束まで持って帰る羽目になったと苦笑する。
そのときだった。どこからか強い視線を感じたような気がして、賢は顔を上げた。当然ながら、誰もいるはずがない。
「思い過ごしだよね」
呟き、荷物を両手に持って歩き始める。と、鋭い馬のいななきが周囲のしじまを不気味に震わせた。賢はピクリと身体を震わせた。
―こんなところに人が?
蹄の音が近づいてくる。たくさんではなく、単騎のようではあった。
不安げに瞳を揺らした賢の前に、突如として一頭の馬が立ち塞がった。真綿のような白の毛並みも美しい堂々とした馬だ。その馬に賢は見憶えがあった。
まさか? 賢は身を強ばらせ、恐る恐る白馬にまたがった人物を見上げた。逆光になって馬上の人の貌までは定かではない。
「久しぶりだな、賢」
だが、降ってきた声は厭というほど知っている。
「―」
賢は厭々をするように小さくかぶりを降った。何故、この人がここにいるのだろう。国王が一人で都から離れた鄙の村に何故?
何故、どうしてという想いが頭の中でぐるぐると回る。
「随分と綺麗になったな」
乾、いや、今は高麗の王となった従弟が馬上から賢を見下ろしていた。むろん、国王の纏う王衣を身につけているわけではない。鮮やかな緑色とやわらかな萌葱色の二枚の上衣を品良く重ねている様は、いかにも都暮らしの貴族の若さまといった雰囲気だ。
乾が昔から緑を好むことは、いつも一緒にいた賢はよく知っている。
あまりのなりゆきに心がついてゆけず、茫然としていると、唐突に間近で声が響いた。
「あまりに美しくなったので、最初は判らなかった」
王が眼前に立って、まるで検分するかのように無遠慮に見ている。これから買い入れる商品を値踏みするような厭な目つきだ。
「それに、女らしくなった」
その視線が胸の辺りを執拗にさまよっていると思うのは考えすぎだろうか? 王の視線が急速に危険な熱を帯びてくるのに気付き、賢は身体中の膚が粟立った。
「綺麗だ、とてもよく似合っている」
最初は何のことか判らなかったけれど、どうやら女姿を褒めているらしい。でも、王に綺麗だと言われても、少しも嬉しくなかった。むしろ、以前と変わらず、ぎらついた獣のような視線が怖い。
「どうした? まさか、俺を忘れたわけじゃないだろ。乾だよ」
王が一歩近づいてくる。二人の間はほんのわずかしか離れていない。妙な圧迫感を憶え、賢は後ずさった。
「だが、そなたにはそんな粗末な衣服よりも豪奢な衣装がふさわしい。宮殿に戻ってこい。俺がもっときらびやかで美しい衣装を作ってやる」
六月が終わり、七月に入った。七月まもないその日、賢は近くの川原まで出かけた。この頃はジュチに教えられ、釣りを憶えた賢である。これがどうしたものか、面白いほどよく釣れる。
―賢華は筋が良い。
と、太鼓判を押してくれるほどなのである。
自分に釣りの才能があるとは意外なものだ。おかしいやら、良かったと思うやらだが、とりあえず釣った魚はそのまま村で売れるので、これまでよりはほんの少しジュチの助けにはなっていることが何より嬉しい。
料理の方は相変わらずで、包丁を持てばジュチの方がハラハラして見ていられないらしいけれど、こちらも少しずつ良人に習いながら憶えていっていた。
本物の若い娘ならミミズなど到底素手で触れないだろうが、賢は平気だ。ミミズだって何ということはなく掴んで釣り竿に付ける。
今、ジュチは裏山に薬草を採りにいっている。たくさん釣れれば、売る分を残してもジュチのお昼用になるだろう。彼のために美味しそうな魚が釣れれば良いと都合の良いことを考えながら、釣り糸を垂れる。
想いに耽っている中に、手許の釣り竿が強く引っ張られた。時機を見計らって引くと、結構な大物が掛かった。よく太った鮎だ。
「美味しそう。ジュチが悦んでくれるかな」
魚籠を見やると、もう底が見えないほどだ。これだけ釣れば良いだろうと釣り竿を持ち、魚籠を下げた。ふと一面に群れ咲く木春菊に眼を止める。
思いついてしゃがみ込み、木春菊を摘み始めている中に、つい夢中になって時間の経つのを忘れてしまっていた。ひろげたスカートに一杯になった花を束ね、花束まで持って帰る羽目になったと苦笑する。
そのときだった。どこからか強い視線を感じたような気がして、賢は顔を上げた。当然ながら、誰もいるはずがない。
「思い過ごしだよね」
呟き、荷物を両手に持って歩き始める。と、鋭い馬のいななきが周囲のしじまを不気味に震わせた。賢はピクリと身体を震わせた。
―こんなところに人が?
蹄の音が近づいてくる。たくさんではなく、単騎のようではあった。
不安げに瞳を揺らした賢の前に、突如として一頭の馬が立ち塞がった。真綿のような白の毛並みも美しい堂々とした馬だ。その馬に賢は見憶えがあった。
まさか? 賢は身を強ばらせ、恐る恐る白馬にまたがった人物を見上げた。逆光になって馬上の人の貌までは定かではない。
「久しぶりだな、賢」
だが、降ってきた声は厭というほど知っている。
「―」
賢は厭々をするように小さくかぶりを降った。何故、この人がここにいるのだろう。国王が一人で都から離れた鄙の村に何故?
何故、どうしてという想いが頭の中でぐるぐると回る。
「随分と綺麗になったな」
乾、いや、今は高麗の王となった従弟が馬上から賢を見下ろしていた。むろん、国王の纏う王衣を身につけているわけではない。鮮やかな緑色とやわらかな萌葱色の二枚の上衣を品良く重ねている様は、いかにも都暮らしの貴族の若さまといった雰囲気だ。
乾が昔から緑を好むことは、いつも一緒にいた賢はよく知っている。
あまりのなりゆきに心がついてゆけず、茫然としていると、唐突に間近で声が響いた。
「あまりに美しくなったので、最初は判らなかった」
王が眼前に立って、まるで検分するかのように無遠慮に見ている。これから買い入れる商品を値踏みするような厭な目つきだ。
「それに、女らしくなった」
その視線が胸の辺りを執拗にさまよっていると思うのは考えすぎだろうか? 王の視線が急速に危険な熱を帯びてくるのに気付き、賢は身体中の膚が粟立った。
「綺麗だ、とてもよく似合っている」
最初は何のことか判らなかったけれど、どうやら女姿を褒めているらしい。でも、王に綺麗だと言われても、少しも嬉しくなかった。むしろ、以前と変わらず、ぎらついた獣のような視線が怖い。
「どうした? まさか、俺を忘れたわけじゃないだろ。乾だよ」
王が一歩近づいてくる。二人の間はほんのわずかしか離れていない。妙な圧迫感を憶え、賢は後ずさった。
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