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上四元クシナ
窮鼠
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上四元クシナが放課後に現れるようになって二週間経とうとしていた。
そして今日も当たり前のようにその姿を現すのだけれど、今日は変化があった。
「……どうしたの?」
見慣れた青い制服ではなく、淡色のキャミソールに台形に広がるタックプリーツの生成りのミニスカート、ショート丈の薄いピンクのトレンチ、ヒールの高いベージュのオープントゥパンプスという私服姿だった。
彼女のプライベートな格好は正体が判明したあの日に着ていた扇情的なゴスロリファンション以来だ。
「休み」
僕の腕を取ると、それだけいって歩き出す。無駄のない返答は服装も相俟ってどこかアダルトだった。
そういえば姉も学生時代の今頃だろうか、創立記念日とかで休んでいた気もする。
腕に痛みが走った。
「昨日、お姉ちゃんと楽しそうだったよね」
視線は前方を捉えたまま、ぎりぎりと指を食い込ませてくる。語感には何の感情も乗っていない。
昨夜、彼女が助手席から飛ばしてきた常軌を逸した殺気を思い出し、鳥肌が立つ。
「やっぱり、お姉ちゃんのこと好きなんじゃないの」
楽しそうに会話をしただけで好きだ嫌いだいわれたらきりがない。来る日も来る日もいいように振り回されている身としては皮肉の一つもいいたい衝動に駆られる。いっそ好きだとでもいったら、どうなるのだろう。この間のようにきつい一発を放ってくるのか、専用ボクシングジムへ連行されるのか。
でもその戯れ心はすぐに霧散した。上四元クシナにどうこうされるとか以前にアツミさんに対して失礼だ。
「ねえ」
突然の稚気がこもった声で思考が遮られた。
「お姉ちゃんでしたこと、ある?」
視線は前方に向けたまま、そんなことをいう。
「……したって、なに?」
上四元クシナがこちらに顔を向けた。とぼけていると取られたかと思ったけれど、彼女は家庭教師のような懇切さで以って、いい直した。
「気持ちいいこと」
濡れたような瞳に猥色が浮かぶ。やがてそれは濃くなり、やがて熱を帯びた。
「今度、持ってきてあげよっか」
俄かに声が華やいだ。
「お姉ちゃんのパンティ」
意味が分からず彼女を見やると、驚くくらいあどけない笑顔がそこにあった。
昨日の楽しげなアツミさんを思い出す。それだけのことなのにすごく不純なことのように思えて居た堪れなくなる。
「どうせなら脱ぎたてがいいでしょ」
「やめようよ、そういうこというの」
僕の口からでなければいいのか、あれだけ嫌がっていたアツミさんの話を自ら振り、挙句、その姉を使って僕を翻弄する。相変わらず彼女から真意を汲み取るのは困難だ。
今日、彼女に連れてこられたファーストフード店は十鳥さんとの偽りの待ち合わせ場所に使われたところであった。選んだ席まであのときと一緒で思わず苦笑する。
「こういうところ、あまり来ないからなにか新鮮」
座るなりそういう。むしろ好んで来ているように思っていたので意外であった。
「だってジャンクでしょ」
以前行ったコーヒーショップは違うのかとも思うけれど、同じ外食系でも利用する立場からすれば階級、ヒエラルキーみたいなものがあるのかもしれない。
「さっきの話だけど」
上四元クシナが窓の外を見ながら笑った。
「お姉ちゃんの写真、撮ってきてあげようか」
口元こそ色めいているけれど、その瞳孔は深く沈み込んでいる。
「使用済みの下着に写真があればもっと興奮できるでんじゃない?」
なんとなく投げやりな口調にも感じられ、らしくないなと思った。
「写真よりも動画撮影の方がいいかな。ナナギもそっちの方が嬉しいでしょ。売ればお金になるし一挙両得よね」
なんともいえないざわついた気持ちになる。なぜそこまで自分の姉を愚弄できるのか分からない。
「たとえば」
外に向けられたままのその目が見開かれた瞬間、周囲の空気が若干、濁った気がした。
