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1章 彼女たちとの出会い

#10-1.皇女の旅立ち

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 日差しの強い夏の日。
この日、アプリコットの街はただならぬ熱気に包まれていた。

 多くの市民が祝い事の際に着るような礼装か、あるいは伝統的な民族衣装を身に纏っていた。
チョーカーを首に下げたディアンドル姿の乙女達が、所々にリンゴの花を撒いている。
他地方と違い夏にのみ開花するこの地方特有のリンゴは、果実のみならず花までも甘い香りが漂い、街を覆っていく。
国号の示す通りにリンゴの香りに満ちた大帝国の帝都は、華やかで希望に満ちた人々の笑顔で溢れていた。

 民衆の熱気は日が沈んでも尚冷める事無く、即興で起こった祭のような賑わいを見せていた。
「暗くなってもカンテラや松明を持ち出してまで騒いでるわ。無邪気ね」
その城下の様を、どこか他人事のように見ている影が二つ。
エリーシャとトルテであった。
城のバルコニーから見渡せる民の様子を、湯浴み上りながらのんびりと眺めていたのだ。
化粧っ気なく、それでいて艶やかな寝間着の乙女が二人。その様はまるで姉妹のようであった。
「よっぽど嬉しいのですね。皆、私の婚姻が」
「まあ、久しぶりに明るい話だからね。こういう時でも無いとお祭り騒ぎもなかなかできないだろうし」
民衆が賑わうのは、半分は民衆のアイドルであるトルテの嫁ぐ日が迫っている事にある。
民は両手放しで祝った。
残り半分は、人々の内に溜まったフラストレーションのはけ口としての祭を欲していた所にあった。
都合よくこれらが噛み合い、皇女の婚姻を祝う流れで祭のような騒ぎに発展している。
「あーあ、まさか妹分に先を越されるなんてねぇ」
「まあ、ご自身で結婚されるつもりはないなんて仰っておいて」
エリーシャが先に行ってしまう妹分に皮肉を言うと、トルテは以前の事を根に持ってか、今更のような話題を持ち出す。
「そうじゃなくてね。あなたと初めて会った頃の私は、そんな事露ほども思ってなかったのになあって、思い出してね」
「なるほど」
二人は、視線を空にずらし、思い馳せる。

 二人が出会ったのはもう何年も昔の事である。
父である勇者ゼガに連れられたエリーシャは、その日、初めて城というものに入った。
仕事で方々に旅立ってしまう父に留守を任され、村で一人暮らしていた少女にとって、何もかもが新しく、何もかも迫力に満ちていた。
髭の皇帝に気に入られ、城内で遊ぶ事を許されたエリーシャは、好奇心のままに城のあちこちを探索したりして時を過ごした。
そんな中、自分より年下の少年と少女に出会ったのだ。
あまり見ない格好をした偉そうな少年シフォンと、その乳母の娘だというヘーゼル。
何をするにも一緒で、やんちゃなシフォンが何かしようとすると、ヘーゼルはいつもそれについていく。
シフォンが皇子様だなどと知らなかったエリーシャは、あっさりと友達になって混ざって三人で遊んだりしていたが、やがてそれを遠巻きに見ている影に気づく。
放っておいても仲のいい二人から離れて、気の向くまま影を追いかけ始めたのだ。
「みーつけた」
「きゃうっ」
鬼ごっこかかくれんぼか。はたまた影遊びか。
逃げていた影を捕まえて見ると、それは綺麗なドレスを着た、自分より小さな女の子だった。

