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3章 約束

#7-2.彼女との出会い

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「――こんな所にあったか」
そのまま散策していた伯爵であったが、多くが溶けて形骸と化した街の一角に、一箇所だけ、かろうじて壁の残った建物が見えた。
疲労に滲む額にハンカチなどをあて、汗をぬぐうと、伯爵はそこに向け歩く。

 ほどなくして到着し、建物に描かれた紋章から、それは巨大な警鐘塔の麓、デルタ防衛軍の警備小屋の一角である事がわかった。
最も、建物の入り口には十字架のマークも記されており、神々への信仰という、この世界において稀少な宗教を信仰しているらしいこともわかったのだが。
伯爵は何の躊躇いもなくそこに入っていく。
建物などと言ってもそのほとんどは溶解し、壁も中ほどまで残っているに過ぎない。
日差しは強く、建物の内部は良く見えるのだが、これがどうにも、生活感が全くなかった。
「……ここか」
最初からそれが解っていたかのように、伯爵はその中の一室でぴたりと足を止める。
何の変哲もなさそうな食糧貯蔵庫。混乱の末転がり落ちたのか、床にはいたる所で酒瓶が転がっていた。
こつ、こつ、と響きのない靴音のまま貯蔵庫の奥へと歩くと、奥には地下への階段が見えるのだ。
すぐ横には巨大な酒樽が転がっており、恐らくは普段は隠されていたであろう階段を、伯爵は楽しげに笑いながら降りていく。

 そこは、死の香りが広がる世界であった。
上の街などとは比べ物にならないほど凝縮された腐臭。
夏だというのに、そこだけが薄ら寒く、そして冷たい石の世界であった。
『旦那様、ここは……』
「教会組織の作った牢屋だよ。お仕置き部屋とか、そんな感じの」
世界に生まれし新興宗教の、カルト的な一面が垣間見える光景である。
牢には、哀れにも教化の名の下犠牲になった元人間達が転がっていた。
そこかしこに灯がともっているおかげでそれが見えるものの、伯爵視点でもあまり気分のいいものではなく、その証拠に人形は気分悪そうに口元を押さえていた。
ぱっと見た感じでもほとんどの牢屋では、どう見ても一日二日ではそうならないであろう腐臭漂わせる肉ばかりだった為、恐らく魔王襲撃の時点でここは完全に放棄されたのではないかと見られた。
しかし、伯爵はそこで引き返そうとせず、あくまで最奥まで歩き続ける。
狭い上階と比べ、地下の構造はかなり広かったが、結局その最奥に辿り着くまでに生存者は皆無であった。

 そうして、伯爵は見つけたのだ。壁にくくりつけられた『それ』を。
『……ひどい』
人形ですら、それを見てそう呟かずにはいられない有様であった。
それまで見ていたどの死体よりも無残なものが、その牢にはあった。
「ううむ、ここまでむごたらしい事が出来るとは。人間とは、本当に良く解らんな。同胞に、何故こんな真似ができてしまうのか……」
伯爵も唸らずにはいられなかった。魔族ではありえない光景過ぎた。
同胞相手にここまで容赦のない事が出来る外道を、それをやってしまえる人間という生物に、心底気味の悪さを感じていた。

 目は虚ろとなっていて、既に何の機能も果たしていないのが見て取れる。
力なく開いた唇からは見えるはずの歯が一切存在せず、舌もなく、ただ大量の血が、顎にまで垂れ固まっていた。
半裸で美しいはずのその肢体は、死体なのではないかと見紛う程むごたらしく赤くはれ上がり、切り刻まれていた。
鎖で繋がれた左手の指は、二本ほど歪に圧し折られていた。足も含め全ての指の爪が剥がされ、凝固した血で染まっていた。
腹は何度も踏みつけられたのか靴の痕が残り、その形も歪に歪んでいた。
何より他の死体より特異なのは、酷く辱めを受けたらしい痕跡がいたる所に残っていた事である。
ただ拷問にかけただけではこうはならない。
そのむごさには、魔族ですら気分を害するほどに穢れた思想が垣間見えていた。

