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1章 彼女たちとの出会い

#7-4.人間世界デフレーション

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 魔王軍が大陸中央から撤退しはじめたのは春の中ごろのことだった。

 人間達を悩ませていた魔王軍は、全軍が大陸東部『アレキサンドリア線』と呼ばれる渓谷地帯まで後退し、そこに強力な防衛ラインを敷いたのだという。
その防衛線を撃ち破るのは流石に厳しいだろうが、ひとまず魔王軍の退いた中央部は平穏を取り戻し、人々は魔族に打ち勝ったという熱気で盛り上がった。
しかし、その熱気は、人間達を歪んだ方向に思考させる。

「魔族なんて俺達人間に掛かれば大したことは無い」

 いつしか、人間にとって魔族など、本気を出しさえすればこんなものなのだという風説が流布される。
やがてそれは魔族に対する憎しみから人々に次々と広まっていき、一つの価値観としてそういったものが生まれてしまう。
戦争に対する楽観論である。
街の近くで戦いが起き、夫が、息子が、恋人が、隣人が戦地に向かっていた時には、街は少なからず悲壮感に包まれており、彼ら戦地に向かった兵達の無事を祈る子女を慮り、そうした楽観的なものの見方をする者はいなかった。
人が身近で死ぬような環境で「敵は大したことが無い」などと言えば、それが仮に希望的なものの見方だったとしても、袋叩きに遭うのが関の山である。

 だが、身近から敵が居なくなり、戦争が遠い世界のものであると感じられるようになるとその空気は一変し、元々魔王の討伐話で盛り上がっていた民衆は、いよいよもって戦争の終わりが近い事を感じ始めていた。
かつて勇敢な英雄を称えていた吟遊詩人は、今は戦争など微塵も感じさせない恋の詩を流行らせ歌っている。
商人達は、早くも戦後の平穏な時代に売る品物の心配をし、武器の売り上げの低下等を恐れているらしかった。
街角にうつむいて座る自称勇者の負傷兵は、誰にも相手にされず。
まるで戦争など起こっていないかのように、誰もがその影から目を背け始めていた。

 広まった楽観論は、やがて戦争そのものに対して否定的な見方をする者を生み出す。

「俺達は本当に戦う必要があるのかい?」
「税金税金って何でもむしり取られていくけど、なんで俺達が戦争に金を出す必要があるんだ?」

 血を流すのは職業軍人や勇者や傭兵で十分なのではないか。
自分達が重い負担を受けてまで、この戦争を支援する必要があるのだろうか。
国だけで十分なのではないか。普段出している税からわずかばかり捻出すればそれで事足りるのではないか。
魔族という急時の脅威を感じられなくなった民衆は、今度は自分達の国に対して脅威を感じ始めていた。生活の脅威である。
それまでは当たり前のように、誰も何の疑問も抱かず、時として進んで支払われていた戦争税が、やがて民の反感によって取り潰しになっていく。
国としては収入が次々と減っていき、その税の使い方も軍事寄りには使いにくくなっていく。

 やがて、商人が言うのだ。

「そんなに楽勝なら、無理に新しい武器や兵器を売ってまわらなくてもよさそうだ」

 手間を少しでも省きたい彼らは、わざわざ新製品の説明回りなどせず、実績のある既存の商品をリメイクして商売の活路を見出す事にした。
こうして、人間世界に溢れかけていた対魔族用新兵器『カノン』は、一部金持ち国家に試作的に配備されるにとどまる。
対竜兵器は新しい工法の開発によりコストが下がり、各国の砦に均等に配備され始めたが、それもメンテナンスが頻繁に必要な為、検討の末に必要の薄い大陸西部諸国は次々と取りやめにしていく。
前線は未だ魔族の脅威を感じているものの、後方からは人員や物資の補給が減るようになり、やがて滞り始める。
守るばかりで攻めてこない魔族を撃ち破るだけの力は既に前線にはなく、やがて現状維持のみが彼らに与えられる役目となっていた。
人々の心はたるみきり、民衆も商人も兵隊も、戦うのが馬鹿らしくなってしまった。
敵は未だ健在なのに、である。


 インフレが止まるのと同時期に、物資の提供と引き換えで解放された人質達が、街々で魔界の現状を伝えていた。
魔族は未だ健在である、と。敵は、決して人間世界の侵攻を諦めてはいない、と。
そして、人々に驚きの事実を伝えた。

「人間の貴族の中に、魔族と繋がりのある人がいます」

 人質達はその目で、人間らしき中年の男が、赤髪の、下半身が大蛇になっている女魔族と共に歩いているのを見たのだという。
品の良い衣服を纏うその中年紳士は、女魔族から『ドーガ伯爵』と呼ばれ、人質の彼らを見ていやらしく笑ったのだ。
『馬鹿な奴らだ、おかげで私は良い思いをしている』
笑いながら、近くに立つ美しい娘にいやらしい視線を向け、手を伸ばそうとしたところで女魔族に注意され、へこへことしながら一緒に去って行ったのだという。

 民衆の誰もがドーガ伯爵などという名前には心当たりがないはずだが、戦争が嫌になっていた民衆は、やがてにわかに貴族を糾弾するようになる。

「あいつら、俺達を裏切りやがったんだ」

 誰かがそう叫ぶと、他の民衆も釣られて怒りを露にしていく。
戦争の犠牲者が、自分達が受けていた苦痛の多くが、全てその貴族の裏切りによるものだと、そう思い込まされて。
人々は、魔族という明確な敵ではなく、自分達の身近に居る、居るかどうかも定かではない『裏切り者』という敵に対し、疑念と敵意を向け始めていった。

