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(八)

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 紡生のCMオーディションから数日経った頃。経営する料亭松菱まつびしで提供する日本酒の買い付けのため、千栄子は士温を連れて福島県内にある酒倉巡りにでかけた。お気に入りのベビーシッター同伴で旅立ったので、自分の出る幕はないと也耶子は暢気に構えていた。
 ところが、そこは我が道を行く千栄子のこと。気まぐれなのか、最初からそのつもりだったのか。息子が最後に旅した郡山市に立ち寄りたいと、強引に計画を変更させたのだ。
 契約にない予定を入れたことで、ベビーシッター並びにシッター派遣会社とひと悶着を起こしたらしい。ずけずけと物言う千栄子にうんざりしていたシッターも、この時ばかりは堪忍袋の緒が切れたようだ。千栄子の頼みを無視して、さっさっと横浜に帰ってしまったという。
 そして、そのとばっちりがまたもや也耶子へと向かった。千栄子からつかさ総合代理出席人事務所に連絡があり、士温を迎えに来て欲しいと依頼されたのだった。

 也耶子自身の生活も三保子と同様、以前と少し変化があった。あれから千栄子と士温との距離が益々近くなっている。今では月に一~二回は士温を預かっているような状態だ。
 もう常盤家の世話にならずとも、二人きりで夜を過ごすこともある。士温も也耶子の存在を充分認識しているようで、再会する時はいつも嬉しそうな表情を浮かべるようになっていた。
 不思議なもので元姑も士温も、也耶子とは血縁関係でもないし、戸籍の上でも赤の他人だ。それが常盤家の面々と一緒で、今や也耶子にとってそばにいるのが当たり前のような存在になっている。
 それなのに、未だ千栄子からは事務所を通してでなければ連絡が来ないのだ。素直に頭を下げれば事務所を通さずとも子守をするのに、彼女は毎回毎回律義に代理出席人の依頼を申し出てくる。
「かれこれこれで六回目ですよ。お得意様ですから文句は言いませんが、そろそろうちを通さなくても良いかと思うのですけど……元お姑さんも相当意地っ張りなんですね」
 公香も歯がゆい思いで二人の関係を見守っているようだ。
「それで、今回はどうされますか? 社長が心配していましたよ。郡山は也耶子さんにとって鬼門だから、大丈夫だろうかって」
 福島県郡山市は也耶子の夫だった須藤逞が急逝した場所だった。彼は郡山市内のビジネスホテルの一室で倒れ、帰らぬ人となっていた。病院から連絡を受けたのは逞が死亡した後で、妻である也耶子は夫の最期を看取ることができなかった。でも……
「実はあの日のことは、ほとんど覚えてないのよ。確かに郡山まで行って、夫の遺体と一緒に横浜まで帰って来たけれど……ただ新幹線に乗って、搬送された病院に駆けつけただけで、郡山がどんな街だったか全然記憶にないの」
 夫が亡くなって一年と六か月が過ぎた。いつの間にか也耶子の胸に潜んでいた真実という名のモンスターは、前ほど恐ろしい存在でなくなっていた。今では夫が亡くなった郡山市も、也耶子にとって記憶の一部分に過ぎなくなっている。
 それならば、そろそろ対峙しても大丈夫な時期ではないだろうか。味方になるか、はたまた敵と化すかわからないが、郡山では千栄子が待っている。そして、逞の遺児である士温も一緒だ。
「きっと大丈夫です。今回も引き受けます。今、郡山に行かないと逆に後悔しそうですから」
 たとえ夫の死後に醜聞が発覚しても、郡山には何の罪はない。むしろ病院のスタッフや逞が宿泊したホテルのフロントマネージャーには親切にもらったではないか。
 夫が最後の旅行に選んだ場所なのだ、お礼の意味を込めて訪れるべきなのかもしれない。逞に対してもう未練は残っていないが、前に進むためには彼ときっぱり決別する必要があった。
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