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互市
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様々な人の声が飛び交い、店内は夜の飲食店らしい賑わいを見せていた。会社帰りの大人達や飲み会で集う大学生達で賑わう中、俺は注文の濁流に翻弄されて店の中を右往左往していた。間口が狭く、奥行きのある部屋の中にテーブルをぎっしり詰め込んでいるために、酒や汗、食料脂のにおいが雨で立籠め、そこに床から蹴上げられる埃と煙草の煙が混ざり込んで部屋の中の空気を重く濁しているので、気分は大分悪かった。そんな自分とは対照的に気だるさを見せることなく淡々と仕事をこなす先輩を横目で見ながら、一番奥のテーブルから順にラストオーダーの時間を告げて回る。まだ話し足りなくて不満げな表情を浮かべながらビールを数本注文する客がほとんどだった。なかには二次会の場所決めを始める人達もいた。この週末の賑わいに果たして終わりはあるのだろうか。先輩は店内に設置されたテレビの電源を落としていた。
「雨が止んだ」という誰かの言葉が耳に入ったようで、客達はそこでようやく重い腰を上げた。その後徐々に客の数も減っていき、雨音と騒音に閉ざされていた店内に嵐のあとのような静寂が訪れた。聞こえてくるのは切れかけた蛍光灯のちりちりという微かな音だけだった。
片付けの仕事は意外にも早く終わった。いつの間にか時計の針は午後11時を指していた。一刻も早く家に帰りたかった俺は店長に挨拶を済ませたあと足早に入り口の方への歩き、暖簾をくぐろうとする。「待って。」と後ろから聞き覚えのない声がした。というか、今日がバイト初日なわけだから聞き覚えがなくて当然か。聞こえなかったふりをしても良かったが大事な連絡だと困るから、暖簾にかけた手を下ろしてゆっくり振り返った。店の奥から小走りでこちらに向かってくる私服姿の先輩が目に映った。ベーシックな白のTシャツと落ち着いた深みのあるグリーンのスカート、まぁ今時の大学生といった感じ。その整った端麗な顔だちは最近人気の女優を彷彿させたが、その女優の名前は忘れてしまった。
「何ですか?」と俺は先輩に尋ねた。店の掃除が終わったら帰っていいと店長に言われていた。今日はもうこれで帰らせてくれるはずなんだが。
「青山って確か地下鉄だったよね?今遅延してるから、新今宮使って帰りなよ。」
先輩はスマホの画面を俺に向けてそう答えた。確かに画面には本町の人身事故による地下鉄の遅延情報が表示されている。こんな時間に遅延なんて、相当な迷惑。どうせ酔っ払いか何かだろう。
「ありがとうございます。先輩も地下鉄なんですか?」
苛立ちを抑えて、少し気になったことを興味本位で聞いた。帰り道が一緒ならあの劣悪な労働環境での仕事の仕方を教えてもらえるかもしれない。
「そうよ。道分かる?分かんなかったら近道あるから教えてあげる」
「あ、じゃあお願いします」
俺がそう答えると、先輩は俺の前を通り過ぎてそのまま暖簾をくぐって店を出た。俺もそれに続いた。
外では店内で二次会の場所を決め損ねたグループがまだ屯していた。近くの店は軒並み営業中だった。さすがは大阪最大の繁華街なだけはある。こんな時間まで同じように働いてる人のことを想像すると不憫で仕方がなかった。
「こっちよ」
先輩が大通りの方へと歩き出した。俺は早足でついていき、そのまま先輩の横に並んだ。
「この辺に住んでるの?新世界とかってやっぱり治安悪いから気をつけなよ。この時間は特に」
「この辺に住んではないですけど、高校はこの辺です」
「へー。そうなんだ。どうしてこんなところでバイトしてんの?天王寺の方とかもっと良い所あるのに」
「まぁ、バイト中に知ってる人とか友達に遭遇したりしたら嫌だからって感じです」
俺はそう答えたが、主な理由は違った。こんなゴミ溜めみたいな場所をバイト先に選んだのは将棋を指したかったからだ。通天閣の足元には将棋の大名人、坂田三吉の王将碑が建立されていて、長年ここ新世界のシンボルのひとつになっている。将棋クラブはもちろん、裏では〝賭け将棋〟をやってるような店もあるとか。バイトで得た金で将棋を指し、さらに金を稼ぐなんてことも考えていた。将棋の腕には自信があった。
