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7章 女王

#11-1.会談前日1

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 大帝国領内北部・ランド=クシャ。
村はずれにある廃教会、薄暗い聖堂の中に立つ女神像の前で、一人の侍女風の女が表情も無く立っていた。
足元には干からびたミイラのようなモノが転がっており、聖堂は常軌を逸した異臭を放っていた。
「やれやれ。役目を終えた者は潔くないと、ね……」
特に感傷も無く、衣服の汚れを確認する。何の問題も無く綺麗であった。
最後の一人が使おうとした『石』を拾い、口元を歪める。

「それにしても……皇女誘拐事件からもう大分経つというのに、何も起こらない――」
気を取り直し、彼女――レーズンは顔を上げ、女神像を見つめる。
小憎たらしいあの女神と違い、この像の女神はやたら慈愛のこもった優しそうな微笑を湛えていて、不思議とそこまでイラつくことはなく。
ただ、レーズンの瞳はやや曇っていて、そんな女神像の微笑みですら濁らせて見せる。
「おかしいわ。私はいつもどおりだったはず。何も違わなかったはずなのに、何故――何故『あの冬』が来ないの――?」
しん、と静まり返った聖堂の中。独白は続く。女神像は応えない。
やがて、レーズンは歩き出す。廃教会の外へ。聖堂の床に先ほどの『石』を軽く放り投げ、そのまま立ち去る。

「一体何が……何が間違って、こんな事が――」
それは疑念。今まで自分のしていた事が思い通りの結末にならなかった事による、強い不満であった。
だが、それに答える者は居ない。
疑問は、疑問のまま彼女の心に染みていく。
(……何かがおかしいんだわ。きっと、何かが間違ってる。『幻獣』が現れないか、それが遅れる何かのフラグが立ってるんだわ)
それが何なのか解からないままに。だが、そう納得し、今はまだ胸に収めておくしかなかった。
外はまだ明るく。教会から出て数歩歩き出すと、やがて背後に立っていた廃教会が壊れた風景画のようにひび割れていった。
ぴしり、ぴしりと音を立て、やがて時空に生まれたひずみに建物が、大地が飲み込まれていく。
数分掛からずに廃教会のあった場所は空間ごと時空に飲み込まれ、ひずみとなって消え去っていった。
後に残されたのは、弱い陽射しの中、そこだけが不自然に切り取られた空間。
その部分だけが光が差し込まず、ただただ黒かった。
だが、『魔王』レーズンはそんな瑣末な事には気など向けず。そのまま誰もその場にいなくなった。



 一方、シュトーレンでは、シフォン皇帝一行が街に到着し、住民らの歓迎ムードの中、会談の会場でもある領主館へと入った。
一時的に館の主となったエリーシャは、再び無事に会えたシフォンに安堵した風を装ったが、その表情はやや暗く。
事情を知る者達のみを集めた場所で、改めて自身の身に起きた事、そして、タルト皇女を失った事をシフォンに伝えると、脱力したように大きなため息をついたのだった。

「シフォン殿。私はトルテを守る事が出来ませんでした。許して欲しいなどとは思いません。ただ、自身を情けなく感じてならないのです」
部屋には、エリーシャとシフォン、それからリットルの三人。
他にも大臣が事情を知っているはずであったが、彼は連れてきた会談要員達との打ち合わせを任せており、この場にはいない。
「エリーシャ殿。許すも許さぬもありません。妹を失ったのは確かに辛い。ですが、その怒りは貴方ではなく、理不尽な事をしでかした南部やラムクーヘンの所為なのですから」
その事で貴方が気に病む事はありません、と、シフォンは心からの慰めを聞かせる。
「……ありがとう。シフォン殿」
そして、それを聞いてか、悲壮感に満ちていたエリーシャは、わずかばかり頬を緩める。
「ですが、こうなるとラムクーヘンとの国交は即座に断ち切り、その責を負わせなくては」
「でもいいんですか陛下。皇女の件があるから国民は反対しないだろうが、ラムクーヘンはいまや西部最大の経済大国。ここに打撃を与えてしまうと、広範囲で経済が何らかの影響を受けかねないですよ?」
エリーシャの隣の席で問うリットルに、シフォンは顎に手を当て考え始める。
「何より、他の中立的な西部諸国に大帝国に対しての危機感を抱かせかねない。迂闊な行動は避けるべきでは?」
即行動・即対応を考慮し始めたシフォンに、リットルは慎重な対応を求めていた。
確かにラムクーヘンの策略によって皇女一人が行方知れず、皇太后が負傷したのだ。
どこの国による行動か調べた上で、可能なら潰す方が国民感情的にも、兵士たちの士気にも影響はするのだが。
それがよりによって世界の経済を左右しかねない経済大国。それも表向き友好国である。
下手をすれば周囲に不信感を抱かせかねないのは、リットルの説明からも良く解る事柄であった。

