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上四元クシナ
従属
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上四元クシナの死刑宣告のような発言を受けて以降、彼女のつきまといは苛烈を極めた。
下校時、学校前にいるのはもちろん、夜の帳が下りる頃まで当たり前のように振り回し、地元でもない彼女の方が家まで送るからとついて来る。
姉が休みの日やちょうど帰宅している時間帯には当然のように姉が気を回し、家に上げるので帰るのも遅くなり、結果的に家族――というか姉であるアツミさん――が迎えに来ることになる。
姉とはいえ、毎日のように隣の市まで車で迎えに来るとか妹のわがままに付き合わされるアツミさんが気の毒なのだけれど、逆に顔を会わせるたびに上四元クシナのことで謝られてしまうのが申し訳なかった。
もっとも、アツミさんの表情を見る限りはそんなに苦でもなさそうで、むしろどこか嬉しそうなのはお互い社会人となって以降休みの日がなかなか合わなくなり、遊びに行く機会も減ってしまった姉と話ができるからなのかもしれない。
この日はおめでただという高校時代の友人の話で盛り上がっていた。同級生ではいちばん早く結婚した人で学生時代には何度か遊びに来ている。姉やアツミさんと比べると、言動が率直でなんとも元気な人だ。
上四元クシナはそんなアツミさんに対して悪びれもせず、姉として当然の仕事だといわんばかりの態度であった。温厚を絵に描いたようなアツミさんは慣れからなのか、文句もいわずに妹を車に押し込めると、姉や僕に、妹が遅くまで迷惑をかけた詫びを口にして帰っていくのだった。
アツミさんと姉が知り合ったのはずいぶん昔、僕の物心がつく頃にはもう姉と友達だったらしい。父方の祖父母は於牟寺出身ではあるけれど、学校卒業後に都心に出て結婚、父が幼い頃に他の土地へ転勤で引っ越したという経緯がある。僕が生まれる前に父母、つまり僕からすれば祖父母の故郷である於牟寺に帰って来たということらしい。
当初は父方の親戚宅に世話になっていたとかで、新居の完成と同時に数キロ離れた今の町内に越して来たと聞いた。つまり、アツミさんと姉はその仮住まい時代に近所だったことから知り合い、仲良くなったようで、小学校は学区外同士だったにもかかわらず、友情を育み、中学の途中にアツミさんが瓊紅保に引っ越すまでは毎日のように会っては遊んでいたという。
もちろん、家にも何度も遊びに来ていたので自然と僕も顔馴染みになっていた。そういうつき合いの中で、「ナギ君と同じ年の妹がいるのよ」と教えられていたのだ。アツミさんの性格や姉の話からさぞ清楚な妹さんであろうと勝手に妄想していたのも懐かしい思い出といえば思い出だ。
姉が地元の高校ではなく、瓊紅保女子を選んだのはひょっとすると、アツミさんと同じ学校へ通いたいからだったのかもしれない。やはり同じ大学を卒業したあとは姉は学芸員の道へ進み、アツミさんは地元に出来たばかりのデパートに就職して現在に至る。
ふたりの仲のよさは互いに結婚できなかったら、一緒になろうとよく冗談混じりにいい合うことからも分かる。そしてそういうときは決まって「そうしたら私、ナギ君も一緒に貰おうかな」と、このときだけは本気とも冗談ともつかない笑顔を見せたりして、そのたびにドキッとしたりした。
あれだけきれいでやさしい女性なのに、恋人がいないというのも不思議な話ではある。
「一度おつき合いしたことがあったらしいわよ」
上四元姉妹を見送ったあと、姉がコンビニのキャンペーンで貰った世界的に著名なうさぎが描かれたマグカップに牛乳を注ぎながらいった。
「……つき合ったこと、あるんだ」
「何か残念そうね」
