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7章 女王

#7-1.アリスとヘーゼル

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 エリーシャよりの手紙が届いてから数日。
手紙により真実を知ったシフォンは、ガトー王キャロブを危険の恐れのあるアプリコットから遠ざけ、入れ替わりに手紙を届けに来たアリスという侍女を正式に召抱えた。
エリーシャからの推挙という事でさほど吟味もされずに採用とされたアリスであったが、エリーゼの一件もあり、一部臣下が独断の元、秘密裏にアリスの身辺を探ったりもした。
幸いにして国内、それもアプリコット内だけでもアリスが異国の貴族らしき中年紳士と歩いていた事、確かにその男がエリーシャと親しげな様子で卓を囲んでいたという目撃証言が早々の内に確認された為、元々エリーシャゆかりの人物であると解り、疑惑は晴れ、臣下らも胸をなでおろしたのだが。

「アリスさん、そちらの糸を取っていただけるかしら? 黒の糸なのですが」
「あ、はい。ただいま」
シフォンとヘーゼルの私室にて。
ベッドに腰掛け、ヘーゼルは夫の外套の手直しをしていた。
そして『知り合いであるエリーシャの伝手で新たに採用された侍女』という扱いで皇室の護衛を任されたアリスが、ヘーゼルに誘われるまま、この部屋でのんびりとした時間を過ごしていた。
「ありがとう」
言われるまま、アリスがテーブルの上に乗った黒のボビンを手渡すと、ヘーゼルはおっとりと微笑み、また針仕事に集中する。
素早く縫い糸を通し、ちくちくと袖口のほつれを直していく。慣れた様子であった。
「ヘーゼル様は、縫い物がお上手なのですね。つい見惚れてしまいますわ」
アリスはというと、その手際のよさに感心しつつも、針先の動きが気になって仕方ない様子で、つい目で追ってしまう。人形の性だった。
「私も子供の頃からシフォン様の侍女でしたから。シフォン様は昔は腕白な方だったから、毎日私が手直しをしていたのですよ」
そんな侍女の様子がおかしいのか、ふふ、と笑いながら、ヘーゼルは幼少のシフォンを思い出すように語る。
「子供の頃から縫い物を? なるほど、どうりで手先の動きが慣れていると……」
「アリスさんは針仕事は?」
「一応人並にはできるとは思うのですが、とてもヘーゼル様には叶いそうにありません」
照れくさそうに頭を掻き掻き。そんなアリスの眼を見つめながら、ヘーゼルは優しく微笑みかける。
「人並にできれば十分ですわ。大切な人の衣服をこうやって直してあげられる。それが出来る事が大切なんだもの」
きゅ、と、手に持った外套を握り締める。これひとつが、大切なものであるのだと教えるように。

「でも、皇族の方の衣服も、悪くなったらすぐに新しいものが用意される訳じゃなかったのですね。私、生まれが庶民なもので、てっきりほつれたりする度に新しいのが出てくるものと……」
「ふふ、意外でしたか?」
「ええ、かなり」
アリス視点で見れば、世界有数の大国の皇室が、しかも皇后がこのように皇帝の衣服の手入れをする光景は予想だにしていなかったというか、驚きしかなかった。
「皇室とはいえ、無駄遣いは極力抑えたいのです。シフォン様は余り気になさらないけれど、こういった細やかな支出を抑える事によって、その分だけ他所に回せる予算が増えて、それがやがて、民衆に課せられる税の軽減や、生活そのものの向上につながるようになるのです」
大切な事なのですよ、と、微笑みながらも真面目な様子でアリスの瞳を見つめる。
「皇族の着る衣服。これ一つ取っても、市民一家族が三月は生活できるだけの高価な品なのだと聞きます。私も貴族の出ですから、その辺りの金銭感覚はあまり自信がありませんが……」
「ヘーゼル様は、民衆の視点でものごとを考えてらっしゃるのですね」
「国は民によって興るものですから。皇室は彼らの代表者であり、そして、彼らの『理想』であり続けなければなりません。ですが、その『理想』が彼らに必要以上の負担をもたらしてはならないのです」
それはあくまでヘーゼルの理想のようなものなのだろうが、人間世界の政治をよく知らないアリスにも、ヘーゼルの言葉には頷ける物が多いのもまた事実であった。