「誰かに襲わせてるところを撮るとか」
血液が逆流するような錯覚にめまいを覚える。彼女はいったい何をいっているのだろう。
「一度つき合ったことあるみたいだけど、すぐに別れたんだって。どっちから切り出したのか知らないけど、お姉ちゃんは間違いなく、しょーじょ」
最後を強調し、だから価値もあるよね、とせせら笑う。
彼女ならやりかねない気がした。
ちらとこちらに視線を投げた上四元クシナは何の反応も見せない僕をつまらなそうに見ていたけれど、すぐに相好を崩し、身を乗り出してきた。
「今度の休み、どっか行こうよ。泊りがけで」
底抜けに明るい声音は女子高生そのものだ。さっきまでの姉を姦計に陥れる発言をしていた人物には到底思えない。
脳裏ではありえない、あってはいけない無残な光景が現れては消え、消えては現れて僕を苦しめる。
ただの冗談。そう思いたかったけれど、彼女が手段を選ばないことは身に沁みて分かっている。何より、一連のアツミさんに対する腐し方は尋常ではない。
無邪気に旅行の計画を立てていく上四元クシナを見ながら、今置かれた自分の立場やアツミさんへの――年上の人にこういういい方も失礼だけれど――同情の念が大きくなり、やがて行き場のない怒りとなって僕を鼓舞する。
ここで感情の赴くままそれをぶつけたら、彼女はか弱い女子高生を再び演じ、あの貸しビルから身を投げるのだろうか。あるいは不機嫌を体現したかのような女子高生ファイターと化し、その下にあるボクシングジムで僕を今度こそ容赦なく叩きのめすのか。
彼女の見せる強気の元はその性格もあるのだろうけれど、今は間違いなくあの貸しビル、切り札があってこそだ。
「私が死んだら後味悪いから? ずっと罪悪感抱えて生きていくのがつらいから?」
事件があったあと、彼女から投げかけられた言葉が薄く長い、不吉な影となって僕に見えないプレッシャーを与える。
「さっきのことだけど」
さきほどの不埒な発言は度を超えている。姉妹とはいえ、いっていいことと悪いことがあるだろう。やめようと思いながらも、たとえそれが一時の軽口だったとしても、いわずにいられなかった。
「さっきのことって?」
こんこんと進めている旅行のプランに水を差され、瞳が一瞬で淀む。はっきり自分でいい直せということだろう。こちらをじっと見つめている。
「アツミさんの、その……」
いいだしておいて、はっきりといい切れない自分に腹が立つ。
「自分がしたいの?」
興味もなさげにいう。こちらからアツミさんの話を切り出したにもかかわらず、それに関してはもはやどうでもよいのだろう。
「自分でって」
「お姉ちゃんを襲いたいんでしょ」
「……なっ」
「二十歳超えの処女を襲うとかナナギもけっこう物好きだね。でも」
窺うような上目遣いで言葉を継ぐ。
「ナナギじゃ絵にならないのよ」
どういう意味なのか判断つきかねていると、上四元クシナは自分で作った落とし穴にはまった相手を見下すように笑った。
「お姉ちゃんが別の男に襲われながら、その横でナナギと私がするのが理想なの」
遊びに行く計画を立てるが如く、嬉々と声を弾ませる。
もう我慢の限界だった。
「どうしてそんなことを笑っていえるんだ」
上四元クシナはあごを心持ち上げてじっとしている。笑っているようにも興醒めているようにも見える。
「君がアツミさんを嫌う理由は分からないけれど、冗談でもそんな、襲うとかやめてくれないかな」
僕が感情的になるたびに新しいおもちゃを手にした子供のような目で食いついてくるのに、このときは何の反応も見せなかった。
「何も分かってない」
無色透明な表情で何もいわずにただこちらを見つめているのをいいことに、思ったことを吐き出そうと意気込む僕を小さく遮ったのは上四元クシナ。
「何にもわかってないよ」
注意していないと店内のざわめきに言葉となることなく溶け込んでしまいそうなくらい低い声でそうつぶやく。
上四元クシナはすっと立ち上がると、死んだような目でこちらを見下ろした。
また殴る。そう思った。あるいは切り札をちらつかせて専用ジムに連れ込むのか。