レンジにマグカップを入れ、時間を五分に設定する。猫舌の母以外はみな飲み物を温めるときは長めに設定する。
「茶化さないでよ」
姉はごめんなさいと笑うと、アツミの方から別れを切り出したんですってと椅子を引いた。ウチのダイニングキッチンの六人掛けテーブルは父が単身赴任して以来、家族揃って着座しなくなって久しい。さらに去年春に姉が社会人になったのを機に母が父の赴任先に押しかけてからはずっと姉弟ふたりっきりだ。最初のころはやけに広く感じたテーブルもだんだん慣れてしまっているのはあまりいい傾向ではないだろう。
「深くは聞かなかったけれど、他に好きな人がいるようなの」
「その、好きな人とはどうなってるの」
あれだけの女性なんだし、断る男なんていないのではないだろうか。
「特にアクションは起こしていないみたい。できれば応援してあげたいんだけど」
想いを伝えらなれない相手……まさか家庭持ちとか。
「あなたもそういうことをいうようになったのね」
姉がマグカップを取り出した。膜もかまわずそのまま啜るのは父と一緒で僕は破棄する派である。シギもロクも同じだったのだけれど、ロクは姉の話を聞いて以降、あっさりそのまま啜る派に宗旨替えした。単純なヤツだ。
でも、といいかけて熱かったのかちろっと舌を出す。一瞬、グローブを舐める上四元クシナがよぎって全身が強張る。
「アツミはそういうことはないと思うの」
マグカップを広げた両掌で押えながら語る姉はどこかそう願っているようにも見えた。
「いいお嫁さんになれるわ、アツミは」
親友だからとかではなく、心の底からそう感じている。そんないいかたであった。
*
翌日も、上四元クシナは放課後に現れた。
僕が生まれるずっと昔は競馬場があったという公園の真ん中には球場があり、そこを囲むように舗装された道を彼女と歩いていた。桜の名所と名高いここも季節は過ぎ、晩春の午後、公園には誰もいない。
あの貸しビルでの一件というか一戦以降、接し方も変わるかと構えたけれど、拘束時間が長くなり、絡めてくる腕の締めつけが強くなったことを除けば、いつも通り――甘えた態度と挑発的な目つきで僕を翻弄する――だった。
ただ、アツミさんの話になると、どういうわけかいつもの饒舌さが影を潜めた。
ひょっとして仲が悪いのかとも考えたけれど、上四元クシナの横顔から漂う峻険さは明らかに質問の一切を拒絶していた。
しかし、連日連夜のアツミさんの迎えはさすがに負担をかけすぎなのではないだろうかという気がする。
ひょっとすると放課後のつきまといに対する遠回しな異議申し立てと受け取られるかとも思ったけれど、上四元クシナの反応は意外なものだった。
「お姉ちゃんを迎えに呼ぶこととナナギがどういう関係があるわけ? お姉ちゃんが大変って車でしょ、別に大したことではないわ」
外貌こそ冷静なものの、まるで鋼を一本通したかのような硬質な物言いに身が縮こまる思いがした。いや、むしろ相対するからこそその声音が際立っているのだろう。
ここまで感情を波立たせる彼女は見たことがない。以前にファミレスで十鳥さんとの会話の中で余裕が一瞬で消え去ったことがあったけれど、あれは些細な変化であった。
それとも、と彼女は不快そうな笑みを隠すことなく続けた。
「ナナギ、お姉ちゃんのこと好きなわけ?」
突然のらしくない癇癪を耳の奥で受け止めながら、上四元姉妹の間には他人には窺い知れないくらい複雑な事情が介在しているのだろうかとか考えたりもした。
そんなことを自問自答しているのが答えに窮しているように映ったのか、軽蔑とも疑念とも取れる色を両眼に宿しながら上四元クシナはこちらを凝視していた。
「……ごめん」
謝るつもりがないのに反射的に謝ったのが自分でも分かって恥ずかしくなった。さらにそれが相手にも伝わり、藪蛇となる。
「次、お姉ちゃんの話をしたらペナルティーね」
「それって、どういう」
