森を守るお仕事です。

落光ふたつ

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第2幕

第10話「川を下る」

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△△▽▽□

 遊具作りを始めて、丁度一日が経過した頃。
 僕とリツが試しにとミニチュアすべり台を組み立てている所に、ひょっこりとイズミが顔を出した。
「………」
 彼女は僕をじっと見ている。どうやら話しかける機会を窺っているようだ。
「ごめんリツ。イズミが用あるみたい」
「おう、構わねぇよ」
 断りを入れてイズミの下へ歩み寄ると、彼女は僕が用件を尋ねる前に口を開いた。
「出来た」
 脈絡のない簡潔な一言だったが、その意図はすぐに伝わる。
「もう出来たの?」
「これからお披露目する」
「じゃあ皆も連れて来るね」
 そのまま、イズミは表情を動かさないながらも浮かれた様子で駆け出していく。それを微笑ましく見送った後、僕はリツとテンちゃん、エナちゃんに招集をかけた。
 作業を一旦止めて川へ。イズミが見せたい物があるらしいと言えば、それが彼女による完成披露会なのだと三人もすぐに察していた。
 会場に着けば、ヒィちゃん達がそれを川岸へと運んでいる所だった。
 イズミはこちらに気づき、運ばれてきた作品を披露する。
「ばばーん」
「「「「「ヒヒぃーっ!」」」」」
 イズミに続いて森の精達もこぞって声を上げ、幾本もの腕で強調されたのはイカダだ。
 長さを揃えた丸太を並べて縛って、大きさはおよそ四畳半。作りはかなり簡易的だが、それぞれの丸太の表面は綺麗に削られていて、極力隙間を生まないこだわりがあった。
 唯一、この完成形を事前に知っていた僕は、三人の反応を楽しみに窺う。
「作ってたのってイカダか。良い出来じゃねぇか?」
「乗ったらめっちゃ楽しそう!」
「……これで下れば森を出れるかもってことですか?」
「いやただの娯楽」
 一人一人から上がる声にイズミは口元を緩めている。その様子に、手伝った身として僕も嬉しくなった。
 そして、これだけではないとイズミは、少しだけその場を離れ、最後の部品も持ってくる。
「旗も用意したっ」
 地面に突き立てる動きに合わせ、くすんだ白色が僅かにはためく。
 イズミの身長と同じぐらいの細めの丸太。その上部には毛を丁寧に抜き、四角形に切り取った鹿の毛皮が縫い付けてある。
 つまりイカダはまだ未完成品。この旗を立ててようやく完成だ。
 イズミは皆の前で仕上げを行いたかったらしく、注目を集めながらイカダの上に乗る。
 僕はそこでふと思いついて、旗を嵌める穴を探している彼女を呼び止めた。
「イズミ。どうせならその旗にもう少し手を加えないかな?」
「? 何する?」
「えっと、どこか平らな場所は……」
 条件に当てはまる場所を求めて辺りを見渡す。すぐに表面が滑らかで比較的大きな石を見つけ、そこにイズミから受け取った旗を置いた。
「うん、丁度良いな」
 充分だろうと判断し、それから僕はポケットをまさぐってある物を取り出す。それは、女の子のためにコッソリと用意していた品だ。
「エナちゃん。これで、旗に絵を描いてくれないかな?」
「え、これって……」
 エナちゃんは目を丸くしながら僕の右手に乗る物を見つめた。その驚いている様子に、一応と僕は経緯を説明する。
「あの旗、鹿の毛皮でね。抜いた毛が余ったから作ってみたんだ。大分出来は雑だけど、ぜひ君に使ってほしくてね」
 そう言って僕は、エナちゃんに筆を握らせた。
 細い枝の先に毛束を一周させただけのチープな仕上がり。到底威張れる程の品ではないが、それでも受け取った女の子の瞳は密かに輝いていて、僕は予想が間違っていなかったと安堵する。
 ただまあ、その予想をしたのは僕ではなく。
「道理であんな事聞いたわけか」
「リツは、ほんとよく気づくよね」
 納得した笑みを見せるリツに、尊敬を込めて返す。
 昨日の採集の際、エナちゃんは何かを探しているようだった。それが気になって、それとなくリツに聞いてみたのだ。あの子は何か欲しい物があるのかな、と。すると、画材でも欲しいんじゃないかと教えてくれた。
 絵を描いていた女の子はとても生き生きとしていた。その様子から彼は、あれがやりたい事なのだろう、なら絵を描くには道具も必要だろう、と推理した。
 それで、鹿の毛を抜いている作業中の思い付きで、片手間に僕は作ってみたわけだ。なんとなく渡すタイミングを逃して今になりはしたが。
「え、えと、アタシが描いてもいいんですか?」
「よい」
 イズミの即答を受けると、恐る恐るとしながらもエナちゃんは一歩前に出て、旗の前にしゃがんだ。
「す、少しだけ待っててください」
 申し訳なさそうに断りを入れるが、誰も不満を言うはずがない。
 女の子は何を描くか迷っている様子で一度僕達四人を見渡す。一周し、改めてキャンバスに向いた時、その瞳は答えを出していた。
 女の子のまとう空気が変わる。

