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6章 時に囚われた皇女

#2-3.凶刃

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 中央諸国、大帝国帝都アプリコット。
その南の外れ、リリリア通りと呼ばれる一角に、その工房はあった。
パン貴族セーラが、新作パンを考案・作成する際に用いる工房。
一見巨大な館に見えるそれは、煙突からもくもくとした白い煙を上げ、甘い香りを付近に漂わせている。
既に明け方にも近い時間なのだが、この工房から漏れ出る光が周囲を薄明るく照らしていた。

「ふぅ、こんなところかな……」
白い三角巾に三つ編み。三角巾と同じ白のエプロン、そして厚手のグローブ。
工房の主セーラは、一人、焼きあがった新作の様子を見て、満足げに笑っていた。
オーブンから取り出したパンは、まるでティアラのような形状で飴色に光っていた。それが五つほど。
「中身はどうかな……」
まだほくほくと湯気を上げていたそれを、落とさないように慎重にトレイに入れ、一つをフォークで割る。
ぱり、という小気味良い音を立て割れると、中から金色に光る蜜がこぼれる。
「うん、餡の粘り気、表面のぱりぱり感、ぜんぶ考えた通りだわ」
嬉しげに微笑みながら、セーラはその割れた新作を手に取り、おもむろにかじる。
「すごい。私すごいわ。こんなにぱりぱりなのに、崩れてこぼれたりしないんだもん」
誰が答えるでもなく一人ごちる。こういう時、セーラは割と独り言が多い娘であった。
「んぅ~、餡も絶妙な甘さ!! これはいける。私の代表作として自信を持って出せる!!」
その味、出来に、眼をぎゅっとつぶりながらぐっと拳を握る。年季の入った勝利のポーズであった。
眼の下にはクマ。
ややくたびれた様子ながら、ようやく納得のいく品を作り出せたセーラは、清々しい心持ちで工房を見渡す。
テーブルの上には、今までのパン・デザートの知識やレシピをまとめたノート。
作りながら気づいた事を書き込んだりしていき、今や二十冊目となっていたが、これももうすぐ終わりとなる。次は二十一冊目。
二十冊目の最後を飾るのがヘーゼルからの依頼の品というのは、セーラ的にとても誇らしく、何より嬉しい事であった。
「はあ、私、がんばったなあ。チョココロネが売れた時はどうしたものか困ったものだけど、そんな私がまさか貴族様とはねえ」
随分慣れた物だわ、と、小さく微笑む。

 今やセーラはアプリコットのみならず、世界全域で名の知れたパン・デザート職人の一人となっていた。
宮廷御用達の職人として要所要所で活躍したのもあってか、その知名度はどこまでも膨れ上がり、『パン貴族セーラの名を知らぬ職人はもぐり』とまで言われるほどに、職人たちの間では伝説の存在となっていた。
本人はそこまですごい事をしているつもりもないのだが、アプリコットのパン職人達を集めて新商品の研究会を主催したり、宮廷のシェフらとの会話で新たな分野開拓に勤しんだりと、その道にこの人ありと言われる程にはいろいろな実績を積んでいた。
最早、セーラはただのパン好きな貴族ではない。
国の内外に数多くの弟子を持ち、輝かしい実績を挙げた、歴戦のパンマイスターであった。

 実は、テーブルの上にはもう一つ、小さなメモ紙が置かれていた。
可愛らしい丸文字で書かれた『男の子の時用』という文字。
その下には細かに小麦粉の分量などが記されており、一目で何かのレシピである事が窺えた。
「うん、とりあえずはこれでいいかな。一休みしたら……エリーシャさんが来る前に『男の子用』を作ろう」
うーん、と背伸びしながら、セーラは眠い眼をこすり、後片付けを始める。
テーブルの上に置かれていたメモ紙を大切そうに手に取り、エプロンのポケットにしまいこむ。
「お風呂入ってゆっくり寝よう……ふふっ、いい夢見られそう……」
小さくあくびなどしながら、工房の奥にある居住スペースに移動しようとした、その時であった。

 こんこんこん、という、ドアをノックする音が、工房に響く。
「ひゃっ」
突然の事に驚いてしまうセーラ。
明け方とはいえまだ外は暗い。人が来るような時間でもないと思った、のだが。
「あの、どなた……?」
ドアを開ける前に確認を、と。セーラは声をかける。
『夜分失礼致します。パン貴族のセーラ様。皇太后エリーシャ様より、急ぎのお手紙の返事をお持ちいたしました』
ドアの向こうから聞こえるのは、意外にも若い女性の声だった。
エリーシャからの手紙の返答、と聞いて、セーラはぽん、と手を叩き、納得する。
(もう届いたんだ。さすがエリーシャさん、返事が早いなあ)

 実は昼間、エリーシャ宛てに手紙を出したのだ。
内容は簡単なもので、『もうすぐお話していた新作が完成すると思うので、明日にでもいかがでしょうか』という短いもの。
顔なじみの門衛経由でエリーシャに渡してもらったのだが、その返事が来たのだろうとセーラは考えた。
そう考えると、この若い声の主はお城に仕える侍女のものなのではないか。
何にしても、夏場とはいえこんな時間に外に立たせたままなのも可哀想だからと、セーラは急いでドアの鍵を開けた。

「ごめんなさいね、すぐ開けます」
ぎぃ、と重い音を立て開くドア。
そこに立っていたのは……衛兵の格好をした集団であった。

「えっ、あれ――」
――なんで衛兵の人が?
そう思った途端、セーラは強い衝撃を感じた。
ぐさり、というか、ざくり、というか。肉の切れるような鈍い音、というべきか。
そんな音を聞きながら、やがて視界がぶれていくのを感じる。
「あっ――」
そのまま、力を失ってどさりと崩れ落ちるのを感じたセーラは、ようやく自分に何が起きたのか理解した。
理解したくなかったが、理解してしまった。

「目標沈黙」
「よろしい。物盗りの仕業に見せかけなさい」
「はっ」
いかつい声が聞こえた。知らない声だった。
若い女の声が聞こえた。少し聞きなれたような声だと思いながら、セーラは朦朧としていく意識を必死に保ち、耳を澄ましていた。
やがて、自分を踏み越え、工房をどたばたと何かが倒れるような音がしたり、何かが壊されるような音がしたが、セーラは身動きが取れなかった。
「こんなものでいいか。いくわよ」
「はっ」
少しして、一団は去っていく。
後には、夏にしては涼しすぎる夜の風。
かすかに息を繋げ倒れるセーラひとりが残された。
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