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7章 女王

#5-3.悪魔は聖者に微笑みかける

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「ホーリーフレイム!!」
「きゃっ!」
戦場は、血と叫びと悲鳴と雄たけびが支配していた。
「これでっ!!」
正面に立つ紅服の聖女に、サーベルで斬り付ける人形。
「女神よ、我に加護をっ!!」
しかし、その剣撃は聖女の祈りによって生じた不可視の壁に阻まれてしまう。
「くぅっ」
「滅びなさい!! 魔王の使徒!!」
弾かれた重い一撃は、その分だけ強い衝撃となって人形のバランスを大きく崩させる。
その隙を突いた聖女が、モーニングスターを振りかぶり、人形に向け鉄球を投げつける。
「あっ――」
ガゴン、と言う音が響き、人形はそのまま頭が吹き飛んでしまった。
「燃え尽きろ!!」
別の聖人が人形の身体に炎を放つ。程なく人形は燃え盛る炎に包まれ、動かなくなった。

「聖なる女神の愛を、この世界に広める為にっ」
「女神の愛にて、全てを浄化するため!!」
「奇跡よ、我らの敵を照らしたまえ!!」
敵の後方では、三人組の聖女が特大の奇跡を発動させようとしていた。
「むう、いかん、止めねばっ!!」
それに気付き、駆けようとした魔王。しかし、混戦の中自在に動けず。

『聖法典ソーア・レガシー!!』

『邪法典ネクロ・ノミコン――』

 三人の聖女の祈りによつて発動された聖なる光は、しかし、同時に発動された邪なる闇によって相殺されてしまう。
「なっ――馬鹿なっ!?」
驚き戸惑う聖女らの前に、異形の巨大な魔族が一人。
「おおっ、あれは――」
ずしり、と重圧感満載の巨体がそこにあった。
「悪魔王ではないか」
ヤギ頭の大悪魔。悪魔王の軍勢が、いつの間にやらそこに参じていた。
「陛下。遅まきながら、我らもお手伝いいたしたく存じます」
別に命じても居なかったが、魔術や呪術に通じた悪魔王の参戦は、魔王的にとてもありがたかった。
「うむ。頼む。どうやらこの人間の軍勢は、普通の奴らと違って色々面倒な手を使ってくるようだ」
「はい。彼奴らの扱う奇跡は非常に厄介です。正面から戦ったのでは、我が軍も甚大な被害を受けてしまいます」

 対南部の軍勢に吸血族の軍勢を使っていたのは、これが最も大きかった。
聖者の軍勢は非常に頑強で、精神的にも満たされている為に生半可な死兵よりも恐ろしかった。
攻撃力一辺倒な装備なのに、それを補って余りある奇跡の存在が、その厄介さに拍車を掛けている。
何せ『なんでもあり』なのだ。多少の負傷は即座に癒し、死者すらも条件次第では蘇らせたりする。
一兵一兵が治癒や除霊のエキスパートであり、時として強力な魔滅の奇跡をも発動させる。
しかも死を厭わない。どれだけ絶望的な状況でも恐慌状態にも陥らない。
全てを投げ出してでも行われる女神に対しての信仰。信仰とは最強の麻薬であった。

「私の人形たちにも被害が増え始めている。どうにも戦いにくい」
敵横面からの奇襲を仕掛け、最初こそ優勢に戦っていたが、敵はほとんど動じもせず対処してきたのだ。
おかげで人形たちも次々に負傷し、目も当てられない事になっている。
一撃必殺のドラゴンスレイヤーも、流石に死者を蘇生されてはキリが無かった。
純粋に二千という数が、五万の敵相手に対しては若干少なかったというのも大きいのだが。
「後はお任せを。こと対聖者戦ならば、我々悪魔族の本領が発揮できます」
「よく解らんが自信があるらしいな……任せた」
正直、自分の目的の為とはいえ、コレクションの人形たちをこれ以上傷つけられるのは辛かった。
怒りに震え先ほどまで暴れまわっていたが、我に返るとさっさと帰って修理してあげたいと思ってしまうのだ。
だから、自信ありげな悪魔王に後を押し付け、魔王は撤退する事にした。
無敵の人形兵団の、初の敗北とも言える屈辱ではあったが、魔王は名より実を取るのだ。結果さえ良ければそれでいい。

 そうして早々に撤退した魔王と人形兵団。
敵軍と正面からぶつかっていた南部・中央連合軍四万五千と、新たに増援として現れた悪魔王直轄軍五百二十。
混戦の中とは言え、悪魔王の軍勢はあまりに数が少なく、そして、敵に囲まれた現状、とても不利であった。
「どうするおつもりですかな? 我らが王よ」
傍に控えるは側近の猫頭。魔界にその人ありと言われた大悪魔の一人、エビルプリエステスである。
「考えるまでもない。最早、勝敗は決した」
悪魔王の軍勢は、誰一人動かない。既に決まった戦いであった。
やがて、聖者らは気付くのだ。
自分たちの世界が、真に暗くなっていく事に。
空は、真黒の月が支配していた。