「私、あなたのためなら何でもしてきた」
予想に反して、拳は飛んで来なかった。となるとジムに連れ込むための遠回しな強請に出るのだろうか。
「あなたが欲しいっていうから私、すごく恥ずかしかったけれど……下着あげたよね」
遠い過去を懐かしむ育ちのいい老媼のような目でそんなことをいいだす。
「あなたがしたいっていうから、初めてだったけれど」
声が微かに波打っている。目には涙腺から生み出されたばかりの感情の滾りが今にも滴瀝となってあふれようとしていた。
「喜んで抱かれた」
そう吐き棄てると斜め上を見上げて唇を噛む。その一連の所作はドラマのワンシーンから抜き出したかのような流麗さであった。
「他のことだって……」
くちびるを噛む仕草は悲愴な表情に反してとても愛らしく思えた。だけど継がれた言葉はとてもひと筋縄ではいかない、如何わしいものであった。あのローマ帝国の第三代皇帝ですら頬を赤らめるかもしれない。
でもね、とここで笑って見せる。目はすでに充血していた。
「私、嬉しかったんだよ。大好きなあなたのために尽くせたんだもん」
すでに上四元クシナの様子を訝しがる人がちらほらこちらを注視し始めていた。ひそひそ話を交わす人も出始めている。
彼女から淀みなくこぼれ出る現実感を伴わない発言の数々は僕を軽い思考停止状態に陥らせるのにじゅうぶんであった。
「本気、じゃなくても……遊びでもよかった。身体が目当てでも構わなかった。あなたが気持ちよくなるなら、私……私は、満足」
だった、と続けるつもりだったらしいけれど、早春の晴れた日に降る雪のごとくカタチになる前に消えてしまったようだった。
「あそこ、修羅場ってね?」
「パンツがどうとかいってるんですけど」
「口でどうとか飲んだとか、AVの話か」
「おとなしそうな顔して女を弄ぶとかやるな」
「すッげー美人」
荒唐無稽を地で行くような上四元クシナの言動に搦め捕られたまま、なすすべもなく居竦まる僕に口さがない人々の好奇の目が容赦なく突き刺さる。
すでに上四元クシナの頬は止め処なく流れ出る涙で濡れていた。
「でもね、やっぱり……つらい。あなたにもう相手にして貰えないのはつらいよ」
手のひらの表で裏で目や頬を拭う姿はまるで幼子のようだった。
「だから、だからね、はっきりいって欲しいの。もうお前なんか消えてしまえって」
でっち上げによって生み出される彼女の場当たりな感情の吐露はその高まる声音とともにいや増す。
「ねえ、いってよ、お前なんか死ねって。もう楽にして、はっきり死ねっていってよ!」
かりそめの慟哭に身を委ねている上四元クシナを他人事のように眺めながら、ずいぶんと器用な子だな、とぼんやり思っていた。
「いってよ、早く! 嫌いなんでしょう、憎いんでしょう、いってよ、死ねって!」
ヒステリックに喚きたてても彼女はきれいだった。こんな状況なのに、自分の置かれている立場など構うことなく、そう思った。
彼女の理不尽な非難はどんどん周囲の空気を淀ませ、僕を孤立させる。
一階からは媚びたような「いらっしゃいませぇ」が聞こえてくる。どこか遠い遠い街から届いた無責任な冷やかしのようにも思える。
上四元クシナに常識が通用しないのは分かり切っていたことだったではないか。気に入らないことがあれば、手を替え品を替え相手を徹底的に翻弄し、蹂躙し、服従させる。そして自分を傷つけることも厭わない。そこが彼女のいちばん恐ろしいところだ。
「……ナナギ、一生つきまとってあげるから、覚悟してね」
逃げ場などなかった。絶望的な我が身の不幸を今さら嘆いたところで何も変わらない。
あの日。中学に上がった勢いで溜まりに溜まった不満を(中途半端に)爆発させて起こした姉へのちっぽけな反乱をあっさり制圧され、泣かれ、絶望の中で心を折られたあのときのような崩壊感がふたたび僕を打ちのめす。
「いってよ、ほら、早く! 死ねって、お前なんか死ねって! 死んであげるから!」
僕は泣いていたかもしれないし、泣いていなかったかもしれない。今起こっている出来事に思考が追いつかない。