「そう。ここには君の友達なんかよりももっと鬱陶しい奴らがたくさん来ると思うけどね」と先輩は言い放った。やっぱり先輩もこの環境を良くは思ってなかったようだ。先輩はどうしてこんなところで働いているんだろう。
俺と先輩は細い路地を抜け、大通りに出た。夜の盛り場が人の声でごった返し、まるで街全体が大声で叫んでいるかのようだった。酒を含んだ人間と、しらふの者が半分半分ほどの割合で通りを歩いている。
「先輩は…」
俺がさっき生じた疑問を投げかけようとしたとき、ちょうど先輩の携帯が鳴った。徐にカバンから携帯を取り出した先輩は番号を確認し、すぐに電話に出た。「急にどうしたの、うん、何言ってんのよ、うん、え、そう、もう帰ってるところ。分かった。また今度」と軽く話を済ませて先輩は電話を切った。電話の相手は先輩の彼氏なのだろうか。先輩って関西弁じゃないけど遠くからこっちに引っ越してきた人なのだろうか。そういった疑問を頭の中で並べながら俺は黙って先輩の会話を聞いていた。仕事中もずっと気になってはいたけど、こうして一緒に帰ってみると俄然先輩に興味が湧いてきた。
「彼氏さんですか」と俺が聞くと
「んー、どうなんだろうね…」
と沈んだ顔つきで先輩は答えた。一瞬、空気が葛湯のように重たくなった。繁華街の酔狂なさざめきは依然変わらなかったが、俺と先輩の周囲だけ緊張した深い静けさが広がっているように感じた。聞いてはいけないことだったのかもしれない。こういうときは他に何か喋った方がいい。俺は下手に詮索するのは辞めて、話題を変えることにした。
「あの…、バイトの話なんですけど、仕事のコツとかってあるんですかね。俺今日、短時間やったのにかなり疲れたんですよ。」
できるだけテンションを上げて尋ねてみる。
「最初はみんなそんな感じ。私も最初からいきなり要領良くできたわけじゃないし、まずはあの環境に慣れることから始めなよ」と先輩からありきたりな答えが返ってきた。もう少し的確なコツとかアドバイスを俺は期待していたから、拍子抜けした気分になった。そういえば、先輩もまだ働き始めて1年目だと店長が言っていたのを俺は思い出した。長らく勤めている大人と比べてなんの遜色もなく働く先輩を見ていたせいで、そのことをすっかり忘れていた。
「やっぱりあの店って環境的にはあんまり良くないですよね。先輩はなんであの店を選んだんですか?」
「実は私最近までこの近くには住んでなかったんだけど、引っ越して来た時にこの辺のこととか全然分かんないままバイト先決めちゃったのよ。ほんと馬鹿だよね」
先輩は笑いながら言った。やっぱり先輩は大阪育ちではなかった。どこから来たのか聞きたかったけど、さっき先輩が機嫌を損ねたことを思い出してあまり突っ込み過ぎない方が良いと俺は判断した。機会はいくらでもあるわけだし、また今度色々聞いてみようと思った。
そのあと俺と先輩は纏まりのない雑談を交わしながらただ真っ直ぐ夜道を歩いた。店の常連の名前、この辺のおすすめの店、俺の普段の学校生活、来年開催される東京五輪の話────。
いつの間にか大通りからそれた静かな路地を歩いていた。街灯が等間隔に立っていて、ひとしなみにあたりを照らしている。大通りとは違い、店はほとんど閉まっていて道の端ではホームレスの人が寝ていたり、厳つい表情をした男達が何やら話し込んだりしていた。先輩はいつもこんな危ない道を一人で帰っているのだろうか。近道とはいえ、少し危なすぎるように思える。先輩は平然と構えて歩いていたが、俺は全身に汗が流れるほどの不気味さを感じた。引き返すことを先輩に提案しようと考えたりもしたけど、やっぱり臆病な印象を持たれたら嫌だから黙って歩くことにした。数メートルの間隔で道が分かれていて、人気はないもののまだ繁華街の中のようだった。自転車に乗った警官が俺の横を通過して、そのまま手前の道を曲がっていった。何かあったのだろうか。よく見渡すと、周囲の人たちも俺たちを追い抜いて、小走りでその道の方へ向かっているようだった。