 筆を構えればその先が鮮明に輝き。
 躊躇のない筆運びは塗料もないのに軌跡を残して。
 流麗な所作はそれそのものが既に芸術のようだ。

 筆が止まり。
 それが、完成の合図だった。
「で、出来ました……」
 ほっと息を吐いた途端、元の女の子に戻る。何かが憑依していたとすら思えたエナちゃんはもう消え、振り向いたその表情は照れくさそうな、年相応のものだった。
 呆気にとられつつも、僕達は披露された作品に視線を移す。
 鹿の皮で作られた旗に描かれたのは、ピースサインだった。
 描かれているのは五本の指だけ。手の平や手の甲、手首より下もない。輪郭はなく、五色でそれぞれの指が描かれている。親指は黄色、小指は水色で薬指が緑色。そして立つ人差し指は赤色で、中指は鹿の皮に重なっても分かる純白色だ。
 各指は色の濃淡を使って写実的に表現されている。日頃から絵を描いている人でなければ、これほど見事に形を掴むのは至難だろう。
「……文句なし」
「大したもんだな」
「うん。だね」
 イズミ、リツ、僕が続けて褒めるとエナちゃんは恥ずかしそうでありながらも誇らしそうにはにかんだ。そして、最後の一人にも求める。
「テンちゃんは、どうかな……?」
 絵を見つめて黙ったままだった少女は、期待の目を向けられてようやく見返した。
「……あたし、エナの絵好きだ」
 珍しく騒ぐ事なくテンちゃんはポロリと零す。
 思った事をハッキリと言う少女だからこそ、そのいつにもない反応は、誰の言葉よりも届いたようだった。