楽になりたかった。彼女に降伏すれば楽になれる。土下座でもなんでもして許しを請えばいいのだ。彼女の機嫌を損ねることなく、ずっと彼女のいうがまま、するがままに従っていくことを誓えば彼女は許してくれるだろう。それが狙いなんだ。簡単なことじゃないか。
「ほら、いってってば! 死ねって!」
そうだ。彼女はいって欲しいのだ。「ごめんさない」と。僕の謝罪を要求しているのだ。店内で晒しモノになりながらも、必死にそう訴えているのだ。可愛いものじゃないか。人目を引くような美人に言い寄られてなすがままにされるなんてそうそうあることじゃない。
なぜ彼女の好意を受け入れなかったのだろうか、抵抗し続けていたのだろうかと考える。
その強引すぎる性格ゆえなのか。
違う。どこかで羽二生さんが引っかかっていたのだ。
上四元クシナに翻弄されながらも、この場を見られたら、例の噂話を聞かれたらどうしようだのと至極みっともなく往生際の悪い言い訳を悶々と自分にぶつけて引き摺っていた。
でも、羽二生さんにいくら想いを抱こうとも一方的なものだし、彼女はこちらを振り向くことなどない。絶対に、ない。分かりきっていることだった。
上四元クシナに屈せず、妥協しないでいたらいつかは振り向いてくるとでも思ったのだろうか。
あるわけがない。
障害というには語弊も甚だしいけれど、羽二生さんのことがなければ、僕が取るべき道は自ずと見えてくる。
橋から飛び降りて動揺を誘い、リング上で徹底的に嬲って互いの立場を認識させ、今こうやって止めを刺そうと喚き立てている彼女を眺めながら諦観にも似た感情に支配される。
虚構もくり返されれば受け入れられる真実になるっていっていたのは誰だったか。
不思議と穏やかな心持ちだった。
もう、彼女に、従おう。
目の前で形振り構わず必死な演技でもって謝罪を、屈従することをひたすら要求する上四元クシナに応えるべく、僕はゆっくりと口を開いた。
それは完全な敗北であった。
そして今日も当たり前のようにその姿を現すのだけれど、今日は変化があった。
「……どうしたの?」
見慣れた青い制服ではなく、淡色のキャミソールに台形に広がるタックプリーツの生成りのミニスカート、ショート丈の薄いピンクのトレンチ、ヒールの高いベージュのオープントゥパンプスという私服姿だった。
彼女のプライベートな格好は正体が判明したあの日に着ていた扇情的なゴスロリファンション以来だ。
「休み」
僕の腕を取ると、それだけいって歩き出す。無駄のない返答は服装も相俟ってどこかアダルトだった。
そういえば姉も学生時代の今頃だろうか、創立記念日とかで休んでいた気もする。
腕に痛みが走った。
「昨日、お姉ちゃんと楽しそうだったよね」
視線は前方を捉えたまま、ぎりぎりと指を食い込ませてくる。語感には何の感情も乗っていない。
昨夜、彼女が助手席から飛ばしてきた常軌を逸した殺気を思い出し、鳥肌が立つ。
「やっぱり、お姉ちゃんのこと好きなんじゃないの」
楽しそうに会話をしただけで好きだ嫌いだいわれたらきりがない。来る日も来る日もいいように振り回されている身としては皮肉の一つもいいたい衝動に駆られる。いっそ好きだとでもいったら、どうなるのだろう。この間のようにきつい一発を放ってくるのか、専用ボクシングジムへ連行されるのか。
でもその戯れ心はすぐに霧散した。上四元クシナにどうこうされるとか以前にアツミさんに対して失礼だ。
「ねえ」
突然の稚気がこもった声で思考が遮られた。
「お姉ちゃんでしたこと、ある?」
視線は前方に向けたまま、そんなことをいう。
「……したって、なに?」
上四元クシナがこちらに顔を向けた。とぼけていると取られたかと思ったけれど、彼女は家庭教師のような懇切さで以って、いい直した。
「気持ちいいこと」
濡れたような瞳に猥色が浮かぶ。やがてそれは濃くなり、やがて熱を帯びた。
「今度、持ってきてあげよっか」
俄かに声が華やいだ。
「お姉ちゃんのパンティ」