「この辺ではよくあることよ」
不安そうな表情の俺を見て先輩は言った。
「喧嘩とか…ですか?」
そう言って俺は左に伸びている道に目を向けると、パトカーが2台停まっているのが見えた。警察の貼った黄色の規制テープの手前で軽い人集りがてきていて、警察官と何か言い争っているような人もいた。日本語ではないように聞こえる。見た目からしか判断できないけどおそらく中国語だろう。この辺は中国人も多い。
「多分そうだと思うけど…」
よくあることだと言った割には先輩は立ち止まって、神妙な面持ちで事件現場に目を遣っていた。
「ちょっと見に行ってみますか?」と俺が尋ねると
「いや、今日は早く帰った方がいい」と先輩は即答した。それは先輩が自分に言い聞かせて言ってるかのようにも感じた。先輩の顔は引き締まっていて、瞬ぎもしなかった。
「行こ」
先輩がそう言うと、俺達は路地を曲がることなくその場を離れた。さっきよりもさらに歩くスピードが速まっているような気がした。道行く人は皆俺達とは逆方向へと向かっている。この様子から推測するに、割と大きな事件だったのかもしれない。俺達は人の波に逆らって、ただ歩き続けた。正面の月が少しずつ色を薄くして空の中へ消えていった。
ようやく、繁華街を抜けて駅が見えるところまで来た。駅の周りは閑散としていたが、虚ろに輝く街の煌めきにはなぜか暖かみがあって、まるで別世界から帰ってきたかのような安心感に包まれた。あの事件現場を見てから先輩の口数が減ったようにも感じたが、表情はかなり柔らかくなっていた。
「じゃあ、この道沿いに歩いて行ったら左手に新今宮駅あるから」
交差点に出たとき、ふと先輩が前を指差して言った。
「先輩はこの駅じゃないんですか」と俺は尋ねた。この駅と地下鉄を除いて、近くに駅はない。5分ほど前、俺のスマホの画面には確かにまだ人身事故の情報が表示されていた。
「ちょっと用事思い出しちゃったのよ。時間かかるから先帰ってていいよ」
先輩はそう言うと、軽く手を振って俺が引き止める間も無く来た道を引き返して行った。こんな夜中に急用なんてあるのだろうか。もしかしたら実はさっきの彼氏らしき人と落ち合うなんてことがあるのかもしれない。そんな考えを巡らせながら、俺は先輩が見えなくなるまでその後ろ姿を眺めていた。雲の隙間から月が再び顔を出し始めていた。先輩は一度もこちらを振り返ることなく、月に白んだ小路を歩いて夜の闇へと消えていった。
「雨が止んだ」という誰かの言葉が耳に入ったようで、客達はそこでようやく重い腰を上げた。その後徐々に客の数も減っていき、雨音と騒音に閉ざされていた店内に嵐のあとのような静寂が訪れた。聞こえてくるのは切れかけた蛍光灯のちりちりという微かな音だけだった。
片付けの仕事は意外にも早く終わった。いつの間にか時計の針は午後11時を指していた。一刻も早く家に帰りたかった俺は店長に挨拶を済ませたあと足早に入り口の方への歩き、暖簾をくぐろうとする。「待って。」と後ろから聞き覚えのない声がした。というか、今日がバイト初日なわけだから聞き覚えがなくて当然か。聞こえなかったふりをしても良かったが大事な連絡だと困るから、暖簾にかけた手を下ろしてゆっくり振り返った。店の奥から小走りでこちらに向かってくる私服姿の先輩が目に映った。ベーシックな白のTシャツと落ち着いた深みのあるグリーンのスカート、まぁ今時の大学生といった感じ。その整った端麗な顔だちは最近人気の女優を彷彿させたが、その女優の名前は忘れてしまった。
「何ですか?」と俺は先輩に尋ねた。店の掃除が終わったら帰っていいと店長に言われていた。今日はもうこれで帰らせてくれるはずなんだが。
「青山って確か地下鉄だったよね?今遅延してるから、新今宮使って帰りなよ。」
先輩はスマホの画面を俺に向けてそう答えた。確かに画面には本町の人身事故による地下鉄の遅延情報が表示されている。こんな時間に遅延なんて、相当な迷惑。どうせ酔っ払いか何かだろう。
「ありがとうございます。先輩も地下鉄なんですか?」
