100回目のキミへ。

落光ふたつ

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〖3章〗

【26話】‐30/99‐

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 痛みが消えればすぐだった。
 見失っていた仮面はいつの間にか取り戻していて。
 我慢していたからいけなかったのだ。
 己の意識を常に置いていたせいで邪魔になっていた。
 我慢などしない。苦しみなんて持ってはいけない。
 悪にはそれこそが必要だった。

「っ……」
 加納雅文の眼下で、永見が右頬を抑えていた。
 彼女の鋭い眼光は、握られた拳を前に揺らいでいる。
「おれも散々殴られたんだから、正当防衛でしょ?」
 こちらには正義があると男は主張した。
 周囲も、いずれそうなるとは予想していただろう。床に座り込む他クラスの女子に、憐憫以上に呆れの視線が集まっている。
 けれど唯一、その一人だけは割って入った。
「雅文ッ!」
 美桜の声は今までになく怒りに染まっている。正当性など関係ない。友人の傷に、我も忘れてしまっていた。
 その結果に、加納雅文は嬉しくて思わず口端を上げる。
 そしてまた一つ。
 命を消費して、目標へと近付く。

「かの——」
 遅れて教室に踏み入った雉尾は、何をする事もなかった。
 人々の記憶は改ざんされ、神の思い通りにまた、繰り返される。

◆◇◆◇◆

「彼女さんとはどうなんです?」
 喫茶こもれび。昼の部をそろそろ閉めようという時間。一人だけの客を残した店内で、花香は雅文を茶化すように言った。
「いやだから、彼女じゃなくて……」
「えー? でも見るからに人妻って感じでしたよ?」
「人妻って、まだ高校生だし」
 突飛な発言に雅文は戸惑い、下手な笑いを浮かべる。その表情からはすっかり、看板娘に対しての警戒心がなくなっていた。
「というか、高校生にしても可愛らしい方でしたね」
「まあ、背は低い方だよね」
「なのに、妙なエロい雰囲気がありましたっ」
「えぇ……?」
 中学生女子の口から出た不釣り合いな言葉に、雅文はまた返答に困ってしまう。まだ客も残っているのに、と視線は開店からずっと居座るスーツ姿の女性へと動いていた。
 その客は相も変わらずノートパソコンと向き合っていて、少しだけホッとする。
 そんな雅文の心労を気にした様子もなく、花香は懲りずに世間話を続けた。
「そう言えば夏休みも近いですし、遊びにぐらい誘ったらどうですか?」
「いや……まあ」
 茶化しているのかアドバイスなのか。提案の真意がいまいち分からず曖昧に誤魔化す。
 それからすぐ閉店時間になり、花香は常連客の会計へと向かった。雅文は空になった食器を片付け、洗い場へと運んでいく。
「……夏休み、か」
 花香の元気な接客が聞こえる中、雅文は迫る長期休暇について考えていた。
 雅文は部活に入っていないし、美桜も一度目と変わって帰宅部。学校に行くことがなくなり、彼女の予定を掴むのはかなり困難になるだろう。
 無理に殺される機会を狙っても空振りするだけ。なら、少しは休めるのかもしれない。
 夏休みを前に、雅文も僅かな期待を抱くのだった。