「あの頃はびっくりしましたわ。まさか追いかけてくるなんて思わなくて。なんで追いかけてくるのか解らなくて、ただただ逃げていました」
「私は楽しんで追いかけてたけどねぇ。でも、まさかあの時の小さな子が、こんな美人さんになるなんてね」
す、と、エリーシャがトルテのチョコレート色の髪を優しくすくと、こそばゆそうに眉を下げる。
「こんなに綺麗な皇女様なら、相手方の王子もさぞかし喜ぶでしょうよ」
「サバラン様はとても優しくて強い方らしいですわ」
エリーシャの手にうっとりとしながら、自分の嫁ぎ先の事を語り始める。
「ラムクーヘンは比較的新しい国ながら、経済的にも、軍事的にも優れているのだとか」
「いい国だとはよく聞くわ。大帝国とは違うでしょうけど、あなたが嫁ぐだけの価値のある国だと思う」
大陸西部の強国・ラムクーヘン王国は、その歴史こそ周辺国と比べ浅いものの、民衆には活気があり、海に隣接しているため貿易が活発だった。
それにより経済力が強く、西部という、魔王軍からも攻められにくい立地条件もあり、善く栄えている。
「私の価値は、私には決められないのですね……」
しかし、そんなものは当の本人には興味の外らしかった。
「それは……」
トルテの心はひどく不安定になっていた。
再会した時もそうであるが、やはり自身の結婚についてナーバスになっている部分が強いらしい。
「解ってはいるのです。私が嫁ぐ事で、幸せになる人が多いのなら、その方がいいはずですから」
「あなたも幸せになれるわ、きっと」
エリーシャには、トルテの悩みが解らなかった。
同情することはできた。でも、理解は出来ない。
だからか、そんな無責任な言葉しか浮かばなかったし、言う事が出来なかった。
「姉様、お辛そうですわ。そんなお顔なさらないで」
慰めるどころか、それに苦労する自分を労わられる始末である。
エリーシャはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「我侭な事を言っているのは解るのです。悩んでも泣いても未来が同じなら、笑った方が得ですものね」
トルテは、笑う道を選んでいた。
儚げな、大人しい少女は、自分に課せられた運命をそれとして受け入れたのだ。
だが、その顔はやはり笑顔ではなく、悲痛という他ない。
「私ね、結婚なんてする気はないけど」
「えっ?」
そんなトルテを見てか、エリーシャは自分の気持ちを素直に伝える事にした。
「今のあなた見ていたら、余計に結婚する気がなくなったわ。だって、なんだか辛そうなんだもの」
辛気臭くて仕方がなかったのだ。何を言っても慰めにしかならない。
しかもその慰めは今一実感の湧かない、何一つ説得力の無い上辺だけのものなのだ。
「姉様、なんで……」
動揺するのはトルテの方だった。唖然としていた。
「だって、全然幸せになれそうにないもの。見てて辛いわ。幸せになれる娘はね、皆幸せそうな顔をするのよ」
エリーシャは、ひどく苛立っていた。
もっと自分が恋多き人生を歩んでいたら、あるいは目上の女性として何かアドバイスの一つも言えたのかもしれない。
もしかしたらトルテの心を晴らして、幸せな旅立ちを迎えられるかもしれない。
それができない、もどかしい、腹が立つ、と。
「私、そんなに辛そうな顔を……?」
「笑って旅立てるような顔はしてなかったわ」
こんな悲壮に満ちた顔で旅立たれては、見送る民衆も不安になってしまう。
迎えた側もさぞや困惑するに違いない、と。
エリーシャはいつものように諭す事にした。なだめる気など一切なく。アドバイスなどせずに。
「トルテ。私は笑ってるあなたの顔、好きだわ。だから笑っていなさい」
「……でも、私――」
納得がいかない。結婚なんてまだしたくない。
知らない所に一人で行きたくない。怖い。逃げたい。助けて欲しい。
揺れる瞳は、ただそれだけで、トルテの色々な気持ちを代弁していた。
口以上に雄弁に、その心に秘められた悲壮が伝わっていた。
「私も、怖いわ。戦うのが怖い。戦争が続くのが怖い。知らない所で知らない人が死ぬのが怖い。いつか自分も死ぬのが解ってて怖い」
だから、恐怖には恐怖で対応することにしたのだ。
多少ずれていても、勢いで無理矢理に。
「姉様も、怖いんですか? だったら、何故逃げたり、嫌がったりしないのですか?」
「逃げたらそれで終わるの? 例えば私以外の誰かが私と同じ事をしていたとして、私は死なずに済むの? 違うじゃない」
人はいつかは死ぬし、きっとどうやってもそれからは逃れられない。
人とは責務によって生きており、義務を果たして認められる。
その鎖から逃れる事は罪であり、その檻から逃れる術を持ち合わせる者はあまりにも少ない。
「私が、例えばあなたの代わりにそのサバラン王子とやらに嫁ぐとするじゃない。そしたらあなたはずっとこのお城にいられるのかしら?」
「それは……ですが、もう少しくらい待ってくれても……私、もっと姉様とお喋りしたいですわ。兄様や父上とだって――」
「私も、心ゆくまで話せないのは残念だと思ってる。でもねトルテ。私や家族とは、一生会えない訳じゃないわ」
エリーシャには、トルテの悲壮は、親しい人と二度と会えないかもしれないという強迫観念からきているように感じられた。
ただの思い込みも、不安が重なれば心に重く響く。
やがて鈍いだけの音は、大人になりきれていない彼女の心を蝕んでいったのだろう。
だからエリーシャは、そんな思い込みを壊してしまおうと思っていたのだ。
「あなたが会いたいと思えば、必ず会えるわ」
「本当ですか……? 私、まだ姉様と会えるのですか? 一人ぼっちではないのですか?」
「可愛い妹だもの。そんな寂しい思いなんてさせないわよ」
流石に毎日会うのは無理でも、半年に一度くらいなら顔を見せることくらいはできるはずだとエリーシャは考える。
勿論、トルテの嫁ぐ先方の態度にもよるのだろうが、可愛い妻の我侭の一つも許せない度量の小さい夫ではないだろうと。
やや楽観的に、見たこともないサバラン王子に託す事にした。
「姉様……あぁ、姉様、私……私、怖かったのです。これでずっと一人なのだと。誰とも会えないのだと……思い込んでしまって……段々、怖くなってしまって……」
「そんな結婚なら私がぶち壊しにするわよ。安心なさい」
堰を切ったように泣き出してしまったトルテを、エリーシャは今度こそ優しくなだめた。



 数日後。皇女タルトを乗せた馬車と、その侍従、侍女、護衛の兵団が、厳かにアプリコットの街を進む。
馬車の窓から見える皇女の面持ちは、やや緊張気味でありながらも、見送る民衆に笑顔で手を振り、リンゴの花香るアプリコットを去っていった。
街を抜け、向かうは嫁ぎ先のラムクーヘン王国。
二度と戻る事の無いであろう街並みを目に焼きつけ、皇女は妻となるべく旅立っていった――
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