意味が分からず彼女を見やると、驚くくらいあどけない笑顔がそこにあった。
昨日の楽しげなアツミさんを思い出す。それだけのことなのにすごく不純なことのように思えて居た堪れなくなる。
「どうせなら脱ぎたてがいいでしょ」
「やめようよ、そういうこというの」
僕の口からでなければいいのか、あれだけ嫌がっていたアツミさんの話を自ら振り、挙句、その姉を使って僕を翻弄する。相変わらず彼女から真意を汲み取るのは困難だ。
今日、彼女に連れてこられたファーストフード店は十鳥さんとの偽りの待ち合わせ場所に使われたところであった。選んだ席まであのときと一緒で思わず苦笑する。
「こういうところ、あまり来ないからなにか新鮮」
座るなりそういう。むしろ好んで来ているように思っていたので意外であった。
「だってジャンクでしょ」
以前行ったコーヒーショップは違うのかとも思うけれど、同じ外食系でも利用する立場からすれば階級、ヒエラルキーみたいなものがあるのかもしれない。
「さっきの話だけど」
上四元クシナが窓の外を見ながら笑った。
「お姉ちゃんの写真、撮ってきてあげようか」
口元こそ色めいているけれど、その瞳孔は深く沈み込んでいる。
「使用済みの下着に写真があればもっと興奮できるでんじゃない?」
なんとなく投げやりな口調にも感じられ、らしくないなと思った。
「写真よりも動画撮影の方がいいかな。ナナギもそっちの方が嬉しいでしょ。売ればお金になるし一挙両得よね」
なんともいえないざわついた気持ちになる。なぜそこまで自分の姉を愚弄できるのか分からない。
「たとえば」
外に向けられたままのその目が見開かれた瞬間、周囲の空気が若干、濁った気がした。
「誰かに襲わせてるところを撮るとか」
血液が逆流するような錯覚にめまいを覚える。彼女はいったい何をいっているのだろう。
「一度つき合ったことあるみたいだけど、すぐに別れたんだって。どっちから切り出したのか知らないけど、お姉ちゃんは間違いなく、しょーじょ」
最後を強調し、だから価値もあるよね、とせせら笑う。
彼女ならやりかねない気がした。
ちらとこちらに視線を投げた上四元クシナは何の反応も見せない僕をつまらなそうに見ていたけれど、すぐに相好を崩し、身を乗り出してきた。
「今度の休み、どっか行こうよ。泊りがけで」
底抜けに明るい声音は女子高生そのものだ。さっきまでの姉を姦計に陥れる発言をしていた人物には到底思えない。
脳裏ではありえない、あってはいけない無残な光景が現れては消え、消えては現れて僕を苦しめる。
ただの冗談。そう思いたかったけれど、彼女が手段を選ばないことは身に沁みて分かっている。何より、一連のアツミさんに対する腐し方は尋常ではない。
無邪気に旅行の計画を立てていく上四元クシナを見ながら、今置かれた自分の立場やアツミさんへの――年上の人にこういういい方も失礼だけれど――同情の念が大きくなり、やがて行き場のない怒りとなって僕を鼓舞する。
ここで感情の赴くままそれをぶつけたら、彼女はか弱い女子高生を再び演じ、あの貸しビルから身を投げるのだろうか。あるいは不機嫌を体現したかのような女子高生ファイターと化し、その下にあるボクシングジムで僕を今度こそ容赦なく叩きのめすのか。
彼女の見せる強気の元はその性格もあるのだろうけれど、今は間違いなくあの貸しビル、切り札があってこそだ。
「私が死んだら後味悪いから? ずっと罪悪感抱えて生きていくのがつらいから?」
事件があったあと、彼女から投げかけられた言葉が薄く長い、不吉な影となって僕に見えないプレッシャーを与える。
「さっきのことだけど」
さきほどの不埒な発言は度を超えている。姉妹とはいえ、いっていいことと悪いことがあるだろう。やめようと思いながらも、たとえそれが一時の軽口だったとしても、いわずにいられなかった。
「さっきのことって?」
こんこんと進めている旅行のプランに水を差され、瞳が一瞬で淀む。はっきり自分でいい直せということだろう。こちらをじっと見つめている。
「アツミさんの、その……」