 やがて、真黒の月から降り注いだ闇の光は、聖者の身体を、真紅の修道服を、その人間らしい顔立ちを、全てを黒に染め上げていく。
「ひっ、な、何これ――」
「う、ううっ、うぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」
「やめっ、いやっ、汚さないでっ、私の信仰がっ!! レコンキスタ・ドールの象徴がっ!?」
「溶ける……体が、私の身体が、私のモノじゃなくなっていくの……?」

 聖女らの聖なる光を相殺した闇の光は、やがて空の全てを飲み込み、夜に君臨した。
女神の愛の光を世界に照らし出す『ソーア・レガシー』が人間にとっての『奇跡』の呼び子であるならば、これは真逆に位置するモノ。
人々の心の最奥。心の闇。どろどろに蕩け切った、止め処なく溢れる人の欲望。
『ネクロ・ノミコン』とは、全てを飲み込んでいくその欲望によって展開された『呪い』であった。

 魔族は、欲望をこそ信奉する。奇跡になど縋らない。
自分の心の内に無限に湧き出る飽くなき欲望、これそのものを力の源とする。
欲望とは、原初より存在する生物の本能。欲求。とても自然なものである。
女神の愛などと言う曖昧な、存在すら不確かなものに縋る人間は、とても不自然であり、か弱い。
いかに聖者らが頑強に抵抗し、宗教によって武装しようとも、彼らが生物である限り、その欲望から完全に逸脱するのは難しい。
ネクロ・ノミコンの闇の光は、魔族に心地よい癒しを、人間に絶え間ない欲望を思い出させる。
原初の昔、人がまだ人でなく、ただ生物であった世界から存在していた欲望を思い起こさせるその光は、聖者たちを聖者たらしめているもの全てを奪い取る凶悪なモノであった。

「……」
やがて。彼らは気付くのだ。信仰の愚かさに。自分たちのしている事の虚しさに。
見た事もない誰かを信じる事の間抜けさに。女神に頼る事の無責任さに。
全員が、武器を捨てた。彼らの眼は虚ろで、どこかやるせない様な、気だるげな表情であった。
「わかってくれたようだな。女神等、この世界には居ない。我らは、我らの信じるモノ。我らの求めるモノ――欲望が為、生きているのだ、と」
悪魔王の巨体が動く。身振りが合わさり、悪魔王の声は静寂の戦場に響いた。
「同胞らよ、受け入れようではないか。我らと共に来い。我らが配下に納まれ。人間などという括りに収まるな。欲望のまま生きよ。それは、我ら生物にとって、とても心地よい。とても美しいモノなのだ」
「……良いのですか?」
戸惑ったように、聖女の一人が呟く。
「良いのだ。楽しく生きようではないか。沢山好きなように生きよう。誰が死のうが知った事ではない。皆が楽しければそれでいい。幸せになろう。皆で幸せになろうじゃないか」
エビルプリエステスが優しく諭すように笑った。
それは、元が猫顔の所為か、どこか愛嬌を感じさせるもので、人間達には安堵すら思い出させていた。
「さあ、いこうではないか。戦い等くだらない。皆で楽しくやろう。今宵は宴だ。思うままに食べ思うままに飲み、沢山禁を犯そう。楽しい欲望祭サバトをしようじゃないか!!」
「あ……」
「楽しく……幸せに……?」
「戦わなくて良いの……?」
先ほどまで必死になって戦っていた聖女らが、泥に熔け真っ黒な顔を互いに見やりながら、それでも、そろそろと悪魔王の下へと歩みだす。
「まって!! こんなのおかしいわ!! こんなの、こんなの悪魔の――」
一人、それでも頑強に抵抗する女が居た。泥まみれになっても、それでも尚必死に抗うモノが居た。
真なる信仰がそこにあった。何者にも屈しない正義が、確かにそこにあった。
「うるさい」
だから、悪魔王は彼女を殺した。
世迷言はいらない。この場に必要なのは、快楽であり、欲望であり、生物の素直な感性なのだ。
「さあ皆、帰ろう。私達の世界へ。私達が居るべき世界はここじゃない。私達は、もっと楽しい事が出来る。行こう。行くのだ。さあ」
急かすように、しかしゆったりとした口調で紡がれるその言葉はどこか優しく、人が一人死んだことなど、最早彼女たちには何も感じさせない瑣末なものであった。
自分がよければそれで良い。楽しく居られる。幸せになれる。
この短時間に、それがどれだけ彼女たちの心を満たしていったのか。
戦場に背を向け歩き出した悪魔王達に追従するように、聖女らは、レコンキスタ・ドール達は歩き出す。
彼らは既に聖人ではなかった。真黒の闇に染まったその身体は、既に魔族のモノであり。
こうしてまた、悪魔に唆され悪魔堕ちしてしまった元人間が、大量に生まれたのだった。


 悪魔王の活躍と吸血王による分隊の派遣により、リダ周辺の地域は再び魔王軍に制圧された。
一夜にして形勢を覆された南部諸国連合は、レコンキスタ・ドールを始め将兵の大半を失い、撤退を余儀なくされた。
精鋭部隊の大半を失ったという事実は士気にも大いに影響を与え、教会組織の間にも動揺が広まっていく。
限定的な総力戦は成功を収めた形となり、魔王軍としては久方ぶりの大勝となった。
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