スルーすればいいのに、いちいち確認してしまう。悪いくせだ。
「リングの上でたっぷり汗をかくのにまた協力して貰おうかな」
そう薄く微笑むと右手をゆっくりと握り込み、くちびるに近づけてそっとキスをする真似をした。彼女はこういう動作はドキッとするくらい様になる。
あの日、何度も食らった体重の乗った無遠慮なパンチが顔に、身体に、熱くて痛い衝撃となってぶり返し、妖艶な仕草も手伝って心の鼓動を悪戯にかき乱す。
「もしかしたらナナギ、私のパンチが忘れられなくてわざとそんなこといったの?」
上四元クシナの地雷がアツミさんだなんて知る由もないし、仮に知っていたとしてわざわざ殴られたくて自ら踏むような真似もしない。
「だったらいってくれれば、毎日でも味あわせてあげるのに」
でも、とここで芝居がかったように区切ってみせる。
「私、手加減ってあまり主義じゃないの。特に相手がナナギだと嬉しくて抑えがきかなくなっちゃうし。そうしたら、ナナギ壊れちゃうでしょう? それはそれで私困るから」
こちらの意見や反論など端から聞く気などないように混じり気のない、とてもやわらかくてきれいな笑みでそんなことをさらっという。
「あれ、使ってくれた?」
出し抜けに歩みを止める。
「……な、なに?」
「この間、あげたじゃない。私の汗とかいろいろ詰まったパンティ」
いろいろのところでわざとイントネーションを落として、目に不純な色を揺らめかせながらじっと潤ませる。表情も声も態度も、こうやって瞬時に器用に替えられるのだから女優になればさぞ伸びるんじゃないかという気も、所詮シロート考えではあるけれどしてくる。
「……洗って返すよ」
精一杯の突っ張りを乗せて言い返すけれど、もちろん彼女には通用しない。
「嬉しい、ちゃんと使ってくれたんだ」
断固として使っていない。でも、それをむきになって訴えたところで面白がられるだけだろうし、そもそも僕が本当に使ったとか彼女はどうでもいいのだろう。
「ねえ、使用済みの下着を使いながらするときって、男の人ってどうやってるの? 匂い嗅ぎながら? 頭に被ったりして? それとも」
やはり、ここで意図的な区切りを入れてくる。
「あそこに擦りつけながら?」
表情に、言葉に、負の感情を余すことなく詰め込んだように挑発の気を増大させる。まるであの日、リングで浴びた強烈なストレートを食らったかのような錯覚に陥る。
「私の下着を使って一生懸命頑張ってるナナギって可愛いんだろうなあ。妄想の中の私はどういうシチュエーションなの? 私に殴られたときのプレイバック? そのあとキャンバスの上で折り重なりながらしたキスの続きかな」
キスは未遂である。もちろん、わざといっているのだろうけれど。
「今度、ナナギがしてるところ、見せて」
挑発的な言動のオンパレードは今に始まったことではない。ただ、どうにも一連の上四元クシナには違和感しかないのが気になる。
そう、まるでアツミさんの話で機嫌を害してから……。
「ねえ」
仲間内で楽しく騒いでいるところを第三者によって阻害されたときのような不快感を舌に乗せて口を開く。
「今、お姉ちゃんのこと考えたでしょう」
一瞬、息が詰まる。人の思考を読むのは今に始まったことではいけれど、彼女こういうところは本気で怖くなる。
「頭に浮かんだんだからペナルティにはならないけれど、気分はよくないからやめて」
なぜそこまでアツミさんに対して頑ななのだろう。過ごした時間は圧倒的にアツミさんが多いし、やはり肩入れというわけでもないけれど、アツミさんに対してこういった態度を取られると妹はいえ、いや妹だからこそ、どうしても解せないし悲しくなる。
彼女のいう通り、姉妹のことだから僕には触れて欲しくはないのかもしれない。でも。
「やっぱり、あの貸しビルに行こっか」
アツミさんの名前が出た途端、遊園地に誘うみたいに歓喜雀躍といった体で僕の腕を取る。
