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秘花㊿
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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「もう止めた」
賢は呟き、刺繍道具を放り投げた。居間の外に声をかけると崔尚宮が入ってきて、道具や刺しかけの刺繍を片付ける。崔尚宮は大抵、二間続きの賢の室の前に控えていた。
それから隣室の寝所へ行き、上に羽織った裾を長く引いた上着をやはり崔尚宮に手伝って貰って脱いだ。
崔尚宮は感じの良い人である。物静かな人だが、洞察力も判断力も備えた上に立つにはふさわしい人物といえた。
「それでは、ごゆっくりお寝(やす)み下さいませ」
彼女は丁寧に頭を下げて寝所を出ていった。これからまた一晩、部屋の前で寝ずの番をするのだろう。王太子時代も寝所や居室の前には常に尚宮や宦官が控えていた。
上掛けを捲ると潜り込む。一日の〝王女教育〟の疲れがドッと出て、賢はすぐに眠りに落ちていった。
どれくらい眠ったのか。喉が渇いて目覚め、賢は寝台の上に身を起こした。崔尚宮を呼べば済むことだけれど、わざわざ呼ぶほどのこともない。隣室には水差しと湯飲みが常備されているはずだ。
寝台から降りながら、賢は首を傾げた。何故、今夜の夜着は昨日までのものと違うのだろうか。今夜、崔尚宮が用意した夜着はかなり生地が薄かった。確かに暑い季節ではあるが、これほど薄くなくても良いようにも思える。まるで何も身に付けていないと思えるほどに心許ない。
隣室へ続く扉を開けた途端、賢はキャッと悲鳴を上げた。淡い闇がひろがる中、ぼんやりと人影が浮かび上がっているのだ。
「―誰?」
人影は応えない。どうやら、水差しと湯飲みが置いてある小卓の側に座っているようだ。近くまできて初めて、その人が王であることが知れた。
「国王殿下?」
賢は愕きを隠せない。
「どうして、あなたがここにいるんだ?」
眼を見開いた賢に、王が笑った。例の口の端を引き上げる皮肉っぽい笑みだ。
「妃の部屋に通うのが悪いのか」
「僕は男だ」
そっぽを向くと、王が肩を竦めた。
「喉が渇いたのではないのか?」
「別に」
王が笑いながら、湯飲みに水を注いだ。
「素直じゃないな。ほら、飲めよ」
賢は差し出された湯飲みを受け取ろうとはしなかった。
「要らない」
「なるほど、口移しで飲まして欲しいんだな」
そう言われ、ギョッとした。
「冗談」
慌てて湯飲みをひったくった。隣で忍び笑いが聞こえる。まったく、癪に障る男だ。
「殿下。こんな意味のないことは止めよう」
賢は湯飲みを握りしめ、王の方は見ないで言った。
「意味がない? どうして、そう思うんだ」
問われ、賢は応えた。
「あなたにとって、この結婚がそれほど意味があるとは僕には思えない。僕なんかより価値のある若い娘がごまんといるのに。例えば、反元派、親元派の大臣とかの娘を王妃に据えた方が絶対に有利だろう」
「ホウ、そなたが俺の心配をしてくれるとはな」
「別に心配してるわけじゃない。こんな茶番は止めて欲しいんだ」
王は無言だ。賢は期待をこめて言った。
「ここに来る前も言ったはずだ。僕は王位に未練はない。王妃の座に縛り付けて監視などしなくても、あなたの王座を脅かすことは絶対にしないと誓える」
賢は勢い込んで続けた。
「だから、僕をここから出してくれ。二度とあなたの前にも姿を現さないと約束するから」
「それで、ここを出て、どこに行く?」
王の問いに、賢は首を振った。
「判らない」
だが、応えはとうに出ている。ジュチと暮らしたあの村に帰るつもりだ。あの村で賢は大好きな男と過ごした。ジュチと暮らした二ヶ月余りの日々が生涯でいちばん幸せな時間だったのだ。
その至福の日々の想い出がたくさんつまった村で、ジュチが建てた家でこれからの余生は過ごすつもりだ。
「ふざけるなッ」
唐突に怒鳴られ、賢はピクリと身を縮めた。