 民を慮る事ができる王族や長族というのは、実はそんなに珍しくない。
どこの国の王族だって、よほど無能でなければ民の生活を一定量配慮する。
それは何故か。そうする事によって国家が繁栄するからだ。
民の生活レベルの向上は、国の経済レベルの成長率に直結する。
王ならば責務とも言うべきほどに気にするべき事であり、多くの場合王族はこれの向上に腐心している。

 だが、その為に自分達の生活のレベルを落とすだとか、自尊心をすり減らしてまでどうこうしようという者はそうそういない。
世界有数のロイヤルファミリーがそれを率先してやっているというのは、アリス的には驚きでもあり、そして、強い関心と、一つの疑問を感じさせていた。

「ヘーゼル様は、ご自身の考えでそういった工夫をなさっているのですか……?」

 ヘーゼルが后となった経緯を知っているアリスとしては、この辺り多少の違和感というか、無理があるように感じたのだ。
今でこそ后であるが、先ほどの話を聞く限り、ヘーゼルが幼少の頃からそれは実行に移されていたのだ。
少なくともシフォンの衣服はヘーゼルの手によって幾度と無く直されていた訳で、当事侍女に過ぎなかったヘーゼルが皇族に対しそのような権限を与えられていたのかと考えると、どうにも理屈が合わない気がしてしまっていた。

 だが、ヘーゼルは首を小さく横に振り、「いいえ」と、答える。
「偉そうに語っておいてなんですが、これは今は亡き先代皇太后様……シフォン様やトルテの母上様の受け売りなのです」
「先代皇帝陛下の、最初のお后様が……?」
「ええ。元々病弱な方で、トルテを産んで少しして亡くなられたので、ほとんど話すことも叶いませんでしたが……まだ幼かった私に、一度だけお話を聞かせてくださった事があったのです」
その時を思い馳せるように空を見つめ、やがて目を瞑る。
「あの時の手が……私の髪を撫でてくれたあの手が、とても温かくて――私は、憧れてしまったのです。皇帝陛下を陰ながら支えるお后様に。いつか自分も、皇帝となったシフォン様を支えたい。支えられるようになりたい、と」
目を開いたヘーゼルは、どこか瞳が潤んでいたが、そのままアリスを見つめる。
「こうして衣服の手直しをするのも、母上様がそのようになさっていたのを真似てのことですが。そのような事もあって、城内でそれを咎められた事は一度もありませんでしたのよ」
アリスの気になっていた部分は、ヘーゼルにはしっかりと伝わっていたらしかった。
アリスは少しだけ居心地が悪くなり、眼を逸らしてしまう。
ヘーゼルは微笑んだままであったが、場はしばし沈黙が支配してしまう。

「アリスさん。エリーシャ様とトルテは、お元気でいらして?」
空気を切り崩したのはヘーゼルであった。他愛もない雑談がまた始まる。
「ええ、お二人とも、お元気でらっしゃいましたわ。エリーシャ様は新しく手に入れた人形の素材に夢中になっていたようですが」

 アリスは、真実を語れない。
シフォンからそれを口止めされているからだ。
今は身重なヘーゼルのこと。
些細なショックも与えたくないという配慮の元、アリスに真実を語ることを止めていたのだった。
なので、アリスは嘘を混ぜる。いないはずのトルテを、あたかもそこにいたように説明する。