「ナナギってば全然分かってくれないんだもん。今回は一週間は外出が憚られるくらいに徹底的に付き合って貰うから覚悟してね。大好きなナナギの顔をいたぶるのは心が痛むけれど、自業自得だよ」
このことに関して僕は謝るつもりはなかった。
「他人にとやかくいわれて面白くないっていうのは分かるけれど、でもアツミさんとは姉妹じゃないか。どうして」
「分かってるならいわないでよ」
「いわずにいられない」
「もう一度いうけど、ナナギには関係ない」
先ほどと違い今度は顔色は変わらず、声音にも険は宿ってはいない。
そこが不気味であった。
「君とは違って、アツミさんとはつき合いも長いし」
いい終える前に予期せぬ衝撃でそれは遮られてしまった。顔面を華奢なくせにしなやかで堅牢な拳で打たれたと分かったのは自分の身体が後方へ大きく逸れ、体勢を立て直そうとしているときだった。
潰れた鼻梁が慌てて空気を吸い込み、元に戻ろうとする。慌てて手のひらを被せたけれど、予想に反して血は付いていないのは幸いだった。
上四元クシナはすでに凶悪な拳を納めており、澄まして佇む様は育ちのいいお嬢様だ。
とてもたった今、強烈な一発を揮った女子高生には見えない。
怒りは一時の狂気、とはよくいったものだ。
こちらを見てはいない。口も閉じたままだ。でも、凝然とした横顔はこれに懲りたらもうアツミさんのことは話すなといっていた。
「ナナギがお姉ちゃんの話をすると、私、切なくて悲しくて死にたくなっちゃうな」
その言葉に姉から聞かされた彼女の飛び降り事件とあの貸しビルが重なる。あそこは僕を物理的、精神的にいたぶるための上四元クシナにとっては切札みたいなものなのだろう。
「……ごめん」
けっきょく謝ることになる。苦いものが込み上げるのを押えつつ、自分の足元を眺めていると、上四元クシナはいつものように腕を絡めて歩き出した。
何事も、本当に何事もなかったかのように。
下校時、学校前にいるのはもちろん、夜の帳が下りる頃まで当たり前のように振り回し、地元でもない彼女の方が家まで送るからとついて来る。
姉が休みの日やちょうど帰宅している時間帯には当然のように姉が気を回し、家に上げるので帰るのも遅くなり、結果的に家族――というか姉であるアツミさん――が迎えに来ることになる。
姉とはいえ、毎日のように隣の市まで車で迎えに来るとか妹のわがままに付き合わされるアツミさんが気の毒なのだけれど、逆に顔を会わせるたびに上四元クシナのことで謝られてしまうのが申し訳なかった。
もっとも、アツミさんの表情を見る限りはそんなに苦でもなさそうで、むしろどこか嬉しそうなのはお互い社会人となって以降休みの日がなかなか合わなくなり、遊びに行く機会も減ってしまった姉と話ができるからなのかもしれない。
この日はおめでただという高校時代の友人の話で盛り上がっていた。同級生ではいちばん早く結婚した人で学生時代には何度か遊びに来ている。姉やアツミさんと比べると、言動が率直でなんとも元気な人だ。
上四元クシナはそんなアツミさんに対して悪びれもせず、姉として当然の仕事だといわんばかりの態度であった。温厚を絵に描いたようなアツミさんは慣れからなのか、文句もいわずに妹を車に押し込めると、姉や僕に、妹が遅くまで迷惑をかけた詫びを口にして帰っていくのだった。
アツミさんと姉が知り合ったのはずいぶん昔、僕の物心がつく頃にはもう姉と友達だったらしい。父方の祖父母は於牟寺出身ではあるけれど、学校卒業後に都心に出て結婚、父が幼い頃に他の土地へ転勤で引っ越したという経緯がある。僕が生まれる前に父母、つまり僕からすれば祖父母の故郷である於牟寺に帰って来たということらしい。
