姉はすべてを支配する。さればわれらも姉に従おう。

さいきごそ

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年上のひと

爾後

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「辞めるとかいわないよね」
 出勤してすぐ、シオノさんは泡を食ったように休憩室から顔を覗かせた。
 確かに店長にそういうことはいったし、正直、あまりしがみついてまでいることはない気もするので、仮にクビを告げられてもすんなり受け入れるつもりはあった。
「一君が辞める必要はないでしょうよ。ヤボテンもそれは考えてないっていってたし」
 シオノさんはなぜか店長のことをヤボテンと呼ぶ。単純に『野暮天』のことかと思っていたけれど、ことあるごとに「あいつ、野暮だからさー」と愚痴っていることから『野暮な店長』の略なのかもしれない。詳しくは聞いていないけれど……まあ、どちらでもいいことではある。
「そもそも一君の評価は高いんだよ。君ぐらいの男子学生って不真面目なの多いしさ。実際、過去に男の学生アルバイト何人かいたことあったけど、遅刻無断欠勤は当たり前、店に友達とか来ると仕事すっぽかして話し込むなんてしょっちゅうで本当、使えないんだ。んで、そいつらに共通点してるのが挨拶ひとつ満足にできないってこと。自分からは絶対にしないのよ。こっちからしてはじめて返すんだ。それも嫌々ってのが丸分かりのぞんざいさでさ。あんなんで社会に出てやっていけるのかねえ。人がいいだけが取り柄のヤボテンもさすがに怒っちゃってさ、男子学生は二度と雇わないって断言してたくらいなんだ」
 それを覆したのは偏に上四元クシナ経由の口添えがあったからであろう。
「今までの連中の酷さを差し引いても一君の優等生っぷりはヤボテン以下従業員みんなの認めるところなわけなのよ」
 僕は普通にしているつもりなのでそういう評価を受けてもピンと来ない。
「そういう普通のことすらできない連中が増えたってことかね。人と満足にコミュニケーションできないってのがさ。そんなのが客商売とか笑わせんなっての。そのくせ四六時中、端末の画面ばっか眺めるのにはご執心でしょ。歩きながらとか酷いのになると、自転車に乗ったままいじってるんだよ。あれさ、バカじゃないのって思うんだ」
 次第にシオノさんによる『最近の若者』に対する口撃は熱を帯びていった。もはや過去にここでアルバイトしていた男子学生たちへの不満からは離れて俗世間に蔓延る非常識な問題行動への怒りへシフトしている。
 ひと通り吐き出すだけ吐き出してすっきりしたのか、シオノさんは我に返ったように僕の肩をポンと叩いた。
「……とまあ、そんなわけでヤボテンは君を手放す気はさらさらないようだから安心していいよ」
 そういえばそのヤボ……もとい、店長の姿が見えなかった。今日もシフトには入ってるはずだけど。
 シオノさんはちょっと考え込むように目線をずらし、他にも見えないのいるでしょうと真顔でいった。
 そこまでいわれてはたと気づいた。ニカイドウさんとチギラさんの姿もない。
「ま、あいつはクビだろう」
 吐き捨てるようにシオノさんはいう。たぶん、チギラさんのことだろう。
「ヤボテン、あのふたりと話し合いにいってる」
「ふたり一緒に、ですか?」
「どうかね。チギラは人妻にベタぼれみたいだし、一緒ではないんじゃないの」
 シオノさんは店長が日頃、事務で使う椅子を小部屋から引っ張ってきて腰かけると、君も災難だったよねと苦笑いしてみせた。
「大体は察しがつくけど、君、あの人妻に誘惑されたんだろ」
「………えっと」
「ま、無理には聞かないけど、思春期真っ只中でよく誘惑に打ち勝てたな。容姿は……まあ、そんなに……悪くはないし? 君からすれば素敵なお姉さんだろうに」
 ニカイドウさんをあんまり褒めるのは気が引けるのだろう、どこかいい難そうな物言いがおかしかった。
 素敵なお姉さん、というのは間違ってはいない。赤裸々な夫婦生活の話や喫煙家ということを除けば、確かにそうだった。あの夜までは。
「いい加減な話まででっち上げたんだ。どの顔下げてここに来られるって話だわね。チギラとセットでまたねー、だろ」
 独特な言い回しでふたりを腐す。
「……あの、ニカイドウさんとチギラさんって、仲よかったんですか」
 聞いていいものか躊躇われたけれど、あそこまで理不尽な恨みを買った身としてははっきりとさせておきたかった。
「チギラはともかく、人妻の方は興味ないでしょうよ、あんなの。見てる方が引くくらい必死に近づこうとしてはいたけどさ。ヤボテンも相手は人妻だし、やめろって何度も忠告してたみたいだけど、効果はなかったね。君に襲われたってありもしない話をあいつに振ったのはただ利用しただけだろ。肉体関係は持ってない。毎晩おかずにはしてただろうけど」
 最後のひとことこそ重要でいいたかったとばかりに声を大きくする。
「さみしいかね、人妻がいないと」
 正直、分からなかった。シオノさんは否定しなかったのが不満だったのか、どれだけ人がいいんだよと呆れていた。