◆◇◆◇◆

 ——ピンポーン
 予定通りの来訪に、雅文はすぐに扉を開けた。
「よっ、元気してたか?」
 夏休み初日。加納家にやってきたのは、息子を心配した父——加納啓二だった。
 色の抜けた短髪に目元を隠すサングラス。そしてその隣には、ハーネスを付けた大型犬が一匹座っている。
 一度目と全く同じ光景に、雅文は過去を思い出しながら出迎えた。
「おかえり、父さん。元気だよ」
「ただいま。元気なら何よりだ。っとそうだ、この子は今訓練で借りてる子でな」
 靴を脱ぎながら啓二は連れてきた盲導犬を紹介する。そのゴールデンレトリーバーは、じっと座り指示を待っていて、いかにも賢そうな風体だった。
 訓練の最中に無理を言って時間を作ったらしい。外では付き添いも待たせているから長居は出来ないと啓二は語ったが、一度目の時も1時間近くは積もる話をした記憶があった。
 多少融通も利くのだろう。とは言え一応と雅文は尋ねておく。
「お菓子とか用意してもらったんだけど、食べる時間ある?」
「もちろん大丈夫だぞ。というか、誰か来てるのか?」
「ああうん。友達が来てて……」
 父の問いかけに答えながらキッチンのドアを開けると、ふわりと甘い香りが漂って来た。その出所は食卓に並ぶクッキーで、一緒に紅茶まで置かれてある。
 歓迎の準備をしていた少女は雅文父に気づき、ぺこりと頭を下げた。
「あ、こんにちは。大宮希李って言います。雅文君とは同じ学校で、時々お邪魔させてもらってます」
「ああどうも。いつも息子がお世話になってます」
「いえいえこちらこそ」
 形式的ながらもにこやかに二人は挨拶を交わす。希李について父になんて言われるかと雅文が少しソワソワしていると、予想していた言及は後回しにされた。
「もしかして、もう一人いるか?」
 感覚が鋭くなったのか、啓二は無言を貫いていた気配に気づく。
「あ、うん」
 雅文が頷き目配せをすると、座っていた彼女はそのままの姿勢で名乗った。
「向井悠里と申します。私はクラスも一緒です」
 端的に。そもそも気づかれなければ空気でいるつもりだった彼女は、繕っていない無機質な表情で軽い会釈だけをした。
 それでも息子の友人と言うだけで啓二は嬉しそうにして、ようやくニヤついた笑みを浮かべる。
「どうもどうも。にしても女の子二人かー」
「ま、まあ。それより早く座ってよ」
 深掘りされても話せる事が少ない雅文は、誤魔化すようにして父の着席を促した。
 啓二の対面には雅文が座り、待ての指示を受けた盲導犬は主人候補の足下で褒美の餌を咀嚼している。全ての準備を終えた希李も雅文の隣席に腰を落ち着けたところで、ティータイムは始まった。
「ん、美味しいね。これは大宮さんが作ったのかな?」
「はい。と言ってもレシピをそのまま真似ただけですけど」
「じゃあレシピを選ぶセンスが良いんだ。紅茶ともよく合う」
 啓二のべた褒めに希李は思わずはにかむ。そんな様子に雅文もどこか嬉しくなった。
 加納家にオーブンはないため希李が自宅で作って来たらしいが、見た目も整っていて市販の物と言われても疑いようのない出来だ。
 雅文も希李の好意を味わいながら、父に世間話を振る。
「父さんの方は大丈夫そうなの?」
「ああ、何とかなってるぞ。仕事の方も昔馴染みの伝手でどうにかなりそうだしな。ただ、その職場の近くで暮らす事になりそうだから、まだ一人暮らしをさせちゃうだろうが」
「それは大丈夫だよ」
「まあ女の子二人も連れ込んでるし、そっちの方が都合が良いか?」
「いやっ、そう言うわけじゃ……」
 息子が露骨に戸惑うと父は豪快に笑う。親子にとっての久しぶりの談笑は、冗談も混じり笑顔で溢れていた。
 今までと変わらない。変わってしまう前と、その二人の関係は同じなままだった。
 希李とユーリは邪魔せずに耳を傾けていて、時折話を振られれば当たり障りなく受け答えをする。連れてこられた犬は、話題に挙げられてはその毛並みを撫でられていた。
 穏やかな時間。
 その親子は互いに心安らいでいただろう。唯一の血の繋がりは、その時限りでも安息をくれていた。
「……」
 家族から最も縁遠いユーリは、それをじっと見つめている。食い意地の張った神の使いは、珍しく菓子にほとんど手を付けていない。
 矛盾する彼の表情に、目を離せないでいた。
「いやいや、父さんの方こそどうなの?」
 楽し気に笑う雅文の頬は、あまりに濡れている。
 滂沱の涙。けれども滴を拭おうとはせず、当人はまるで気づいていないかのように振舞っている。
 希李は気を遣って言わないのだろう。啓二は見えていないだけか。あからさまに意識しているのはユーリのみ。
「…………」
 喉の奥で膨らむこれが、罪悪感なのだろうか。
 呑み込む事も吐き出す事も出来ず、ひたすらに息苦しい。
 ユーリは俯く。
 酷く、彼の視線が気になった。あるいは、見つかるのを求めていたのかもしれない。
 感情は、人間でなくとも非合理だった。
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