花さんと僕の日常

灰猫と雲

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過去

練生川三太郎の章 「枯雨」

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腕時計は15:00を指していた。
Amazonで1000円の時計だったから週に2秒ほどズレる時計としては詰めの甘い精密機械ではあるけれど、それほど時間に頓着がない俺にはこんなので十分だ。
にも関わらず「素敵な時計ですね。練生川さんだからその時計も高いんでしょうね」なんて言う部下どもが可愛くてしょうがない。
お前の腕につけてる方が俺の数十倍も高いよ、とは間違っても言えない。
花は気を遣ってくれているのか今日も左腕に古いハミルトンをつけていた。
それは俺が学生時代、初めて自分で稼いだバイト代を全部ブッ込んで送った時計だった。あれからもう10数年経っているのに俺と会うときは必ずそれを付けて来てくれる。
あれを贈った頃はまさかこんなふうになるとは夢にも思わなかった。
今頃は夫婦になって子どもも1人か2人いて…。
だがそれは秋ではない。
今このくだらない世界で唯一の光があるとすれば、それは間違いなく秋の存在だ。
幼い秋を抱いた時の感情は今もなお俺の腕と胸の中に色濃く残ったままだ。
プルルルル…プルルルル…
「ちっ」
周りに聞こえぬよう小さく舌打ちして携帯の画面を見ると予想を裏切りさっきまでここにいた昔の恋人からだった。
「どうした?忘れ物か?」
『忘れ物っていうか…言い忘れてた。秋の入学祝いありがと』
「遅ぇよバカ。最初に言えよ笑」
えへへ、と笑ってごめんと謝る花は知り合った時と何も変わらないように思えた。
『でも中学生の入学祝いにあの額って、どう考えても世間一般とはかけ離れてるよ?』
「俺は世間一般じゃないんだよ。いいんだ、金ならある。使いみちがないだけで」
『だったら自分がやりたい事に使いなよ』
「じゃあ間違ってないな。貯金でもしとけ。で、いつか秋のために必要な時に使えばいい」
花は頑固者だけど俺はそれ以上に強情っぱりだ。
「今の俺はあいつに会うことも話すことも出来ないんだ。出来ることは毎年の誕生日とクリマスのプレゼント、あと正月のお年玉に入学のお祝い、それくらい。お前が困るのもわかってるけど、けどせめてそんな時くらいは俺のわがままも聞いてくれよ」
俺にも人並みくらいには秋を可愛いと思う気持ちがある。
拙いし醜い愛情表現だとわかっていても出来る事はそれくらいしかない。
限られた手段で正々堂々と愛を表現するしかない。
『わかった。じゃあこれからは金額設定を設ける事にします。とりあえず高校卒業までは一万円以内ね』
「マジかよ。逆に難しいわ」
『三太は世間一般を知った方がいいと思うよ?』
「お前に言われたくねぇよ笑。それに感性は環境によって培われるものだ。世間一般から一番遠くにいる奴らと一緒にいたらそれが俺の世間一般だ』
「そっか…。そうだよね…」
花の落胆した声。
せっかくいい雰囲気だったのに何いらないこと言ってんだ俺は!
「あ、秋のよ!制服着た写真送ってくれよ!」
取り繕うように聞こえただろうか?
けど本当に見たいんだよな、あいつの制服姿。
「見たいの?」
「見たいさ」
「ショタコン?」
「お前ホントにうぜぇな」
受話器から花の笑い声が聞こえてきてホッと胸をなでおろす。
いや、今のは花に救われたのだろう。
こいつはホント気の利く頭のいい奴だ、昔から。
『わかった笑。じゃあね、また来月』
「あぁまたな。気をつけて帰れよ」
携帯を胸にしまう。
昔から花から一度も「さよなら」という言葉を聞いたことはない。
別れを切り出されたあの日ですら『また明日ね…』だったっけ。