いいだしておいて、はっきりといい切れない自分に腹が立つ。
「自分がしたいの?」
興味もなさげにいう。こちらからアツミさんの話を切り出したにもかかわらず、それに関してはもはやどうでもよいのだろう。
「自分でって」
「お姉ちゃんを襲いたいんでしょ」
「……なっ」
「二十歳超えの処女を襲うとかナナギもけっこう物好きだね。でも」
窺うような上目遣いで言葉を継ぐ。
「ナナギじゃ絵にならないのよ」
どういう意味なのか判断つきかねていると、上四元クシナは自分で作った落とし穴にはまった相手を見下すように笑った。
「お姉ちゃんが別の男に襲われながら、その横でナナギと私がするのが理想なの」
遊びに行く計画を立てるが如く、嬉々と声を弾ませる。
もう我慢の限界だった。
「どうしてそんなことを笑っていえるんだ」
上四元クシナはあごを心持ち上げてじっとしている。笑っているようにも興醒めているようにも見える。
「君がアツミさんを嫌う理由は分からないけれど、冗談でもそんな、襲うとかやめてくれないかな」
僕が感情的になるたびに新しいおもちゃを手にした子供のような目で食いついてくるのに、このときは何の反応も見せなかった。
「何も分かってない」
無色透明な表情で何もいわずにただこちらを見つめているのをいいことに、思ったことを吐き出そうと意気込む僕を小さく遮ったのは上四元クシナ。
「何にもわかってないよ」
注意していないと店内のざわめきに言葉となることなく溶け込んでしまいそうなくらい低い声でそうつぶやく。
上四元クシナはすっと立ち上がると、死んだような目でこちらを見下ろした。
また殴る。そう思った。あるいは切り札をちらつかせて専用ジムに連れ込むのか。
「私、あなたのためなら何でもしてきた」
予想に反して、拳は飛んで来なかった。となるとジムに連れ込むための遠回しな強請に出るのだろうか。
「あなたが欲しいっていうから私、すごく恥ずかしかったけれど……下着あげたよね」
遠い過去を懐かしむ育ちのいい老媼のような目でそんなことをいいだす。
「あなたがしたいっていうから、初めてだったけれど」
声が微かに波打っている。目には涙腺から生み出されたばかりの感情の滾りが今にも滴瀝となってあふれようとしていた。
「喜んで抱かれた」
そう吐き棄てると斜め上を見上げて唇を噛む。その一連の所作はドラマのワンシーンから抜き出したかのような流麗さであった。
「他のことだって……」
くちびるを噛む仕草は悲愴な表情に反してとても愛らしく思えた。だけど継がれた言葉はとてもひと筋縄ではいかない、如何わしいものであった。あのローマ帝国の第三代皇帝ですら頬を赤らめるかもしれない。
でもね、とここで笑って見せる。目はすでに充血していた。
「私、嬉しかったんだよ。大好きなあなたのために尽くせたんだもん」
すでに上四元クシナの様子を訝しがる人がちらほらこちらを注視し始めていた。ひそひそ話を交わす人も出始めている。
彼女から淀みなくこぼれ出る現実感を伴わない発言の数々は僕を軽い思考停止状態に陥らせるのにじゅうぶんであった。
「本気、じゃなくても……遊びでもよかった。身体が目当てでも構わなかった。あなたが気持ちよくなるなら、私……私は、満足」
だった、と続けるつもりだったらしいけれど、早春の晴れた日に降る雪のごとくカタチになる前に消えてしまったようだった。
「あそこ、修羅場ってね?」
「パンツがどうとかいってるんですけど」
「口でどうとか飲んだとか、AVの話か」
「おとなしそうな顔して女を弄ぶとかやるな」
「すッげー美人」
荒唐無稽を地で行くような上四元クシナの言動に搦め捕られたまま、なすすべもなく居竦まる僕に口さがない人々の好奇の目が容赦なく突き刺さる。
すでに上四元クシナの頬は止め処なく流れ出る涙で濡れていた。
「でもね、やっぱり……つらい。あなたにもう相手にして貰えないのはつらいよ」
手のひらの表で裏で目や頬を拭う姿はまるで幼子のようだった。
「だから、だからね、はっきりいって欲しいの。もうお前なんか消えてしまえって」