当初は父方の親戚宅に世話になっていたとかで、新居の完成と同時に数キロ離れた今の町内に越して来たと聞いた。つまり、アツミさんと姉はその仮住まい時代に近所だったことから知り合い、仲良くなったようで、小学校は学区外同士だったにもかかわらず、友情を育み、中学の途中にアツミさんが瓊紅保に引っ越すまでは毎日のように会っては遊んでいたという。
もちろん、家にも何度も遊びに来ていたので自然と僕も顔馴染みになっていた。そういうつき合いの中で、「ナギ君と同じ年の妹がいるのよ」と教えられていたのだ。アツミさんの性格や姉の話からさぞ清楚な妹さんであろうと勝手に妄想していたのも懐かしい思い出といえば思い出だ。
姉が地元の高校ではなく、瓊紅保女子を選んだのはひょっとすると、アツミさんと同じ学校へ通いたいからだったのかもしれない。やはり同じ大学を卒業したあとは姉は学芸員の道へ進み、アツミさんは地元に出来たばかりのデパートに就職して現在に至る。
ふたりの仲のよさは互いに結婚できなかったら、一緒になろうとよく冗談混じりにいい合うことからも分かる。そしてそういうときは決まって「そうしたら私、ナギ君も一緒に貰おうかな」と、このときだけは本気とも冗談ともつかない笑顔を見せたりして、そのたびにドキッとしたりした。
あれだけきれいでやさしい女性なのに、恋人がいないというのも不思議な話ではある。
「一度おつき合いしたことがあったらしいわよ」
上四元姉妹を見送ったあと、姉がコンビニのキャンペーンで貰った世界的に著名なうさぎが描かれたマグカップに牛乳を注ぎながらいった。
「……つき合ったこと、あるんだ」
「何か残念そうね」
レンジにマグカップを入れ、時間を五分に設定する。猫舌の母以外はみな飲み物を温めるときは長めに設定する。
「茶化さないでよ」
姉はごめんなさいと笑うと、アツミの方から別れを切り出したんですってと椅子を引いた。ウチのダイニングキッチンの六人掛けテーブルは父が単身赴任して以来、家族揃って着座しなくなって久しい。さらに去年春に姉が社会人になったのを機に母が父の赴任先に押しかけてからはずっと姉弟ふたりっきりだ。最初のころはやけに広く感じたテーブルもだんだん慣れてしまっているのはあまりいい傾向ではないだろう。
「深くは聞かなかったけれど、他に好きな人がいるようなの」
「その、好きな人とはどうなってるの」
あれだけの女性なんだし、断る男なんていないのではないだろうか。
「特にアクションは起こしていないみたい。できれば応援してあげたいんだけど」
想いを伝えらなれない相手……まさか家庭持ちとか。
「あなたもそういうことをいうようになったのね」
姉がマグカップを取り出した。膜もかまわずそのまま啜るのは父と一緒で僕は破棄する派である。シギもロクも同じだったのだけれど、ロクは姉の話を聞いて以降、あっさりそのまま啜る派に宗旨替えした。単純なヤツだ。
でも、といいかけて熱かったのかちろっと舌を出す。一瞬、グローブを舐める上四元クシナがよぎって全身が強張る。
「アツミはそういうことはないと思うの」
マグカップを広げた両掌で押えながら語る姉はどこかそう願っているようにも見えた。
「いいお嫁さんになれるわ、アツミは」
親友だからとかではなく、心の底からそう感じている。そんないいかたであった。
*
翌日も、上四元クシナは放課後に現れた。
僕が生まれるずっと昔は競馬場があったという公園の真ん中には球場があり、そこを囲むように舗装された道を彼女と歩いていた。桜の名所と名高いここも季節は過ぎ、晩春の午後、公園には誰もいない。
あの貸しビルでの一件というか一戦以降、接し方も変わるかと構えたけれど、拘束時間が長くなり、絡めてくる腕の締めつけが強くなったことを除けば、いつも通り――甘えた態度と挑発的な目つきで僕を翻弄する――だった。
ただ、アツミさんの話になると、どういうわけかいつもの饒舌さが影を潜めた。
ひょっとして仲が悪いのかとも考えたけれど、上四元クシナの横顔から漂う峻険さは明らかに質問の一切を拒絶していた。