また、ね…か。
また次があると思わせてくれるそれは今の俺にどれだけ心強い言葉だろう。
「ねぇあの人、1人でニヤニヤして気持ち悪くない?(ひそひそ)」
お前に言われたくねぇよ、と言い返したくなる顔のマダムに嫌味いっぱいの愛想笑いをする。
「あらやだっ、笑うとちょっと可愛いわ///(ひそひそ)」
な?
こんな事も出来るくらいには世間一般の感性は持ってるんだよ俺は。
「ねぇおにいさん、時間あるなら私達とお茶でも、、、」
「歳考えて誘えよババア。あと鏡見ろ。お前の誘うべきはシャバーニだろ」
「シャバーニ?ハリウッド俳優かしら?」
「名古屋にいる超イケメンのゴリラだよ」
顔を真っ赤にして怒るその姿を見るに冬のニホンザルの方が良かったかな?
シャバーニにも袖にされそうだ。
「失礼な方ね!私の主人は市議会議員の、、、」
「で、お前は何者だよ?旦那じゃなくお前は何者だ?誰かで自分を語るなよ。まず最初に語るべきは自分がどんな人間かだろ」
「あらやだ心に突き刺さるっ!」
「そんな深いこと言ってねぇよ」
いやわかってるさ。
人はそうやって誰かや職業や年収や地位で自分を語りたくなるもんだ。
けど丸裸になったらその自分にどんな価値があるかの方が大事じゃねぇか?
それでも近くにいてくれる奴らがどれだけいるかの方が生きてく上でよっぽど大事なもんだと俺は思う。
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タクシーを自宅マンションの前で降りると仲良さそうな母娘と入れ違った。
娘の方は小学生くらいの女の子で整った顔をしていた。
同級生の男どもはこの子に憧れているだろうけどきっと話しかける事も出来ないんだろうな、と想像する。
母親は色白で金髪をひとつに束ねた白人の女性だった。
2人で楽しそうに話しながら俺の前を通り過ぎ駅の方へ歩いていく。
自動ドアを開けると昼間と同じ彼が
「おかえりなさいませ、練生川様」
と堅苦しく頭を下げ迎えてくれた。
俺は一人暮らしなので
「ただいま」
と言うのは彼くらいしかいなかった。
タクシーを降りたのを見ていたのだろう、重厚なドアを開けると遠隔操作でエレベーターはすでに一階で口を開き俺を待っていた。
「ありがとう」
彼の横を通り過ぎるとき、そう声をかけエレベーターに乗り39階のボタンを押した。
上下にしか動かない箱から出てフカフカな廊下を歩き、クソ重たそうに見えて実は軽いドアを開けようやく自宅にたどり着いてもそこが我が家だとは未だに思えなかった。
ここに住むようになって結構経つが、あまりにも高級すぎて逆に落ち着かない。
ひとつひとつが広すぎる。
キッチンも風呂もトイレも洗濯室もリビングも。
もっとこう、こじんまりとしていて手狭で、なのに使い勝手がいい、そんな家が良かった。
それともこのクソ高級でバカ広い家だとしても、花が「おかえりこのアホ亭主」とでも迎えてくれれば同じ場所でも居心地がいい安らげる空間になるのだろうか?
ああ、俺は寂しいんだな。
花と別れたあの時からずっと。
「ごめん、別れてほしい」
花が突然切り出した別れの言葉に俺は気が狂うかと思うほどに絶望した。
流す涙は枯れ果て、握った拳は折れるほどにコンクリートの壁を殴ったりもした。
いくら泣いても骨を折っても花が俺の隣に戻って来ることはなく、俺と花は恋人ではなくなった。
そして、花は母になった。
いくらシャワーを浴びても、体を洗っても、寂しさと取り戻せない時間を拭うことはできなかった。
シャワーにまぎれて泣いてみたかったけど、あの日に流し尽くした涙はまだ枯れたままだった。
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