でっち上げによって生み出される彼女の場当たりな感情の吐露はその高まる声音とともにいや増す。
「ねえ、いってよ、お前なんか死ねって。もう楽にして、はっきり死ねっていってよ!」
かりそめの慟哭に身を委ねている上四元クシナを他人事のように眺めながら、ずいぶんと器用な子だな、とぼんやり思っていた。
「いってよ、早く! 嫌いなんでしょう、憎いんでしょう、いってよ、死ねって!」
ヒステリックに喚きたてても彼女はきれいだった。こんな状況なのに、自分の置かれている立場など構うことなく、そう思った。
彼女の理不尽な非難はどんどん周囲の空気を淀ませ、僕を孤立させる。
一階からは媚びたような「いらっしゃいませぇ」が聞こえてくる。どこか遠い遠い街から届いた無責任な冷やかしのようにも思える。
上四元クシナに常識が通用しないのは分かり切っていたことだったではないか。気に入らないことがあれば、手を替え品を替え相手を徹底的に翻弄し、蹂躙し、服従させる。そして自分を傷つけることも厭わない。そこが彼女のいちばん恐ろしいところだ。
「……ナナギ、一生つきまとってあげるから、覚悟してね」
逃げ場などなかった。絶望的な我が身の不幸を今さら嘆いたところで何も変わらない。
あの日。中学に上がった勢いで溜まりに溜まった不満を(中途半端に)爆発させて起こした姉へのちっぽけな反乱をあっさり制圧され、泣かれ、絶望の中で心を折られたあのときのような崩壊感がふたたび僕を打ちのめす。
「いってよ、ほら、早く! 死ねって、お前なんか死ねって! 死んであげるから!」
僕は泣いていたかもしれないし、泣いていなかったかもしれない。今起こっている出来事に思考が追いつかない。
楽になりたかった。彼女に降伏すれば楽になれる。土下座でもなんでもして許しを請えばいいのだ。彼女の機嫌を損ねることなく、ずっと彼女のいうがまま、するがままに従っていくことを誓えば彼女は許してくれるだろう。それが狙いなんだ。簡単なことじゃないか。
「ほら、いってってば! 死ねって!」
そうだ。彼女はいって欲しいのだ。「ごめんさない」と。僕の謝罪を要求しているのだ。店内で晒しモノになりながらも、必死にそう訴えているのだ。可愛いものじゃないか。人目を引くような美人に言い寄られてなすがままにされるなんてそうそうあることじゃない。
なぜ彼女の好意を受け入れなかったのだろうか、抵抗し続けていたのだろうかと考える。
その強引すぎる性格ゆえなのか。
違う。どこかで羽二生さんが引っかかっていたのだ。
上四元クシナに翻弄されながらも、この場を見られたら、例の噂話を聞かれたらどうしようだのと至極みっともなく往生際の悪い言い訳を悶々と自分にぶつけて引き摺っていた。
でも、羽二生さんにいくら想いを抱こうとも一方的なものだし、彼女はこちらを振り向くことなどない。絶対に、ない。分かりきっていることだった。
上四元クシナに屈せず、妥協しないでいたらいつかは振り向いてくるとでも思ったのだろうか。
あるわけがない。
障害というには語弊も甚だしいけれど、羽二生さんのことがなければ、僕が取るべき道は自ずと見えてくる。
橋から飛び降りて動揺を誘い、リング上で徹底的に嬲って互いの立場を認識させ、今こうやって止めを刺そうと喚き立てている彼女を眺めながら諦観にも似た感情に支配される。
虚構もくり返されれば受け入れられる真実になるっていっていたのは誰だったか。
不思議と穏やかな心持ちだった。
もう、彼女に、従おう。
目の前で形振り構わず必死な演技でもって謝罪を、屈従することをひたすら要求する上四元クシナに応えるべく、僕はゆっくりと口を開いた。
それは完全な敗北であった。
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物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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