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このたびはご愁傷様です
(十一)
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最寄り駅で悦子と別れ電車を待つ間にも、様々な思いが頭に過っていた。
「仕方ない、私は家に帰って一人飯か……」
これから鈴木源次郎の遺体は荼毘にふされた後、約一時間後に収骨となる。そして、セレモニーホールに戻ってから、繰り上げで初七日法要がおこなわれる。それから、親族だけでの会食、精進落としが始まるのだ。
元々精進落としは四十九日の忌明けとして、通常の料理に戻す区切りという意味だった。しかし、現在はその意味は薄れ遺族が親族やお世話になった人々へのお礼の宴を精進落としと呼ぶようになっている。それなので、料理には肉や魚を使用する場合も多々あるという。
「そういえば、あの時……」
火葬場からセレモニーホールへと戻り、両親に励まされすっかり気を取り直した也耶子は誰よりも冷静だった。精進落としの席でも逞の親戚たちに酒をふるまい、一人一人に礼を述べていった。
姑には面の皮が厚いと嫌味を言われたが、悲しみに暮れることなく酒を飲み、料理も最後のデザートまでしっかり平らげた。夫の親戚たちもよくこの状況で飲み食いできるものだと、呆気にとられた表情を浮かべていた。だが、也耶子は周囲の人々の反応など一切気にならなかった。
私は生きている。生きているからお腹が空くのだ。もうこの世にいない夫は空腹を感じることはない。だから、そんな夫に遠慮などしていられなかった。あの時に食べた揚げたての天ぷらと、滑らかな触感の茶わん蒸しの味は、今でも忘れられないくらいに美味しかった。
「いや、いや。煮物も、鴨のローストも、握り寿司も、デザートのこだわりプリンまで全部が美味しかったなぁ」
かつて千栄子が経営している料亭で修業したというセレモニーホールの板長が、真心を込めて作った逞との別れの膳だった。
夫の葬儀告別式の二日後。死亡退職の手続きと私物を取りに、勤務先に出向いた。
「在職中は大変お世話になりました。そして、このたびは皆様から供花や弔電をいただきまして、誠にありがとうございました」
先ずは逞が在籍した所属部署を訪ねて、今までのお礼を伝えた。通夜・葬儀告別式には代表者である上司が参列し、既に会葬御礼品も渡し香典返しも用意している。同僚たちには心ばかりの菓子折りを渡して、逞の私物を受け取ったのだ。
それから、人事部の担当者と面会して、退職届や退職金受け取り、遺族年金の申請に必要な書類を作成した。印鑑が必要になるかもしれないと聞いていたので、也耶子は自分の実印と銀行員をバッグに忍ばせていた。
「ええっと、奥様には遺族厚生年金を受け取る資格がございますが……」
「年金をいただけるんですか?」
遺族年金など最初からあてにしていなかったので、もらえると聞いて也耶子は驚いた。
「遺族年金といっても再婚されたら資格は当然なくなります。まだ、奥様もお若いから……た、多変申し訳ございません、こんな話は不謹慎ですね。まだご主人が亡くなられたばかりなのに」
「いえ、お気になさらず。何年か経てばきっと人生色々と変化があるかもしれませんから」
これからの生活など今は全く想像できないが、少しは何か変化があるだろう。
「それから、こちらをお返しします」
そう言って、也耶子はバッグから健康保険証を取り出した。健康保険は逞が死亡した翌日に被保険者の資格が失われていた。被保険者資格喪失届も事業主がおこない、届出には健康保険被保険者証が必要となる。三か月前に退職した也耶子は、健康保険の加入手続をしたばかりだった。この手続きの処理が済んだら、今度は役所で国民健康保険の手続きをしなければならない。
「偶然とはいえ、今日は三國君が休みで良かった。彼女がいたらまた大騒ぎになるところでした」
「え?」
秘密の恋人三号は三國慶子という名前だそうだ。
「須藤君の葬儀告別式であんなに取り乱した姿を見て、我々も正直驚きました。確かに二人は同期の中で一番仲が良かったが、まさか男女の関係に発展していたとは思いも寄りませんでした」
まさしく周囲が知らないからこそ、秘密の恋人なのだと也耶子には思えた。だが、同席した上司の話によると二人は性別を超えた戦友のような間柄で、決して甘ったるい仲ではなかったという。
「うちの会社は優秀なら女性でも出世できるんですよ。上を目指す三國君の熱意に須藤君が感銘を受け、二人は意気投合し切磋琢磨しながら成長していったんですが……」
それが仕事一筋だったはずの慶子の結婚で、関係が崩れたらしい。そして、逞も結婚して部署異動などもあり、二人は疎遠になったかのように見えた。ところがつい最近、慶子が離婚して二人はまたしても急接近したそうだ。
「三國君は相変わらず仕事の方は順調だったが、どうも私生活がうまくいってなかったようで。てっきりそれを須藤君に相談していたのだと思っていました。まぁ、須藤君にも思わせぶりな態度を取るところがあって……こんな風に故人を悪く言うのは心苦しいのですが、一〇〇パーセント三國君が悪者になるのは可哀そうな気もするのです」
須藤逞は仕事でもアフターファイブの誘いでも、決してNOと言わない男として社内では有名だったらしい。女性に対しても優しいというより押しに弱いところがあり、はっきりと断らず曖昧な態度で接していたという。結局それが仇となり、三國慶子とも深い関係に発展したのかもしれないと上司は分析していた。
「もしかしたら、嫌われるのを恐れていたんでしょうかね。誰に対しても良い顔をする八方美人な面があって、本心がわからない不気味な男でしたよ」