苛立ちを抑えて、少し気になったことを興味本位で聞いた。帰り道が一緒ならあの劣悪な労働環境での仕事の仕方を教えてもらえるかもしれない。
「そうよ。道分かる?分かんなかったら近道あるから教えてあげる」
「あ、じゃあお願いします」
俺がそう答えると、先輩は俺の前を通り過ぎてそのまま暖簾をくぐって店を出た。俺もそれに続いた。
外では店内で二次会の場所を決め損ねたグループがまだ屯していた。近くの店は軒並み営業中だった。さすがは大阪最大の繁華街なだけはある。こんな時間まで同じように働いてる人のことを想像すると不憫で仕方がなかった。
「こっちよ」
先輩が大通りの方へと歩き出した。俺は早足でついていき、そのまま先輩の横に並んだ。
「この辺に住んでるの?新世界とかってやっぱり治安悪いから気をつけなよ。この時間は特に」
「この辺に住んではないですけど、高校はこの辺です」
「へー。そうなんだ。どうしてこんなところでバイトしてんの?天王寺の方とかもっと良い所あるのに」
「まぁ、バイト中に知ってる人とか友達に遭遇したりしたら嫌だからって感じです」
俺はそう答えたが、主な理由は違った。こんなゴミ溜めみたいな場所をバイト先に選んだのは将棋を指したかったからだ。通天閣の足元には将棋の大名人、坂田三吉の王将碑が建立されていて、長年ここ新世界のシンボルのひとつになっている。将棋クラブはもちろん、裏では〝賭け将棋〟をやってるような店もあるとか。バイトで得た金で将棋を指し、さらに金を稼ぐなんてことも考えていた。将棋の腕には自信があった。
「そう。ここには君の友達なんかよりももっと鬱陶しい奴らがたくさん来ると思うけどね」と先輩は言い放った。やっぱり先輩もこの環境を良くは思ってなかったようだ。先輩はどうしてこんなところで働いているんだろう。
俺と先輩は細い路地を抜け、大通りに出た。夜の盛り場が人の声でごった返し、まるで街全体が大声で叫んでいるかのようだった。酒を含んだ人間と、しらふの者が半分半分ほどの割合で通りを歩いている。
「先輩は…」
俺がさっき生じた疑問を投げかけようとしたとき、ちょうど先輩の携帯が鳴った。徐にカバンから携帯を取り出した先輩は番号を確認し、すぐに電話に出た。「急にどうしたの、うん、何言ってんのよ、うん、え、そう、もう帰ってるところ。分かった。また今度」と軽く話を済ませて先輩は電話を切った。電話の相手は先輩の彼氏なのだろうか。先輩って関西弁じゃないけど遠くからこっちに引っ越してきた人なのだろうか。そういった疑問を頭の中で並べながら俺は黙って先輩の会話を聞いていた。仕事中もずっと気になってはいたけど、こうして一緒に帰ってみると俄然先輩に興味が湧いてきた。
「彼氏さんですか」と俺が聞くと
「んー、どうなんだろうね…」
と沈んだ顔つきで先輩は答えた。一瞬、空気が葛湯のように重たくなった。繁華街の酔狂なさざめきは依然変わらなかったが、俺と先輩の周囲だけ緊張した深い静けさが広がっているように感じた。聞いてはいけないことだったのかもしれない。こういうときは他に何か喋った方がいい。俺は下手に詮索するのは辞めて、話題を変えることにした。
「あの…、バイトの話なんですけど、仕事のコツとかってあるんですかね。俺今日、短時間やったのにかなり疲れたんですよ。」
できるだけテンションを上げて尋ねてみる。
「最初はみんなそんな感じ。私も最初からいきなり要領良くできたわけじゃないし、まずはあの環境に慣れることから始めなよ」と先輩からありきたりな答えが返ってきた。もう少し的確なコツとかアドバイスを俺は期待していたから、拍子抜けした気分になった。そういえば、先輩もまだ働き始めて1年目だと店長が言っていたのを俺は思い出した。長らく勤めている大人と比べてなんの遜色もなく働く先輩を見ていたせいで、そのことをすっかり忘れていた。
「やっぱりあの店って環境的にはあんまり良くないですよね。先輩はなんであの店を選んだんですか?」
「実は私最近までこの近くには住んでなかったんだけど、引っ越して来た時にこの辺のこととか全然分かんないままバイト先決めちゃったのよ。ほんと馬鹿だよね」