「そなたはまた俺から逃げるのか。逃げて、別の男を捜すんだろう」
「殿下、僕はそんなことはしない」
賢は呟き、刺繍道具を放り投げた。居間の外に声をかけると崔尚宮が入ってきて、道具や刺しかけの刺繍を片付ける。崔尚宮は大抵、二間続きの賢の室の前に控えていた。
それから隣室の寝所へ行き、上に羽織った裾を長く引いた上着をやはり崔尚宮に手伝って貰って脱いだ。
崔尚宮は感じの良い人である。物静かな人だが、洞察力も判断力も備えた上に立つにはふさわしい人物といえた。
「それでは、ごゆっくりお寝(やす)み下さいませ」
彼女は丁寧に頭を下げて寝所を出ていった。これからまた一晩、部屋の前で寝ずの番をするのだろう。王太子時代も寝所や居室の前には常に尚宮や宦官が控えていた。
上掛けを捲ると潜り込む。一日の〝王女教育〟の疲れがドッと出て、賢はすぐに眠りに落ちていった。
どれくらい眠ったのか。喉が渇いて目覚め、賢は寝台の上に身を起こした。崔尚宮を呼べば済むことだけれど、わざわざ呼ぶほどのこともない。隣室には水差しと湯飲みが常備されているはずだ。
寝台から降りながら、賢は首を傾げた。何故、今夜の夜着は昨日までのものと違うのだろうか。今夜、崔尚宮が用意した夜着はかなり生地が薄かった。確かに暑い季節ではあるが、これほど薄くなくても良いようにも思える。まるで何も身に付けていないと思えるほどに心許ない。
隣室へ続く扉を開けた途端、賢はキャッと悲鳴を上げた。淡い闇がひろがる中、ぼんやりと人影が浮かび上がっているのだ。
「―誰?」
人影は応えない。どうやら、水差しと湯飲みが置いてある小卓の側に座っているようだ。近くまできて初めて、その人が王であることが知れた。
「国王殿下?」
賢は愕きを隠せない。
「どうして、あなたがここにいるんだ?」
眼を見開いた賢に、王が笑った。例の口の端を引き上げる皮肉っぽい笑みだ。
「妃の部屋に通うのが悪いのか」
「僕は男だ」
そっぽを向くと、王が肩を竦めた。
「喉が渇いたのではないのか?」
「別に」
王が笑いながら、湯飲みに水を注いだ。
「素直じゃないな。ほら、飲めよ」
賢は差し出された湯飲みを受け取ろうとはしなかった。
「要らない」
「なるほど、口移しで飲まして欲しいんだな」
そう言われ、ギョッとした。
「冗談」
慌てて湯飲みをひったくった。隣で忍び笑いが聞こえる。まったく、癪に障る男だ。
「殿下。こんな意味のないことは止めよう」
賢は湯飲みを握りしめ、王の方は見ないで言った。
「意味がない? どうして、そう思うんだ」
問われ、賢は応えた。
「あなたにとって、この結婚がそれほど意味があるとは僕には思えない。僕なんかより価値のある若い娘がごまんといるのに。例えば、反元派、親元派の大臣とかの娘を王妃に据えた方が絶対に有利だろう」
「ホウ、そなたが俺の心配をしてくれるとはな」
「別に心配してるわけじゃない。こんな茶番は止めて欲しいんだ」
王は無言だ。賢は期待をこめて言った。
「ここに来る前も言ったはずだ。僕は王位に未練はない。王妃の座に縛り付けて監視などしなくても、あなたの王座を脅かすことは絶対にしないと誓える」
賢は勢い込んで続けた。
「だから、僕をここから出してくれ。二度とあなたの前にも姿を現さないと約束するから」
「それで、ここを出て、どこに行く?」
王の問いに、賢は首を振った。
「判らない」
だが、応えはとうに出ている。ジュチと暮らしたあの村に帰るつもりだ。あの村で賢は大好きな男と過ごした。ジュチと暮らした二ヶ月余りの日々が生涯でいちばん幸せな時間だったのだ。
その至福の日々の想い出がたくさんつまった村で、ジュチが建てた家でこれからの余生は過ごすつもりだ。
「ふざけるなッ」
唐突に怒鳴られ、賢はピクリと身を縮めた。
「そなたはまた俺から逃げるのか。逃げて、別の男を捜すんだろう」
「殿下、僕はそんなことはしない」
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