 五色のピースサインが描かれた旗はすぐにイカダへと突き立てられ、イズミの作業は終わりを迎えた。けれど勿論、イカダを作るのが本来の目的ではない。
「これから川下るけど、乗る?」
「乗る乗る!」
「そりゃ乗るぜ」
 イズミが皆を見回して提案すると、真っ先にテンちゃんとリツが反応し、早速船員として加わった。イカダはまだ川岸に乗り上げているが、乗ったままの状態でヒィちゃん達が押し出してくれるようだ。
 さて僕も、と足を出そうとした時、不意にエナちゃんが声を掛けてきた。
「あの。筆、ありがとうございましたっ」
「ううん、気にしないでよ」
「いえっ、本当に、ありがとうございます……」
 エナちゃんは筆をぎゅっと胸に抱え、そう感謝を告げる。予想以上の喜び具合に僕は少し戸惑ってしまい、話を逸らすように皆が乗るイカダを指差した。
「それより、エナちゃんはイカダに乗らないの?」
「えっと、あ……」
 視線をさまよわせて筆を見る。あまり乗り気ではないのだろうか、と思ったが、その俯いた顔は少女からの誘いですんなりと上がった。
「エナも乗ろうよ! ずっと作業ばっかで疲れたでしょっ?」
「う、うんっ。でも筆どうしよう」
 どうやら、川下りで筆を落とすのではと心配していたらしい。おろおろとしている様を見兼ねたのか、一匹のヒィちゃんが女の子へと近寄ってくる。
「ヒぃっ」
 そして、任せてくれ、とでも言いたげに腕を伸ばした。言葉はなくとも十分に伝わったようで、エナちゃんは困惑しながらも森の精に視線を合わせる。
「あ、預かってくれるの……?」
「ヒぃヒぃ」
 コクコクと頷く立体。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「ヒっ!」
 元気な肯定を受けて、エナちゃんはヒィちゃんへと筆を渡した。
 自分よりも全長の長い品を受け取りながらも森の精がよろめく事はなく、しっかり体に固定して抱え、落としてしまわないようにか、その場でピタッと静止した。すると不思議そうに寄って来た他のヒィちゃん達がツンツンつつく。筆を抱えるヒィちゃんは、動かないながらも邪魔をするなとばかりに「ヒぃヒ~」と鳴いていた。
 そんな彼らは、僕とエナちゃんが船に乗ればイカダの下へ集まってくれた。声を合わせて押し出す立体達は、水に入っても膂力を変えず息継ぎもなく、しばらくして足場が縦に揺れ、彼らの手が離れたと知る。
 丸太を繋ぎ合わせただけの簡素な造りだが、どうやら浮力は充分らしい。
 四人分の体重を支えるイカダは川の流れに沿って進む。オール等は準備していないから、完全に流れ任せだ。
「おおっ、進んでるなっ」
「あれリツ、ビビってない?」
「あ、アタシもあんまり得意じゃないかもっ……」
 船体にしがみつくよう四つん這いになるリツにテンちゃんは噴き出している。その横で申し訳なさそうにエナちゃんも苦手を申告して、少女の体にピットリと引っ付いていた。
 ちょっとした体重移動でイカダはすぐ揺れる。しかも川はどこも深いというわけではないから、時折船底が岩にぶつかって振り落とされそうになった。それを楽しめているのは、今のところイズミとテンちゃんぐらいだ。
「む、急流」
 船頭に立つイズミが進行方向を見て報告するも、心の準備は間に合わなかった。
「おぉおおおお!?」「とわわわわっ」「……っ!?」
 絶叫するリツに寄りかかるテンちゃんにしがみつくエナちゃん。テンちゃんはまだ少し余裕そうだ。体格もあって身軽なのかもしれない。
 などと観察しているが、実際のところ僕も気が気でない。命の危険を身近に感じると何も楽しくなかった。
 周囲を水しぶきが囲い、何度も進路の向きが変わる。そのせいで視点が定まらず景色を眺める暇もないし、三半規管は弱くないはずだが吐きそうだ。
「ちょっ、これ大丈夫っ?」
「この舟に安全性はないっ」
 さすがに不安になってイズミに問いかけるも、返答はより恐怖心を煽る。
 せめて皆無事に帰れるようにと、水しぶきの中顔を上げた僕は、更なる絶望が迫っていると知った。
「この先、滝だ……」
「いえーい、滝だー」
 僕とは真反対にイズミがガッツポーズを取る。
 数m先、川は突然に途切れていた。それは水の流れが直下に向かって見えなくなっているためで、現在地点からでは滝壺がどこまで下にあるのかも分からない。と言うか、着水出来ればまだ良い方だ。岩肌にぶつかればまず助からないだろう。
 眼前に迫る脅威に、他の面々も気付いたようだった。
「ちょ、やべぇじゃねぇか!?」
「さ、さすがに危ないよね!? 降りた方がいい!?」
「お、おお降りても流されるだけだと思う……!」
 などと三人が言い合っている間に落下の瞬間は迫ってきて。
「捕まれぇッ!?」
 リツが二人を抱き寄せ、僕もイズミの胴を抱え込んでリツ達の下に固まる。
 直後、浮遊感が訪れ。
「ひゃっはー」
 動じないイズミの声を最後に、僕らは滝へと呑み込まれたのだった。