「トルテ様は、環境の違いにやや不慣れな様子でした。エリーシャ様のお傍を離れたがらないようで」
「まあ。やはりそうなのですね。エリーシャ様もトルテも、相変わらずと言いますか……でも、とにもかくにも、安全な場所にいらしたようで何より」
二人は事情があってラムクーヘンではなくサフランに留まり、そこで羽を伸ばしているのだとシフォンから説明を受けていたヘーゼルは、ひとまずの二人の無事に安堵していた様子だった。
「ふふっ、それにしても、エリーシャ様は本当、お人形が好きですのね」
「はい。あの方の人形知識の豊富さ。その造詣の深さ。脱帽してしまいますわ」
「私もお人形は好きだけれど、あの方ほど入れ込むこともありませんでしたわ。何か一つに夢中になれるのって、素晴らしい事だとは思いますが」
やや困ったような様子で眉を下げるヘーゼル。
同じ女であっても、エリーシャの行き過ぎた人形趣味にはややついていけない感があるらしかった。
「ですが、歴戦の勇者様が、可愛らしいお人形に囲まれているのを無上の喜びと感じるのは、それはそれで可愛らしいと言いますか……目上の方に失礼かもしれませんが、愛嬌のある部分だと思うのです」
「私もそう思います。ただ戦ごとにしか興味がないではただの戦争狂ですから。そういったお可愛らしい部分があるからこそ、安堵できる面も持つ魅力的な方なのだと感じる訳ですし」
度の過ぎた趣味と言うのは、多くの場合周囲の偏見と無理解を生みやすいのだが、同時にこういった正の側面も持ち合わせているのだ。

「あの方には幸せになっていただきたいですわ。私、いつもそう願ってますの。あの方は、もっと幸せになってもいいのです。ご本人も、そう願っていただけたらよろしいのに」
どこか悲しげに声のトーンを下げ、呟くように語るヘーゼル。
アリスは口元を引き締め、真面目な様子でその言葉を受ける。
「エリーシャ様は、ご自身では幸せを願わないのですか?」
「あの方は、いつものほかの人ばかりで。ご自身の幸福や平穏を願おうとしないのです。見ていて不安になってしまいますわ。勝手なことですが、もう少しご自身の気持ちに素直になっていただけたらと、シフォン様と二人、いつも話していたのです」
これは内緒の事なのですが、と、口元に指を立てる。
「失った物が大きいと、人は希望を抱けなくなってしまうのだと聞きます。あの方は、ずっと失い続けてばかりの人生で……もう、ご自身に希望を抱けないのかも。私は、時折そう思う事がありますの」
「見た感じは普通のエリーシャさんですけど、近しい方の視点では、そのように見えているのですね」
確かに落ち込んでいた時期もあったらしいが、アリスの知る限りエリーシャはそのような絶望に満ちた、生気のない眼をしていなかった。
だから「そこまで絶望して生きてた訳じゃないんじゃないかしら」と思っていたのだが、ヘーゼル視点ではそうでもないらしい。
アリスの知らないエリーシャの心の奥底には、そんな闇が潜んでいるのかもしれないのだと、アリスは今更になって気付く。
「もしかしたら、これはただのお節介。私達の勘違いなのかもしれませんが。なにせ、人の心は読みきれないものがあります。私がどう感じどのように思おうと、それが真実と近しいとは限らないのですから」

 人の心には読みきれない深遠さがある。
表面上どのような顔をしていても、その心の最深部がどのような想いを抱いているのか、それを本人以外が図り知ることは容易ではないに違いなかった。
ともすれば、本人すら自覚しているかも怪しいものなのだ。
アリス視点でもヘーゼル視点でも、それはあくまで外部からの想像に過ぎない。
何も解からないのだ。予想を立てながら、そんな風かもしれないと考える位しか出来ない。
それが一つの真実であった。