先輩は笑いながら言った。やっぱり先輩は大阪育ちではなかった。どこから来たのか聞きたかったけど、さっき先輩が機嫌を損ねたことを思い出してあまり突っ込み過ぎない方が良いと俺は判断した。機会はいくらでもあるわけだし、また今度色々聞いてみようと思った。
そのあと俺と先輩は纏まりのない雑談を交わしながらただ真っ直ぐ夜道を歩いた。店の常連の名前、この辺のおすすめの店、俺の普段の学校生活、来年開催される東京五輪の話────。
いつの間にか大通りからそれた静かな路地を歩いていた。街灯が等間隔に立っていて、ひとしなみにあたりを照らしている。大通りとは違い、店はほとんど閉まっていて道の端ではホームレスの人が寝ていたり、厳つい表情をした男達が何やら話し込んだりしていた。先輩はいつもこんな危ない道を一人で帰っているのだろうか。近道とはいえ、少し危なすぎるように思える。先輩は平然と構えて歩いていたが、俺は全身に汗が流れるほどの不気味さを感じた。引き返すことを先輩に提案しようと考えたりもしたけど、やっぱり臆病な印象を持たれたら嫌だから黙って歩くことにした。数メートルの間隔で道が分かれていて、人気はないもののまだ繁華街の中のようだった。自転車に乗った警官が俺の横を通過して、そのまま手前の道を曲がっていった。何かあったのだろうか。よく見渡すと、周囲の人たちも俺たちを追い抜いて、小走りでその道の方へ向かっているようだった。
「この辺ではよくあることよ」
不安そうな表情の俺を見て先輩は言った。
「喧嘩とか…ですか?」
そう言って俺は左に伸びている道に目を向けると、パトカーが2台停まっているのが見えた。警察の貼った黄色の規制テープの手前で軽い人集りがてきていて、警察官と何か言い争っているような人もいた。日本語ではないように聞こえる。見た目からしか判断できないけどおそらく中国語だろう。この辺は中国人も多い。
「多分そうだと思うけど…」
よくあることだと言った割には先輩は立ち止まって、神妙な面持ちで事件現場に目を遣っていた。
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「いや、今日は早く帰った方がいい」と先輩は即答した。それは先輩が自分に言い聞かせて言ってるかのようにも感じた。先輩の顔は引き締まっていて、瞬ぎもしなかった。
「行こ」
先輩がそう言うと、俺達は路地を曲がることなくその場を離れた。さっきよりもさらに歩くスピードが速まっているような気がした。道行く人は皆俺達とは逆方向へと向かっている。この様子から推測するに、割と大きな事件だったのかもしれない。俺達は人の波に逆らって、ただ歩き続けた。正面の月が少しずつ色を薄くして空の中へ消えていった。
ようやく、繁華街を抜けて駅が見えるところまで来た。駅の周りは閑散としていたが、虚ろに輝く街の煌めきにはなぜか暖かみがあって、まるで別世界から帰ってきたかのような安心感に包まれた。あの事件現場を見てから先輩の口数が減ったようにも感じたが、表情はかなり柔らかくなっていた。
「じゃあ、この道沿いに歩いて行ったら左手に新今宮駅あるから」
交差点に出たとき、ふと先輩が前を指差して言った。
「先輩はこの駅じゃないんですか」と俺は尋ねた。この駅と地下鉄を除いて、近くに駅はない。5分ほど前、俺のスマホの画面には確かにまだ人身事故の情報が表示されていた。
「ちょっと用事思い出しちゃったのよ。時間かかるから先帰ってていいよ」
先輩はそう言うと、軽く手を振って俺が引き止める間も無く来た道を引き返して行った。こんな夜中に急用なんてあるのだろうか。もしかしたら実はさっきの彼氏らしき人と落ち合うなんてことがあるのかもしれない。そんな考えを巡らせながら、俺は先輩が見えなくなるまでその後ろ姿を眺めていた。雲の隙間から月が再び顔を出し始めていた。先輩は一度もこちらを振り返ることなく、月に白んだ小路を歩いて夜の闇へと消えていった。
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