 けっきょく店長はそのまま直帰するという連絡があり、話し合いの詳細は聞けなかった。
 この日もひとりで山のような返本と格闘し、それでもなんとか時間内に終わらせることができた。
 店内に残る従業員の人たちに挨拶する際、まだ微妙な空気を感じはしたけれど、深く考えることはやめた。
 十五夜さんはいつも通りに接してくれたし、店長も今回のことは問題にするつもりはないといっていた。てっきりアイカワさんたちみたいな対応だと構えていたシオノさんも意外といっては失礼だけれど気づかってくれた。
 吹っ切るように店を出ると、敷地内にあるファミリーレストランの前に見慣れたコンパクトカーが停車していた。
「……一君」
 シトラスオレンジに向かって歩き出そうとしたときだった。不意にかけられた、どこか懐かしい気さえするやさしい、しかし緊張を強いるかのような不穏さを秘めたその甘い声に足が止まる。
「こんばんわ」
 左手の薬指にプラチナを光らせた彼女は、ノースリーブのブラウスにボリュームのあるアイボリーのチュールミニスカートを合わせていた。
 まるで昨日一昨日のことなどなかったかのように浮かべたその自然な笑みは感知し得ない恐怖を否応なく駆り立てる。
 その視線から逃げるみたいに彼女の足元――ウッドビーズとストラップで構成されたデザインが目を引くサンダル――を見ていると、動きが止まった。
 何ごとだろうと顔を上げると、彼女は僕ではなく、後方を見ていた。つられて振り返ると、いつの間にか車から降りてきたアツミさんが佇んでいた。その容貌はかすかに強張っている。
 やわらかく微笑む彼女と硬い表情のアツミさんに挟まれて途方に暮れる寸前の僕を救ってくれたのは同乗してきたのだろう、上四元クシナであった。
 ふたりが気にはなったけれど、彼女に促されて先に車内で待っていることにした。
 アツミさんたちが車を通り過ぎてファミリーレストランに入って行くのが見えた。横を通りかかる寸前、後に続く彼女はチラッと僕を認めて笑顔で小さく手を振っていた。
「余裕たっぷりね、あの人妻さん」
 助手席から感心したような声がした。
「……アツミさん、どうしたの」
「待ってたら、あの人があなたに近づくのが見えたから我慢できなかったのよ」
「ふたりで……何を話し合うのかな」
「一戦交えるための打ち合わせじゃない?」
「い、一戦って」
「ほら、あるじゃないお誂え向きの場所」
 瞬時にあのビルが浮かぶ。
「だってアツミさん……ボクシングするの」
「全然。見ての通り、穏やかな性格だからボクシングどころかスポーツ自体に縁がないわよ。ただ何かのため・・・・・ならリングにだって立つんじゃない」
 グローブを装着してリングに臨場するアツミさんを思い浮かべようと試みるけれど、すぐに立ち消えてしまった。上四元クシナにいわれるまでもなく、殴り合いなんてできる人ではないのは知っているけれど、同じように周りからお淑やかと評判の姉、あるいはシーナさんのことを鑑みると意外な才能を秘めている可能性もないとはいい切れない。もっとも、あまりボクシングをやっていたり、強い女性が身近にたくさんいるのも考えものだけれど。
「気になるなら、覗いてくれば」
 さすがにそれは気が引ける。
「君は行かないの」
「………私は、いい」
 口ごもる上四元クシナなんて初めてかもしれない。
 重苦しく沈み込んだ車内の空気に馴れかけた頃、アツミさんがひとりで出てきた。
「行こ」
 運転席に着くと同時に吐かれたひとことには怒りが滲んでいた。こんなアツミさんは見たことがない。裏返せば、今さっきまで店内で行われた話し合いが円滑に行かなかったことなのだろう。
 けっきょくその夜、アツミさんは帰り際にぎこちない笑顔で手を振ってくれただけで会話らしい会話はなく、姉に従うように上四元クシナも同様であった。

 翌日。
 学校帰りに声をかけられた。
 四つ目のスポーツカーを従えた人妻さんはキャミソールにショートデニムを合わせていた。ただでさえ下着みたいなトップスなのに極端に丈の短いデニムと足を覆っている編み上げブーツが挑発的でなんとも目のやり場に困るものだった。
 肉感を刺激するようなオーラを振りまく彼女の存在は通学路ではあきらかにそぐわずに浮いていた。もっとも、本人は奇異な視線をむしろ喜んでさえいるようだったけれど。
「今日はお休みでしょ?」
 車のキーを振り回すありがちな動作で運転席に向かうと、僕を一瞥し、乗り込む。
 乗れ、ということなのだろう。
 考えの読めない人に振り回されるのは威張れたことではないけれど、馴れがある。
「……どこに行くんですか」
「この間の続きがゆっくりできる場所」
 聞きたいことは確かにある。でもそれは知らなくても問題のないことではあった。
 足を組んだミセスはこちらの出方を窺っているのか、無言であった。
「聞きたいことがあるんです」
 僕の言葉に、口元のほくろが歪むのが見えた。
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