100回目のキミへ。

落光ふたつ

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〖2章〗

【16話】‐13/99‐

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 村松美桜は、その女子生徒へと向かう彼の手首を掴んだ。
「雅文、何する気?」
 足を止めさせられた彼は、呆けた顔で振り向く。
「何って、今までにおれ、何かしたっけ?」
「した、でしょ……」
 白々しいと美桜の顔は歪むが、彼は鼻で笑い飛ばした。
「してないよー。誰か、おれが何したかって憶えてる人いるー?」
 周囲も巻き込んで問いをバラまく。当然、誤魔化された記憶を明瞭に引き上げられる人物などここにはいない。ニタニタとした視線に晒されたクラスメイト達は、軒並みに顔を背けていく。
 その中で、他クラスである美桜の友人だけは真っ向から睨み返し、罵声で立ち向かおうとしたのだが、それは美桜の怒声によって遮られた。
「ふざけないで! わたしは覚えてる!」
 ハッキリと告げ、彼の手首を掴む右手に力を入れる。
 とは言え、彼にとってそんな事実、関係なかった。
「そんなにおれを拘束したいんなら仕方ないなぁ、じゃあこれあげる」
 嫌らしい笑みを浮かべたまま、彼が美桜に差し出したのは青いビニールロープの縄跳びだった。
 突拍子のないその品に美桜は困惑してしまい、その隙に彼が手首を掴む右手へと縄跳びの一端を握らせた。
「これが、なんなの……?」
「ちょっと待ってねー」
 回答を遅らせ、彼はビニールロープを自分の首に巻き付けていく。一周、二周と繰り返し、そして美桜が握るのとは反対側のグリップをうなじ当たりに差し入れきつく結ぶ。
 試しにと自分で引っ張ってみて「ぐえっ」とわざとらしく声を上げると、彼は満足げに美桜に視線を返した。
「はいっ、これでリードの完成。しっかり握っててワン」
 ふざけて両手を顔の側まで持ってきて犬の物まねをする。すると当然、美桜の怒りは更に募っていった。
「ふざけてるのっ?」
「……美桜、もう関わんなって、」
「いや大丈夫だから」
 友人が、美桜と彼を引き離そうと口を挟むが、しかし美桜は聞く耳を持たず、幼馴染を睨みつけ続ける。
「ねえ、こんなことして何が楽しいの?」
「ほら、体育祭も始まるし、綱引きの練習だよ」
 怒りの相貌にはまるで取り合わず、彼は鼻歌を鳴らしながら教室の窓を開けていた。そうして少し距離が離れれば、青のロープはすぐにピンと張られる。
 話を聞け、と美桜が詰め寄ろうとしたところで、彼は笑顔を絶やさないまま窓枠に腰かけた。

「それじゃあ美桜、おれと勝負だっ」

 そして、呑気な彼は体を窓の外へと傾ける。

「……っ!?」
「美桜ッ!」

 彼は重力を味方につけ、綱を勢い良く引っ張った。対する美桜は窓際まで引きずられ、あわや落下しそうになったところで友人が引き止めなんとかその場に留まる。
 それからすぐ、ロープの抵抗はなくなった。
 強引に結末を見せられた美桜は、その手を震わせ綱を離し、彼に勝利を譲る。同じ光景を見る友人も思わず言葉を失くし、同級生達は関係ないと言って動かない。
 その日常は、今日も塗り潰されていく。

