秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ

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秘花88

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

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 暦が十一月に変わった最初の日、賢は崔尚宮にだけは事の次第を打ち明けて、ひそかに宮殿を出た。もちろん、逃亡などするつもりはなかった。どうせ逃げ出しても、また王に捕まってしまうだけで、無駄なことだ。
 ただ、その日はどうしても出かけたい場所があったのだ。崔尚宮の協力なしでは、流石に後宮を抜け出すのは難しい。それに、今では母とも信頼する人に隠し事はしたくなかった。
 例の媚薬については、王の寝所で過ごした翌朝、崔尚宮自らが真相を打ち明けた。
―申し訳ございません。王妃さまにお仕えする尚宮でありながら、そのご信頼を裏切る大罪を犯してしまいました。どうか私を殺して下さいませ。
 泣きながら詫びる崔尚宮を到底責めることはできなかった。王と結ばれ御子を生み奉ることが〝王妃さまの幸せ〟と諭されれば、忠実無比な崔尚宮は逆らうすべもなかったろう。
 以来、二人の主従は、どんなことがあっても互いに隠し事はしないと固く誓い合った。
 賢が目指した場所は馬で半刻ほどの距離にあった。賢は崔尚宮の配下で働く女官という触れ込みで、王宮の正門から出た。女官としての身分証明書などは崔尚宮がすべて用意してくれていた。
 門を出るまでは外套を頭からすっぽりと被り、しばらくしたところで脱ぐ。門から少し離れたところに崔尚宮の甥―例の護衛官が馬を一頭引いて待っていた。大人しそうな栗色の牝馬だ。
 賢を認めると、護衛官は何も言わず黙礼した。
「手間を掛けて済まない」
 賢も言葉少なに感謝の意を伝えると、彼が微笑んだ。
「今となっては私ができることはこの程度しかありません。今日はホン内官の月命日ですね?」
 賢も淡く微笑んで頷いた。護衛官が遠い眼になった。
「あれから、この日を忘れたことはありません。護衛官の任務についている以上、人を斬ったことはありますが、無抵抗な者を殺めたのは初めてのことでした。七のつく日は毎月、郊外の寺にホン内官の供養に行くことにしています。そんなことくらいで、私の犯した罪が許されるとは思いませんが」
 賢はゆるりと首を振った。
「あなたはまだ若い。いつまでも犯してしまった罪で悩むよりは、希望を持って前を向いて生きて欲しい。ジュチを殺したのはあなたの本意ではなかった。王命に逆らうことができないのは僕もよく理解している。もしホン内官が生きていたとしたら、きっとこう言うと思う」
「王妃さま」
 若い護衛官の眼が揺れていた。
「あの男(ひと)―ホン内官はそういう人だった。誰よりも広い心を持ち、強くて優しい人だ。彼に出逢えたことを僕は喜びにも誇りにも思っている。あなたが犯してしまった罪を悔いるあまり、これからの人生を台無しにしてしまったとしたら、ホン内官が哀しむ。僕はあなたにそんな風に人生を送って欲しくないんだ」
「今のお言葉、心に刻みます」
 護衛官の眼にはまだ涙が浮かんでいたが、心なしか生気のなかった双眸には強い光が閃いていた。
「それでは」
 軽く頭を下げた賢に対して、護衛官は深々と頭を下げた。
 賢は馬にひらりと跨り、その脇腹を軽く蹴った。
「はいっ」
 掛け声をかけると、馬は軽快に走り出す。護衛官は馬が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていたが、やがて、都の大路を行き交う雑踏に紛れた。護衛官も姿を消した後、走り去った賢の後を追うように走り出した白馬がいたことを、護衛官はむろん賢が知るはずもなかった―。

 その場所に到着した時、賢は息を呑んだ。とりあえず馬を川に連れっていって水を存分に飲ませてやった後、手近な樹に繋ぐ。それから改めて周囲を見回した。
 一面を木春菊の花が埋め尽くすように咲いている。まるで花の海のただ中にいるようだ。
 確か記憶にあるはずの風景は一面、純白の花だった。けれど、今は白い花よりは薄紅色の花の方が圧倒的に多い。長い月日の間に、花の色が変化したのだろう。それほど長い年月が流れたという証でもある。
 賢は木春菊の野原に佇み、両手を一杯にひろげて深呼吸した。いつも宮殿の中に閉じ籠もっているせいか、広い自然の中に身を置いていると、生き返ったような心もちになる。野原を吹き渡る風がピンク色の花たちを揺らし、その清新な風は心の中に降り積もった淀みを洗い流してくれるようだ。
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