最後に上司はそんな風に須藤逞を評していた。
「仕方ない、私は家に帰って一人飯か……」
これから鈴木源次郎の遺体は荼毘にふされた後、約一時間後に収骨となる。そして、セレモニーホールに戻ってから、繰り上げで初七日法要がおこなわれる。それから、親族だけでの会食、精進落としが始まるのだ。
元々精進落としは四十九日の忌明けとして、通常の料理に戻す区切りという意味だった。しかし、現在はその意味は薄れ遺族が親族やお世話になった人々へのお礼の宴を精進落としと呼ぶようになっている。それなので、料理には肉や魚を使用する場合も多々あるという。
「そういえば、あの時……」
火葬場からセレモニーホールへと戻り、両親に励まされすっかり気を取り直した也耶子は誰よりも冷静だった。精進落としの席でも逞の親戚たちに酒をふるまい、一人一人に礼を述べていった。
姑には面の皮が厚いと嫌味を言われたが、悲しみに暮れることなく酒を飲み、料理も最後のデザートまでしっかり平らげた。夫の親戚たちもよくこの状況で飲み食いできるものだと、呆気にとられた表情を浮かべていた。だが、也耶子は周囲の人々の反応など一切気にならなかった。
私は生きている。生きているからお腹が空くのだ。もうこの世にいない夫は空腹を感じることはない。だから、そんな夫に遠慮などしていられなかった。あの時に食べた揚げたての天ぷらと、滑らかな触感の茶わん蒸しの味は、今でも忘れられないくらいに美味しかった。
「いや、いや。煮物も、鴨のローストも、握り寿司も、デザートのこだわりプリンまで全部が美味しかったなぁ」
かつて千栄子が経営している料亭で修業したというセレモニーホールの板長が、真心を込めて作った逞との別れの膳だった。
夫の葬儀告別式の二日後。死亡退職の手続きと私物を取りに、勤務先に出向いた。
「在職中は大変お世話になりました。そして、このたびは皆様から供花や弔電をいただきまして、誠にありがとうございました」
先ずは逞が在籍した所属部署を訪ねて、今までのお礼を伝えた。通夜・葬儀告別式には代表者である上司が参列し、既に会葬御礼品も渡し香典返しも用意している。同僚たちには心ばかりの菓子折りを渡して、逞の私物を受け取ったのだ。
それから、人事部の担当者と面会して、退職届や退職金受け取り、遺族年金の申請に必要な書類を作成した。印鑑が必要になるかもしれないと聞いていたので、也耶子は自分の実印と銀行員をバッグに忍ばせていた。
「ええっと、奥様には遺族厚生年金を受け取る資格がございますが……」
「年金をいただけるんですか?」
遺族年金など最初からあてにしていなかったので、もらえると聞いて也耶子は驚いた。
「遺族年金といっても再婚されたら資格は当然なくなります。まだ、奥様もお若いから……た、多変申し訳ございません、こんな話は不謹慎ですね。まだご主人が亡くなられたばかりなのに」
「いえ、お気になさらず。何年か経てばきっと人生色々と変化があるかもしれませんから」
これからの生活など今は全く想像できないが、少しは何か変化があるだろう。
「それから、こちらをお返しします」
そう言って、也耶子はバッグから健康保険証を取り出した。健康保険は逞が死亡した翌日に被保険者の資格が失われていた。被保険者資格喪失届も事業主がおこない、届出には健康保険被保険者証が必要となる。三か月前に退職した也耶子は、健康保険の加入手続をしたばかりだった。この手続きの処理が済んだら、今度は役所で国民健康保険の手続きをしなければならない。
「偶然とはいえ、今日は三國君が休みで良かった。彼女がいたらまた大騒ぎになるところでした」
「え?」
秘密の恋人三号は三國慶子という名前だそうだ。
「須藤君の葬儀告別式であんなに取り乱した姿を見て、我々も正直驚きました。確かに二人は同期の中で一番仲が良かったが、まさか男女の関係に発展していたとは思いも寄りませんでした」
まさしく周囲が知らないからこそ、秘密の恋人なのだと也耶子には思えた。だが、同席した上司の話によると二人は性別を超えた戦友のような間柄で、決して甘ったるい仲ではなかったという。
「うちの会社は優秀なら女性でも出世できるんですよ。上を目指す三國君の熱意に須藤君が感銘を受け、二人は意気投合し切磋琢磨しながら成長していったんですが……」
それが仕事一筋だったはずの慶子の結婚で、関係が崩れたらしい。そして、逞も結婚して部署異動などもあり、二人は疎遠になったかのように見えた。ところがつい最近、慶子が離婚して二人はまたしても急接近したそうだ。
「三國君は相変わらず仕事の方は順調だったが、どうも私生活がうまくいってなかったようで。てっきりそれを須藤君に相談していたのだと思っていました。まぁ、須藤君にも思わせぶりな態度を取るところがあって……こんな風に故人を悪く言うのは心苦しいのですが、一〇〇パーセント三國君が悪者になるのは可哀そうな気もするのです」
須藤逞は仕事でもアフターファイブの誘いでも、決してNOと言わない男として社内では有名だったらしい。女性に対しても優しいというより押しに弱いところがあり、はっきりと断らず曖昧な態度で接していたという。結局それが仇となり、三國慶子とも深い関係に発展したのかもしれないと上司は分析していた。
「もしかしたら、嫌われるのを恐れていたんでしょうかね。誰に対しても良い顔をする八方美人な面があって、本心がわからない不気味な男でしたよ」
最後に上司はそんな風に須藤逞を評していた。
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