◆◇◆◇◆

 ——ピンポーン。
 その音を待っていた雅文は、少し緊張しながら玄関扉を開ける。
「お、大宮さん、いらっしゃい」
「お邪魔します、加納君」
 雅文がぎこちなく出迎えたのは希李だ。彼女は制服姿で、小柄な体躯にしては少し大きいリュックを背負っていた。
 今日の来訪を約束していたとはいえ、雅文はまだ、希李に対してどう接すればいいかが分かっていない。終始ソワソワしている彼に、ふと希李が視線を向けてきた。
「………」
 何か言って来るのかと思いきや、その瞳はじっと顔を見つめてくるのみ。視線に耐えかねた雅文は首を傾げる。
「ど、どうかした?」
「……ううん、何でもない」
 誤魔化すように笑って、希李は玄関を上がる。しかしその不思議を追究しようと思えるほどの心の余裕は雅文にはなかった。
「えっと、大宮さん、別にすぐ来なくても良かったんじゃない?」
 とにかく間を埋めようと、手近にあった疑問を投げる。
 現在は正午を回る前で、雅文が命を消費してからそう時間が経っていない。希李には関係なく学校があるだろうにこんな時間から来ても良いのかと思ったが、彼女は相変わらず掴みどころのない笑みを見せてきた。
「へへっ、だいじょぶだいじょぶ。なんせあたし、元々結構不真面目だし」
 学校でどんな評価を受けているのか知らない雅文にはその自己評価の真偽は分からず、余計彼女に対しての申し訳なさを味わってしまう。
 そうしている間に希李はダイニングへと踏み込み、散らかるその一室を改めて眺めていた。それから背負っていた荷物を足下に下ろすと、気合を入れるように腕をまくる。
「それじゃ、始めよっか」
 そう言って彼女がリュックの中から取り出したのは、雑巾や洗剤と言った掃除用具だった。
 今日の約束は、希李が加納家を掃除してくれるというものだ。心身の疲労で家事を放置していた雅文を労っての事だろうが、雅文としてはやはり肩身が狭く感じる。しかし強引な希李を止める事は出来ず、決行された。
 ダイニングは先日よりもゴミ袋が減っている。一応、雅文がいくつか事前に出していたのだが、埃等はそのままで不潔な印象のままだ。
 希李が何からやるかと悩んでいるところに、雅文は一応と尋ねてみた。
「掃除って、どのくらいやるの?」
「そりゃ、全部ピカピカにしようよ。あ、加納君の部屋もやっていい?」
「え、いや、まあ大丈夫だけど……」
 別に見られて困る物はない。とは言え、全てを任せてしまうのは気が引けるのも正直なところだった。
「俺も、一緒にやっていいかな……? 暇だし……」
 控えめに雅文が提案すると、希李は思いのほか顔を綻ばす。
「ほんと? 助かるー」
「いやまあ、自分の家だし」
 感謝に対して雅文が目を逸らしていると、希李が突然、不安な告白をした。
「実のところあたし、家で掃除とかほとんどしたことないんだよねー」
「えぇ?」
 じゃあ何で言い出したのかと聞けば、「加納君の力になりたかったから」と正面から言われ、雅文は余計に彼女の目を見られなくなったのだった。



 言っていた通り、希李の手際はあまり良くなかった。
 むしろ以前まで家事全般をこなしていた雅文の方がテキパキとこなしていて、担当した面積で言うなら彼の方が明らかに広い。
 とは言え、彼女は明確にきっかけになってくれた。独りでない時間は、雅文の心を幾分も軽くしている。
 掃除の間は、ふとした時に会話もした。
「そういえば、どのくらい記憶残ってるの?」
 昨日、希李は事情を知ってから試しに雅文が殺される現場を見ると言っていた。それを思い出し問いかけるも、彼女はキョトンと首を傾げる。
「え? 何の事?」
「あれ、見てたんじゃないの?」
「………あ、そうだった。すっかり忘れてた」
 しばらく記憶を探って、希李はようやく思い出したらしい。やはり神による誤魔化しはよほど強力なようだ。
 とそこで、更なる疑問が湧いた。
「じゃあなんで忘れてたのに、こんなすぐ家来れたの?」
「ああ、それはこれ」
 その答えは明瞭に返された。
 希李が見せたのは彼女の手の平だ。そこには『加納君の家で掃除!』とマジックらしきもので力強く書かれてある。
「そっか。そう言うのは消えないんだね」
「そうらしいね。でも、2組に行った事はほとんど覚えてなかったよ。気づいたら自分のクラスに戻ってたし」
「何も覚えてない感じなんだ?」
 そう聞くもその解釈は少し違っていたようで、希李はより近い表現を探す。
「んー、なんか思い出そうとしたら別のこと考えちゃう感じかな?」
 実際に頭の中を遡ってみれば記憶としては残っているらしい。ただそれを探そうという気になれないと言う。
 ならば、神の力にも抗える自我があるなら、ハッキリと覚えておくのも無理な事ではないのだろう。
 雅文は抱いていた疑問を解消させ、そのまま掃除を続けていった。