 やがてその流れは民衆が普段から感じていた国に対する疑心を決定的なものへと変えていく。
雪崩式に悪化していく国家の有様に、他の国も同様のことが起こらぬようにと締め付けを厳しくするのだが、それが元になり民衆がやましさを感じてしまい、次々と油がまかれていく有様。
技術インフレによって沸き立っていた人間世界は、今度は疑念のインフレという負の産物に取り込まれ、急速に衰退していく。
完全に油断していた中に生まれた戦争に対する疑念が、やがてそういった負の感情と結びつき、反戦を唱える民衆が組織化され、やがて国に抵抗するようになる。
それはいずれ革命となり、人間世界は未曾有の大混乱を生み、技術の進歩などさせている状況ではなくなっていくのだ。


 ここまで全てが魔王の筋書き通りに進み、人間は新たに生まれた『裏切り者』という想像の産物を排除する事に躍起になっていた。
想像力豊かな人間は、一度疑念に取り憑かれると、どこまでも悪い方向に考えてしまう。
好転させる材料など与えず、次々に疑心暗鬼に落としいれ、際限なく状況を悪化させていくのだ。
その結果として、魔王軍にとって脅威足りうる新兵器の導入は多くの国で見送られ、敵の前線の兵力も障害足り得ないレベルにまで落ちていった。
再び魔王軍が侵攻すれば危機感を覚え、またある程度のレベルまでは回復するだろうが、それも今までと違い、必ず民間人が国の行動を阻害するようなシステムが形成されていた。
このインフレ防止システムは、魔族にとって厄介な人間の進歩を遅らせると共に、前線の敵の戦力をある程度のレベルに留め、いつまでも魔族が戦争継続できるようになっており、実に優秀で有用であった。


「どうだねラミア。最近の流れは」
二年ほど経った春の日。玉座に君臨する魔王は、状況の報告に来たラミアに、機嫌よさげに問う。
「陛下の講じた策は見事にはまっているようです。人間世界は混乱し、技術水準も大幅に衰退していると……」
ラミアも、そう機嫌は悪くなく、中々に爽やかな笑顔で応えた。
「そして、我らが攻めずとも人間同士で諍いを起こすようになりました」
どこかの街で起きた些細な軍人と民間人の喧嘩が、いつしか大きな流れとなり、国を、人間世界そのものを巻き込む大きな波へと育っていく。
人間同士の諍いはまだまだ小さいが、これが育ちきれば、いずれ人間世界を二分する事もあるかもしれない。
だが、それは不味いのではないかとラミアは考える。
「ですがよろしいのですか陛下。人間同士で争えば、再び技術のインフレが起きる可能性も……」
「その通りだ。だから、そんな事はさせない」
人間達は混乱させておけばいい。だが、互いに戦争させるのはよくないのだ。
「人間世界への侵略を再開するぞ。二年もくれてやった。前線の士気はどうか」
「万全ですわ。亜人達も魔族として大分溶け込み、連携もより深く取れるようになりましたし」
ラミアも悪く笑う。

 二年という時は大して長くはなかったが、その時の流れの中で、大きく衰退していく人間の様を見て、この魔王は中々のやり手なのではないかと思うようになったのだ。
元々魔王になる魔族などというのは、大方が力ずくで押すことばかり考える戦争狂いか、欲望に溺れて異性を抱いてばかりの色狂いばかりで、たまに戦術に詳しい者はいても、戦略レベルまで頭が回る魔王というのはほとんどいなかった。
魔族的には知恵者よりはツワモノが魔王として相応しく、ブレインとなる蛇女が側近としているのだから、魔王は考える必要などなかったのだ。
だからこそ、この、意外と知恵者な魔王の登場に、当初のラミアはひどく困惑したが、慣れてくるとそれは中々頼もしいのではないかと感じるようになっていた。

 魔界最強には程遠いが魔族としてもかなり強く、人形達の軍勢は、彼の命にしか従わないものの、人間相手に無双の戦果である。
普段は頼りない変人ではあるが、本気を出すと相当に厄介な相手である事が、こうした機会の度に窺える。
支持率自体は低いものの、本気で反旗を翻そうとする勢力が未だ現れないのはこの為であり、何をしでかすか解らないから怖くて手を出せないでいる。

 解らないというのは怖いのだ。
その原初の昔から存在する本能的な恐怖を、今代の魔王は時々漂わせる。
何より、この魔王は自分をそれなりに重用し、ブレインとして役立てながらも、時として思いもよらない策を考えたりする。
最初こそ本気で見放そうと思っていた程にろくでもない主であったが、それらしい態度を取ると、これほど魔王に相応しい者はいないのではないかと思うほどにそれらしく見えるのが不思議で、ラミアはどこか可笑しく感じてしまっていた。
「何が可笑しいのかね?」
笑いが表に出てしまっていて、それが魔王に気づかれると、ラミアははっとし、口元を押さえる。
「申し訳ございません。陛下が、今更のように魔王なのだと思ってしまいました」
色々とイラつかされて嫌な思いもして、時には死にかけた事すらあったが、それがこの魔王というものなのだと今ならば割り切れた。
「あまり、魔王でいたくはないんだがね」
「はい?」
その素直な感想に、思わず苦笑し呟いた魔王の言葉はラミアに届かず、聞き返しにも応じず。
「では、最近の魔界各地の状況を報告いたします――」
何事もなかったかのように、ラミアは次の報告をする事にした。


 こうして、魔王軍は再び人間世界に侵攻する。
その抵抗は弱く、連戦連勝を重ね、魔王軍が再び大陸中央部まで辿り着くのに、半年と掛からなかった。
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