しかし、連日連夜のアツミさんの迎えはさすがに負担をかけすぎなのではないだろうかという気がする。
ひょっとすると放課後のつきまといに対する遠回しな異議申し立てと受け取られるかとも思ったけれど、上四元クシナの反応は意外なものだった。
「お姉ちゃんを迎えに呼ぶこととナナギがどういう関係があるわけ? お姉ちゃんが大変って車でしょ、別に大したことではないわ」
外貌こそ冷静なものの、まるで鋼を一本通したかのような硬質な物言いに身が縮こまる思いがした。いや、むしろ相対するからこそその声音が際立っているのだろう。
ここまで感情を波立たせる彼女は見たことがない。以前にファミレスで十鳥さんとの会話の中で余裕が一瞬で消え去ったことがあったけれど、あれは些細な変化であった。
それとも、と彼女は不快そうな笑みを隠すことなく続けた。
「ナナギ、お姉ちゃんのこと好きなわけ?」
突然のらしくない癇癪を耳の奥で受け止めながら、上四元姉妹の間には他人には窺い知れないくらい複雑な事情が介在しているのだろうかとか考えたりもした。
そんなことを自問自答しているのが答えに窮しているように映ったのか、軽蔑とも疑念とも取れる色を両眼に宿しながら上四元クシナはこちらを凝視していた。
「……ごめん」
謝るつもりがないのに反射的に謝ったのが自分でも分かって恥ずかしくなった。さらにそれが相手にも伝わり、藪蛇となる。
「次、お姉ちゃんの話をしたらペナルティーね」
「それって、どういう」
スルーすればいいのに、いちいち確認してしまう。悪いくせだ。
「リングの上でたっぷり汗をかくのにまた協力して貰おうかな」
そう薄く微笑むと右手をゆっくりと握り込み、くちびるに近づけてそっとキスをする真似をした。彼女はこういう動作はドキッとするくらい様になる。
あの日、何度も食らった体重の乗った無遠慮なパンチが顔に、身体に、熱くて痛い衝撃となってぶり返し、妖艶な仕草も手伝って心の鼓動を悪戯にかき乱す。
「もしかしたらナナギ、私のパンチが忘れられなくてわざとそんなこといったの?」
上四元クシナの地雷がアツミさんだなんて知る由もないし、仮に知っていたとしてわざわざ殴られたくて自ら踏むような真似もしない。
「だったらいってくれれば、毎日でも味あわせてあげるのに」
でも、とここで芝居がかったように区切ってみせる。
「私、手加減ってあまり主義じゃないの。特に相手がナナギだと嬉しくて抑えがきかなくなっちゃうし。そうしたら、ナナギ壊れちゃうでしょう? それはそれで私困るから」
こちらの意見や反論など端から聞く気などないように混じり気のない、とてもやわらかくてきれいな笑みでそんなことをさらっという。
「あれ、使ってくれた?」
出し抜けに歩みを止める。
「……な、なに?」
「この間、あげたじゃない。私の汗とかいろいろ詰まったパンティ」
いろいろのところでわざとイントネーションを落として、目に不純な色を揺らめかせながらじっと潤ませる。表情も声も態度も、こうやって瞬時に器用に替えられるのだから女優になればさぞ伸びるんじゃないかという気も、所詮シロート考えではあるけれどしてくる。
「……洗って返すよ」
精一杯の突っ張りを乗せて言い返すけれど、もちろん彼女には通用しない。
「嬉しい、ちゃんと使ってくれたんだ」
断固として使っていない。でも、それをむきになって訴えたところで面白がられるだけだろうし、そもそも僕が本当に使ったとか彼女はどうでもいいのだろう。
「ねえ、使用済みの下着を使いながらするときって、男の人ってどうやってるの? 匂い嗅ぎながら? 頭に被ったりして? それとも」
やはり、ここで意図的な区切りを入れてくる。
「あそこに擦りつけながら?」
表情に、言葉に、負の感情を余すことなく詰め込んだように挑発の気を増大させる。まるであの日、リングで浴びた強烈なストレートを食らったかのような錯覚に陥る。