「あー、二度とこんなのしねぇぞ」
 仰向けになってプカプカ浮かぶリツが恨み言を吐く。その側では、丸太にしがみつくテンちゃんとエナちゃんもいた。
「けど、案外楽しかったかも!」
「あ、アタシはもういいかな……」
 少女は興奮を共有したそうだったが、女の子はそっと視線を逸らす。
 結果的には皆無事だったが、感想はハッキリと二分されている。僕がどちらに属しているかは言うまでもない。
 助かった要因は、ざっくり言えば偶然だ。落下高度が比較的低く、周辺の岩肌にぶつかる事もなかったため。それに滝壺の水深がそれなりに深かったからもある。なんだかんだ僕達は運があるようだった。
 着水の勢いでイカダはバラバラになったが、今は一部泳げない面子の浮き輪替わりとして役立っている。結びが解けた旗も、テンちゃんがしっかりと確保していた。
 僕は一足先に水から上がりつつ、一瞬で圧し掛かった疲れを息として吐き出す。
 僕としてはもうこんな危険行為は遠慮したい、けど……。
 浮かべた望みを諦めつつ、僕はイズミを見た。
「ふおーっ」
 彼女は一人で滝修行をしている。決死行アトラクションを終えて、未だに刺激を求めているのだろう。恐らく拠点に戻れば、イカダ二号の製作へ取り掛かるに違いない。
 好きな事はやらせたいが、さすがに危険があると放っておけない。せめて監督しておかないといけないな。
 などと考えつつ服の水気を絞っていると、キリなく水が溢れてきて少し億劫になった。
 それからしばらくして、川で浮かんでいた三人も上がってくる。
「絵が流されなくて良かったーっ」
「水に、滲まないんだねこれ」
「……ほんとだ。やっぱエナってすごいんだよっ」
「いや、アタシの力じゃないよ……」
 やはりよほど気に入っているらしく、テンちゃんはエナちゃん作の絵が描かれた旗を大切そうに抱えている。その様子に作者本人は、困ったようでありながらも嬉しそうだった。
「僕、イズミ呼んでくるね」
「おう。てかあいつ、はしゃいでんなぁ」
 リツの苦笑に僕も同意しながら、滝修行の場まで駆け足で向かう。
 滝は結構な大きさで、幅が20m近くある。一部にはせり出す岩に水が打ち付ける所があり、そこでイズミは座禅を組んでいた。
 近づけば当然に水しぶきが襲ってくる。とは言え濡れるのは今更で、僕は構わず進んだ。
「イズミー、帰るよー!」
 滝の音に負けないよう声を張り上げる。けれど、頭上からの轟音にはそう勝てなかったようで、イズミはまだこちらに気づかない。
 もう少し近づこうと、崖になっている岩肌に手をつきながら歩く。間違っても滝壺に落ちてはいけないなと恐怖心を抱いていると、不意に支えがなくなってバランスを崩した。
「っと……」
 僅かに声が漏れつつもどうにか体勢を整える。ただその時、踏み出した足が先ほどよりも広い踏み場を捉えたような気がして疑問が生まれた。
「ここ、洞窟になってる」
 疑問を解決させたのはイズミだった。どこかのタイミングで僕の気配に気づいたらしく、滝修行を終えてすぐ近くまで寄って来ていた。
「結構、広いね」
「ん。ヤマさんのウチよりおっきい」
 言われながら、ペタペタと壁に手をついて奥行きを確認すれば、確かに六畳以上はありそうだった。とは言え、奥へと続いているわけじゃない。
 それにどうやら、ここら辺の岩がせりだしていたのも、洞窟の上部が滝の浸食で先に削れたからのようだ。
「何かには使えそうだけど、こう暗いと何も出来ないね」
「濡れても大丈夫な光が必要。けど、一人で籠りたい時は最適」
 確かにそうかもしれない、ともしイズミがいなくなったらまずはここを探そうと決めて、僕達は滝から抜け出た。
 もう空は夕暮れに染まっている。皆と合流すれば、早速帰り支度となった。
「さーて帰るか」
「帰るにしても、この滝登らなきゃいけないですよね……」
 危惧するエナちゃんの視線は上へと向いている。
 滝を構成する崖の高さは約5m。パッと見回してみても、都合よく登れそうな箇所はない。脇の森に入って回り込めば何とかなるかもだが、それだとすぐ迷って時間を浪費してしまうだろう。
 とは言え、もうここでの暮らしに慣れた僕含む四人は、なんとなくにそんな心配はいらないだろうと予測していた。
 テンちゃんが、安心させるようにエナちゃんの手を引っ張る。
「たぶん大丈夫だよ。このまま下って行こ」
「でも、真反対だよ……?」
「これで森から出られたらむしろ良いんじゃない? まあたぶん無理だろうけど」
「……?」
 結局エナちゃんは首を傾げたまま、僕達は川の流れに沿ってそのまま歩き出した。
「イズミはまたイカダ作るの? 作ったらまた乗せてよっ」
「作る。次はもっとスピードを追求する」
「あんまり危険な事はやめておいてよ?」
「………」
 計画を立てているイズミに釘を刺すと彼女は途端に黙った。これは、コッソリ実行するパターンだな。やはり厳しい監視が必要だ。
「イズミはもう完成させちゃったし、あたし達の方も急がないとねー。頑張ろうねエナっ」
「え、あ、うん」
 唐突に話題を振られたからか、エナちゃんの頷きは空返事のようだった。
 それからもテンちゃんを中心に話が広がって、リツも混ぜて作業の愚痴などを披露し合っていたが、いつまでも女の子はどことなく上の空だった。
 その様子が気になりつつも、僕は無視をしていた。何をすべきなのかも結局思いつかなかった。
 他愛なく話しているとしばらくして、想像通り見覚えのある景色が顔を出す。
「ヒっ!」
 聞き慣れた声は数十と続き、ワラワラと小さな謎生命体が寄ってくる。
 その川原には物干し竿が置かれていて脇の森には開拓された道がある。間違いなく僕らは、迷った末に戻って来たのだ。
 出迎えてくれた大勢の森の精の内の一匹、筆を抱えた個体が急いだ様子でエナちゃんへと駆け寄っていく。
「ヒぃイっ!」
「あ、ありがとっ」
 女の子も急いたように自ら走り出して、預けていた品を受け取った。そうしてようやく、彼女の心が戻ってきたようだった。
 その光景を傍目で見つつ、隣に来たリツが苦笑を浮かべた事に気づく。
「やっぱ一周したな」
「うん。まだ、ここからは出られないみたいだね」
 出口は、探せば見つかるというものでもないのだろう。
 そうして日が暮れる。
 誰かがお腹を鳴らして、皆で食事の準備をする。
 疲れた事もあってか、今日のご飯はいつも以上に美味しかった。