「キレイになったねー」
 掃除が終わったのは夕方に差し掛かろうとする時間帯だった。
 希李の言葉通り、見渡すダイニングはすっかり埃一つ見当たらない。ついでに雅文の部屋も同様に新生活のような清潔感を手に入れていた。
 久しぶりの清浄な空気に、どことなく雅文の心も晴れ晴れとした感じがある。希李を招いた頃の緊張もすっかり消えた。
 掃除用具も片付け終え、今日の約束は果たされた。しかし、希李は帰る素振りを見せず、何やらまたリュックを漁っている。
 使用した掃除用具にしては大きい鞄だと思っていたが、その疑問はここにきて明らかとなった。

「加納君。まだあたし時間あるし、一緒に遊ばない?」

 彼女が取り出したのはゲーム機だ。
 テレビに繋ぐ家庭用機。しかも2種類持ってきたようで、ゲームソフトも加えれば当然、掃除用具よりも大荷物。更には折り畳みの椅子まで引っ張り出して、同居人が帰って来ても居座れる準備まで施した。
 そこまで用意をされてはさすがに誘いを断れない。家主の許可を得た希李は、テキパキと加納家のテレビに配線を繋いでいった。
 食卓から眺められるようにテレビは置いてあったが、もうしばらく電源すら点けていない。今後も使う予定はなかったのに、彼女が念入りに掃除していたのはそういう事だったらしい。
 配線を繋ぐのはよほど手馴れているらしく、掃除以上に手際が良くて雅文が思わず苦笑していると、そう言えばと彼女はゲームが好きだと聞いた事があったのを思い出した。
 そして雅文自身も、多くはやっていないながらも好きだと話した事も。

「……っ」
 突然、こみ上げてくる。

 その理由を考える前に雅文は必死に堪えようとして、しかし一つ二つと留めきれない雫が落ちてしまった。
 目を擦ると余計溢れた。鼻まで啜ってしまい、多分希李にも気づかれただろう。
 それでも彼女は振り向かなかった。作業の手を遅くして、雅文に時間を与える。

「……大宮さんは、優しいね……」
「そんなそんな。あたし、悪い子だから」

 何も状況を知らない風に彼女は言って、対して雅文は言葉を返せなかった。

 自分でない存在が側にいるとようやく実感する。
 誰かに頼る訳にはいかないとか、独りで頑張るしかないとか、そんな風に自分を追い詰めていたけれど、温もりを再び知ればもう堪えられなかった。
 やっぱり、独りは辛い。
 その痛みをようやく認めて、雅文はこの時だけは弱い自分を責めなかった。

 雅文が涙を止めるには随分と時間がかかった。それでも希李はその間ずっと作業を続けているふりをして、ようやく準備を終えたと告げた時、雅文もちゃんと顔を上げていた。
 明らかに赤くなっている目元に言及する事はなく、希李はいくつもあるゲームソフトを並べて問いかける。
「さ、どれやる? 一人でやる奴も、二人で出来るのもあるよ」
「……二人で、出来るのがいいな」
 そう、自分から踏み出したのは随分と久しぶりな気がした。
 その要望に希李は屈託なく笑って受け入れてくれて。
 陰鬱だった日々にも、光が差し込み始めていた。
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