「私の下着を使って一生懸命頑張ってるナナギって可愛いんだろうなあ。妄想の中の私はどういうシチュエーションなの? 私に殴られたときのプレイバック? そのあとキャンバスの上で折り重なりながらしたキスの続きかな」
キスは未遂である。もちろん、わざといっているのだろうけれど。
「今度、ナナギがしてるところ、見せて」
挑発的な言動のオンパレードは今に始まったことではない。ただ、どうにも一連の上四元クシナには違和感しかないのが気になる。
そう、まるでアツミさんの話で機嫌を害してから……。
「ねえ」
仲間内で楽しく騒いでいるところを第三者によって阻害されたときのような不快感を舌に乗せて口を開く。
「今、お姉ちゃんのこと考えたでしょう」
一瞬、息が詰まる。人の思考を読むのは今に始まったことではいけれど、彼女こういうところは本気で怖くなる。
「頭に浮かんだんだからペナルティにはならないけれど、気分はよくないからやめて」
なぜそこまでアツミさんに対して頑ななのだろう。過ごした時間は圧倒的にアツミさんが多いし、やはり肩入れというわけでもないけれど、アツミさんに対してこういった態度を取られると妹はいえ、いや妹だからこそ、どうしても解せないし悲しくなる。
彼女のいう通り、姉妹のことだから僕には触れて欲しくはないのかもしれない。でも。
「やっぱり、あの貸しビルに行こっか」
アツミさんの名前が出た途端、遊園地に誘うみたいに歓喜雀躍といった体で僕の腕を取る。
「ナナギってば全然分かってくれないんだもん。今回は一週間は外出が憚られるくらいに徹底的に付き合って貰うから覚悟してね。大好きなナナギの顔をいたぶるのは心が痛むけれど、自業自得だよ」
このことに関して僕は謝るつもりはなかった。
「他人にとやかくいわれて面白くないっていうのは分かるけれど、でもアツミさんとは姉妹じゃないか。どうして」
「分かってるならいわないでよ」
「いわずにいられない」
「もう一度いうけど、ナナギには関係ない」
先ほどと違い今度は顔色は変わらず、声音にも険は宿ってはいない。
そこが不気味であった。
「君とは違って、アツミさんとはつき合いも長いし」
いい終える前に予期せぬ衝撃でそれは遮られてしまった。顔面を華奢なくせにしなやかで堅牢な拳で打たれたと分かったのは自分の身体が後方へ大きく逸れ、体勢を立て直そうとしているときだった。
潰れた鼻梁が慌てて空気を吸い込み、元に戻ろうとする。慌てて手のひらを被せたけれど、予想に反して血は付いていないのは幸いだった。
上四元クシナはすでに凶悪な拳を納めており、澄まして佇む様は育ちのいいお嬢様だ。
とてもたった今、強烈な一発を揮った女子高生には見えない。
怒りは一時の狂気、とはよくいったものだ。
こちらを見てはいない。口も閉じたままだ。でも、凝然とした横顔はこれに懲りたらもうアツミさんのことは話すなといっていた。
「ナナギがお姉ちゃんの話をすると、私、切なくて悲しくて死にたくなっちゃうな」
その言葉に姉から聞かされた彼女の飛び降り事件とあの貸しビルが重なる。あそこは僕を物理的、精神的にいたぶるための上四元クシナにとっては切札みたいなものなのだろう。
「……ごめん」
けっきょく謝ることになる。苦いものが込み上げるのを押えつつ、自分の足元を眺めていると、上四元クシナはいつものように腕を絡めて歩き出した。
何事も、本当に何事もなかったかのように。
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拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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