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秘花106
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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―伯父上。
乾が何か言おうとすると、前王は笑った。
―私はその歴史という大河に飲み込まれた一人にすぎない。そして、乾、そなたも同じだ。たとい王といえども、時の流れには逆らえぬ。国も人も同じ、滅びるときは滅び死ぬるときは死ぬ。そんなものだ。
―伯父上。
乾は懐かしい人の許へと一歩踏み出す。
―俺はもう疲れました。
恐る恐る周囲に視線をめぐらす。
―ここは、あまりに暗く寂しい。俺はこれ以上、歩けません。
―そうなのか? 十分に生き切ったと言えるほど、そなたは我が人生を生きたのか? 現世(うつしよ)に何の未練もないと?
前王は息子を慈しむように眼を細めた。それは、かつて前王が生きていた頃、実の息子賢と分け隔てなく乾に注いでくれた愛情のこもったものだ。
この人の前でなら、乾は甘えることができた。実の父とも慕った人だ。その大切な恩人を自分は殺した。知らぬとはいえ、毒殺の片棒を担いでいたのだ。
―本当なら、俺は伯父上に話しかけることさえ許されない立場です。ですが、俺は子どもの時分から、伯父上にだけは父に甘えるように甘えさせて貰いました。ゆえに、俺をお連れ下さい。
乾が訴えるのに、前王は眉をひそめた。
―それは、どういう意味だ?
―疲れたのです。歩き続けることにも、誰かを想い続けることにも疲れ果てました。俺はこのままずっと目覚めることなく眠りたい。だから、伯父上の許に行くことをお許し頂きたいのです。
また一歩踏み出そうとすると、前王の穏やかな顔に厳しい表情が刻まれた。
―ならぬ。
乾は眼を見開いて前王を見つめた。
―何ゆえにございますか!
前王はもう一度ゆっくりと繰り返した。
―そなたはまだ来てはならぬのだ、乾。
―納得がゆきません。
前王がふわり、と笑った。幼い頃から乾がよく見た優しい笑顔、物静かで争い事を好まない伯父の性格を物語る柔和な表情だ。
―いつかお前がこの世での生をまっとうした時、朕に聞かせてくれ。お前がどれだけ王として、この国のために力を尽くしたかを。
お前にはまだ、やるべきことがあるのだ―。前王は謎めいた言葉を最後に残した。
前王の姿が揺らぎ始める。
―伯父上ッ。待って下さい、行かないでくれ。
乾が叫んでも、伯父はただ慈しみ深い微笑を湛えて立っているだけだ。前王の身体は次第に薄くなり、輪郭も朧になって消えた。
―娘を頼むぞ、乾。
消える瞬間、伯父が呟いたひと言は確かに乾に届いた。
乾はハッとした。彼を取り囲んでいた一面の白い霧が少しずつ薄くなり始めたのである。やがて、二つに割れた霧はどんどん小さくなり、愕くべきことに白い鳥に姿を変えた。二羽の美しい鳥は大きな翼をひろげて、悠々と飛翔する。
―何と美しい。
乾は頭上を振り仰いだ。抜けるような蒼空がひろがっている。白い鳥たちはぐんぐん上昇していって、今や、はるか天空高くで旋回していた。
二羽の鳥は名残を惜しむようにしばらく天空を舞っていたが、やがて、空の蒼に吸い込まれるように飛んでいった。
乾は鳥たちが見えなくなるまで、ずっとその美しき光景に見入っていた。と、いずこかから声が聞こえてきた。
―あなた、お願いですから、早く眼を覚まして下さい。私はもう、どこにも行きまません。ずっと、あなたの側にいます。
最初、乾はその声がどこから聞こえてきたのか判らなかった。すぐ傍らから聞こえてくるような気もするし、はる彼方―白い鳥が飛び去った天空から降ってくるようにも思える。
乾の唇から自然に懐かしい人の名前が紡ぎ出された。
―賢。
だが、美しい声はもう聞こえない。乾は慌ててもう一度、呼んでみた。
―賢、賢。
すると、どうだろう。今度はより鮮明に聞こえた。
―乾、乾。起きて、僕だよ。
それはとても懐かしい口調だった。
―ああ、俺はずっとこの声の主に逢いたかったんだ。
それが果たして誰なのかまだ思い出せないまま、乾は熱いものが自分の頬を流れ落ちるのをぼんやりと感じていた。
乾が何か言おうとすると、前王は笑った。
―私はその歴史という大河に飲み込まれた一人にすぎない。そして、乾、そなたも同じだ。たとい王といえども、時の流れには逆らえぬ。国も人も同じ、滅びるときは滅び死ぬるときは死ぬ。そんなものだ。
―伯父上。
乾は懐かしい人の許へと一歩踏み出す。
―俺はもう疲れました。
恐る恐る周囲に視線をめぐらす。
―ここは、あまりに暗く寂しい。俺はこれ以上、歩けません。
―そうなのか? 十分に生き切ったと言えるほど、そなたは我が人生を生きたのか? 現世(うつしよ)に何の未練もないと?