□△△▽▽

「すぅ…すぅ……」
 隣で寝息が聞こえる。それがすごく愛おしかった。
 その高鳴りを知ると、無意識に近くに置いていた筆を手に取ってしまい、けれど発散する場所もないからと握るに留まる。
 これを振るった時、自分が別の存在へと変身するような感覚があった。その瞬間の昂ぶりが今もまだ胸の内に残っていて、眠気を追い払っている。
 ……描きたい。
 胸中の言葉はただ一つ。一度道が拓かれたせいで、もう先に進むことしか考えられない。
 絵は、アタシにとって世界だ。
 自分に見えているもの。自分が得たもの。
 それを、自分の手で描き取る世界。
 だからこそ、世界を生むには今の世界から離れないといけない。
 切って、捨てないといけないのだ。
 ……でも。
 隣の寝息が、それによる感情が、アタシの足を引っ張っている。
 欲望に従うまま、寝返りを打ってその顔を見ようとした。もちろん暗くてよく見えないけれど、確かに目の間で呼吸が行われているのを肌で感じる。
 この子に手を引かれるのが、とても嬉しかった。
 体が触れる度に染みついた記憶が反応して、歓喜と安堵に包まれる気分は酷く心地が良い。
 アタシは、間違いなくこの子が好きなのだろう。
 それはきっと何よりも。誰よりも。
 だからこそ隣に居たいし、ずっと見ていたいとも思う。
 ……それでも。
 アタシの内側には二人のアタシがいる。必要不必要をキッパリと区別するもう一人は、いつだって正しく、自分の本質を理解していた。
 優先すべき欲はこっちだと、筆を握る手に力がこもる。
 きっともう少しすればアタシは完全に変身し、進化するだろう。
 そうしたら全てを切り捨ててしまう。全てを要らないと無視してしまう。
 独りは悪だ。
 誰のためにもならず、自分の好きに生きようとしているのだから。
 だから足を止めるべきなのだ。誰かに手を繋いでもらうべきなのだ。
 ……なのに。
「すぅ…すぅ……」
 その寝息はもう、酷く煩かった。
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