『生きてるんですか? この人は……』
「死ねてたら幸せだったんだろうな。だが、不幸にも死ねていないようだ」
驚異的な事に、そこまで無残な目にあっても尚、この目の前の『女』は生きているらしかった。
ほとんど理性も残っていなかろうに、ヒュー、ヒュー、と、わずかばかりの息の音を牢屋に響かせる。
「ただ生きてるだけの、いずれ死ぬ身の者だよ。まるで私のようだ」
その様を見て、しかし伯爵は笑っていた。
その顔色は悪くない。決して死を待つだけの身とは思えない健康さがそこにある。
だが、彼の心はそうでもないらしかった。
「初めて理解できた。私とは、こんなにも哀れで、虚しい生き物だったのだな。何故生きているのかも良く解らん」
いつ死体になってもおかしくないその女を見下ろし、伯爵は自嘲気味に溜息を吐く。
『旦那様……?』
「最愛の従者は居なくなり、最早私の手元には人形が一体……こんな私に、何の意味があるというのか」
牢をこじ開け、壁に繋がれた女の前に立つ。
喉を潰され、うめき声すら漏らす事が出来ないらしいのが見える。一層不憫であった。
人としての尊厳を何一つ残さないその有様に、そしてそれでも尚生きようとするその生命に、伯爵は何を思ったのか。

「そんなに生き続けたいなら、生き続けるがいい。その為の力を、術を、お前にくれてやろう」

 くれてやる事にしたのだ。生きる為の力を。新たなる人生を。
こんなのはただのきまぐれである。善意だとか同情だとか人間への怒りだとか、そんな感情は一切ない。
ただなんとなく、その時彼がやる気をなくしていたからそうなっただけで、そうならなかったかもしれなかったのだ。
彼女はとても運が良く、そしてどうしようもなく運が悪かった。それだけである。
そうして、人類の英雄エルフィリースは死に、人類にとって最悪なエルリルフィルスという名の魔族が生まれてしまった。
引き換えに、伯爵という名の魔界随一の実力者は、その力を大きく落とし、ただの変人へと化してしまったのだが。

 伯爵自身の力と引き換えに再起した女魔族エルリルフィルスは、しかし人間への激しい憎悪だけはあったものの、自身の記憶のほとんどを失った状態であった。
それが人間時代の拷問の末なのか、あるいは人の身で魔族化してしまった故なのかは不明ながら、憎悪のまま、強大な力を持ったエルリルフィルスは、伯爵の後見もあって、瞬く間に魔界での地位を築き、その美しさ、強さから魔王アルドワイアルディに見初められる事となる。
彼女が魔王マジック・マスターとして世界に名を轟かせるのは、そのわずか百年ほど後の話である。


 そんな遠い記憶は、もう思い出したはずの事なのだが、と、魔王は思う。
夢現ながら、その流れに違和感を持ったのは、いつの事だったろうか。
そこに映るエルリルフィルスの姿は、紛う事無き見慣れた先代の姿である。
六翼を持った女魔族。夜魔を思わせる美しくも妖しい面持ち。
チョコレート色の、身体よりも長いストレートの髪。
夢の中に現れた彼女はそんな姿であり、翼などの魔族的記号を除けば、少し前に人間の街で見た賢者の像と瓜二つである。
なるほど、エルゼが母親を感じてしまうのも無理はない。
他ならぬ本人が魔族化する前の像なのだから。

 それが当たり前であると考えるのは事実だからのはずなのに、だというのに魔王はその違和感がぬぐえない。
認識を操作する古代魔法であるといわれる『クラムバウト』。
その使用者はもれなく死亡し、その代償に何かを変えるのだという。
強い違和感はそこから生まれた。
(一体何を変えたというのか?)
彼女の娘であるはずのカルバーンが他の娘達に危害を加えないためではないか、と当初ラミアの発想で納得しかけたが、しかしそれは難しいのではないか。
そもそもカルバーンは母親恋しさに八つ当たりする事はあっても、殺してまでその怒りを他者にぶちまけるような加減の解らない子ではなかったように感じたのだ。
一つだけ、これはどうしようもなく終わりのない思考へと至ってしまう恐れがあるながらも、魔王は一つの可能性を考えてしまった。

 もし、彼女の死や彼女の姿に始まる記憶のそれら全てが、クラムバウトによってすりかえられた認識だったとしたなら、どうだろう、と。
実は生きていて、どこかで今の魔王の様を腹を抱えて笑いながら見ていてもおかしくないのではないか。
そもそもエルリルフィルスなどこの世界には存在していなかったのではないか、誰か全く別の魔王が居たのではないか。
いや、それすらもただの考えすぎかもしれない、と、終わりのない思考は始まってしまう。
ただ、見落としていた事ながら、エルゼが彼女の姿を記憶しているという事実は、全くあてにならない、すりかえられたかもしれない記憶の一片に過ぎないものだという事である。
もし、この世界の全ての民が、人魔関係なしに彼女の姿を正確に認識できていなかったとしたら。
かつて見た賢者の像は、果たして本来はどのような姿をしていたというのか。
モヤのかかった今では計り知れないながらも、やはり、本来の彼女の姿を模したモノとなっていたのだろうか。
思考の波は、夢へと落ちかけた魔王にノイズを走らせた。
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