前王は息子を慈しむように眼を細めた。それは、かつて前王が生きていた頃、実の息子賢と分け隔てなく乾に注いでくれた愛情のこもったものだ。
この人の前でなら、乾は甘えることができた。実の父とも慕った人だ。その大切な恩人を自分は殺した。知らぬとはいえ、毒殺の片棒を担いでいたのだ。
―本当なら、俺は伯父上に話しかけることさえ許されない立場です。ですが、俺は子どもの時分から、伯父上にだけは父に甘えるように甘えさせて貰いました。ゆえに、俺をお連れ下さい。
乾が訴えるのに、前王は眉をひそめた。
―それは、どういう意味だ?
―疲れたのです。歩き続けることにも、誰かを想い続けることにも疲れ果てました。俺はこのままずっと目覚めることなく眠りたい。だから、伯父上の許に行くことをお許し頂きたいのです。
また一歩踏み出そうとすると、前王の穏やかな顔に厳しい表情が刻まれた。
―ならぬ。
乾は眼を見開いて前王を見つめた。
―何ゆえにございますか!
前王はもう一度ゆっくりと繰り返した。
―そなたはまだ来てはならぬのだ、乾。
―納得がゆきません。
前王がふわり、と笑った。幼い頃から乾がよく見た優しい笑顔、物静かで争い事を好まない伯父の性格を物語る柔和な表情だ。
―いつかお前がこの世での生をまっとうした時、朕に聞かせてくれ。お前がどれだけ王として、この国のために力を尽くしたかを。
お前にはまだ、やるべきことがあるのだ―。前王は謎めいた言葉を最後に残した。
前王の姿が揺らぎ始める。
―伯父上ッ。待って下さい、行かないでくれ。
乾が叫んでも、伯父はただ慈しみ深い微笑を湛えて立っているだけだ。前王の身体は次第に薄くなり、輪郭も朧になって消えた。
―娘を頼むぞ、乾。
消える瞬間、伯父が呟いたひと言は確かに乾に届いた。
乾はハッとした。彼を取り囲んでいた一面の白い霧が少しずつ薄くなり始めたのである。やがて、二つに割れた霧はどんどん小さくなり、愕くべきことに白い鳥に姿を変えた。二羽の美しい鳥は大きな翼をひろげて、悠々と飛翔する。
―何と美しい。
乾は頭上を振り仰いだ。抜けるような蒼空がひろがっている。白い鳥たちはぐんぐん上昇していって、今や、はるか天空高くで旋回していた。
二羽の鳥は名残を惜しむようにしばらく天空を舞っていたが、やがて、空の蒼に吸い込まれるように飛んでいった。
乾は鳥たちが見えなくなるまで、ずっとその美しき光景に見入っていた。と、いずこかから声が聞こえてきた。
―あなた、お願いですから、早く眼を覚まして下さい。私はもう、どこにも行きまません。ずっと、あなたの側にいます。
最初、乾はその声がどこから聞こえてきたのか判らなかった。すぐ傍らから聞こえてくるような気もするし、はる彼方―白い鳥が飛び去った天空から降ってくるようにも思える。
乾の唇から自然に懐かしい人の名前が紡ぎ出された。
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だが、美しい声はもう聞こえない。乾は慌ててもう一度、呼んでみた。
―賢、賢。
すると、どうだろう。今度はより鮮明に聞こえた。
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―ああ、俺はずっとこの声の主に逢いたかったんだ。
それが果たして誰なのかまだ思い出せないまま、乾は熱いものが自分の頬を流れ落ちるのをぼんやりと感じていた。
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