「アリスさん。人の幸せを願う事は、エゴなのだと思いますか?」
ふと、ヘーゼルからの問いが向けられる。
アリスは顎に指先を当て、少し考える素振りを見せながら、すぐに答えを紡ぐ。
「素晴らしいエゴなのだと思いますわ。エリーシャ様は、きっとわがままなのです」
多くの人から幸せを願われているのに、自分からその道を往こうとしないのは、ある種のわがままだろう、と、アリスは考える。
「ですが、同時に、やはりエリーシャ様の気持ちを考えずにそう思い、押し付けてしまうのも、やはりヘーゼル様のわがままなのではないかと思いますわ」
それはエゴの押し付けに過ぎない。エリーシャが本音で望んでいないなら、それは願うべきではないのだ。
アリスは、双方のわがままを断じた。ばっさりと。
「アリスさんでしたら、どのように考えますか?」
「私は、エリーシャ様のやりたいようにやらせて、そのままほうっておくのが一番だと思います。心配も多いけれど、あの方はなんだかんだで今まで生きていますから。安心して放っておけるのではないでしょうか?」
気持ちを押し付けるよりは、と、アリスは考える。
信じて、やりたいようにやらせてやるのが本人にとっても周りにとっても一番なんじゃないかと、そう思ったのだ。
「私は、何度かこの国にきた事もありますし、お話に聞く限り、皇室のかたがた全員がエリーシャ様を大切に思っているのも解るのですが。いささか過保護すぎるように感じる事があります」
その過保護が、エリーシャを縛り付けていたのではないか。
自由を愛するエリーシャにとって、これは辛いものだったのではないかと。
「過保護、ですか……?」
「ええ。過保護ですわ。いつまでもその身を案じてしまうのは、まるで手の掛かる子供を見ているかのようです。もちろんそれは愛によるものなのだと思いはしますが、一人前のレディー相手にする事ではありませんわ」

 愛の奴隷にされ、エリーシャは自由を失っていた。
大切な人達を傷つけたくないからと、その束縛から逃れる事もできただろうに彼女はそれをしなかったのだ。
それが彼女の選んだ道とはいえ、その優しい檻はエリーシャ自身が羽ばたく事をよしとせず、空を飛ぶ事を許さない。

「難しいのですね、愛とは。人の心を温かくする事もできるのに、人の心をいつまでも束縛してしまう……」
アリスの言葉に思うところがあったのか、ヘーゼルは静かに眼を閉じ、かみ締めるように呟く。
「同じ言葉であっても、取り方一つ、状況一つで意味が全然違ってしまうことだってありますわ。愛とはきっと、これという定型を持たないものなのです」
変わりまくりです、と、アリスは静かに微笑み、おもむろにヘーゼルのかけている椅子の後ろ側へと回る。
「さっきまでヘーゼル様から見えていた私は、今はもう、見えなくなってしまいました。でも、私は確かにヘーゼル様と同じ距離に居ますし、ヘーゼル様にも私の言葉は届きますわ。立ち位置が一つ違うだけで、ヘーゼル様からは見えなくなっていますが」
これがつまり、愛というものなんじゃないかと、アリスは考えるのだ。
「貴方は、とても聡明な方なのですね」
驚いた様子で後ろを振り向くヘーゼルに、アリスはにこりと愛らしく微笑み、再びヘーゼルの正面へと戻る。
「世界を旅していましたから。この眼で色んな場所を見てきましたし、色んな人を見てきました。価値観も全く違うのですから、人なんて、『人』というだけで何も同じところなんてないのでは、と思ってしまいます」
他の人形達にはない、アリス特有のこの優れた人間性は、主と共に長らくの間過ごした日々、そして世界を見てきたという経験が大きく影響している。
人の形をした魂の入れ物に過ぎなかった彼女は、人を見、人と話し、様々な人を感覚的に経験する事によって、人間らしい感性と思考能力、ファジーな感覚が備わっていた。
「トルテの侍女の方も、変わった所があるけれどとても賢い方でしたし。世界を旅してきた方というのは、やはり人にない知性が備わる、という事なのでしょうか」
「どうなんでしょう。私には良く解りませんわ。ただ、ヘーゼル様にお褒めいただける事は、とても光栄だと思っています」
話しながらにぺこり、と頭を下げる。その仕草にヘーゼルも笑ってしまう。
「貴方はとても楽しい方だわ。これからもよろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ」
どうやら気に入ってもらえたらしく、アリスは安堵する。

 実は、これがヘーゼルとの初対面だったのだ。
話したことなど今まで一度も無く、ヘーゼルの人もなりも知らず突然呼び出されての事だったので、アリスは大層緊張していたのだが。
幸いというか、ヘーゼルはとても穏やかで温かみのある気性な為、アリスとも気が合うらしかった。
呼び出された理由はアリスにはよく解らないが、ともかく認められたというのは大きかった。
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