「リットル殿の言いたいことは良く解る。国として、泥をかぶる事になりかねないこと。これは国民にも、当然我ら皇族にも重くのしかかる事だろう」
わずかに考えた後、シフォンは静かなトーンで話し始める。
リットルもエリーシャも黙って耳を傾けていた。
「私は、他国への侵略を企てた愚者として歴史に残るかもしれない。だが、そうだとしても今回の事、到底容認できる事ではない。然るべき制裁を加えねば、却って他国に甘く見られかねないのもある」
国の象徴たる皇族一人がいなくなったのだ。先代の妻が傷を負ったのだ。許されることではない、と。シフォンは論ずる。
「無論、リットル殿の言うように、感情任せでは無く、周囲の反応をある程度考慮しなくてはならないだろう。だが、それも時間が経てば行動を起こしにくくなってしまう」
「何より会談が間近に迫っている今、この決断を先送りにしてしまえば、次にこうして決めるのがいつになるのか、その見通しも立たない、というのもあるかしら?」
ある程度の意見を聞き、エリーシャがまとめる。

 シフォンらが決断を急ぐにも、理由があるのだ。
決断とはいつでもできるものではなく、鉄の様に打ち時というものがある。
これを逃せば歪な形に決まり、意味を成さなくなってしまう。
皇女・皇太后襲撃の制裁は、確かに長考によってある程度の安全策を見出す事もできるかもしれないが、時間が経てば経つほどに事件は風化しかねず、時間をかければそれ程に相手に対抗策を講ずる時間を与えかねない。
「相手が嫌がるタイミングで、相手が困るタイミングで決めなくては、制裁の意味はない、と?」
今度は逆にシフォンがエリーシャに問う番であった。
「逃げ支度が整っていつでも亡命可能、という段階で攻めても、それでは国ひとつが焦土と化すだけだもの。それだとただの侵略になってしまうわ」
つまり、ババリア王を捕らえるか、処刑できる段にまで進められなければ意味がないという事。
理由もない襲撃だと勘違いされてはたまらないのだから、元凶となる王を逃がす訳には行かないのだ。
「もちろん、宣戦布告は必要だわ。友好国として近づいて、いきなり敵として侵略、なんてのは不可能。正々堂々攻め落とさないといけない」
「難易度が跳ね上がるぜ。ババリア王はいつでも逃げ出せるだろうに、宣戦布告はしなきゃいけないなんてのは」
理屈ではそうだと解ってもリットルが釈然としないのは、エリーシャの言っている事が事実上不可能だとわかるからである。

 いくらラムクーヘンの国土が狭いからと言っても、攻め入る前に宣戦布告し、実際に領内に突入して城を攻略、しかる後に王を捕らえよう等と考えても、実際には軍がラムにたどり着いた頃には王は逃げ出した後か、少なくとも城内決戦に持ち込む前に逃げ出している可能性が高いのだ。
無論、ババリア王が勝算を感じ、強気に決戦に臨む可能性も全くないとは言い切れないが、議論の段階において、少ない可能性はわざわざ考慮するのは無駄と言うもの。
可能性として最も高いものを選び続けるなら、やはりエリーシャの言葉には無理があるのだ。

「軍事力・兵の質、どちらを取っても大帝国は圧勝できる。だが、勝った時に相手の王が居ないじゃ話にならん。最悪、逃げ出したババリア王に『大帝国から言いがかりを付けられ突如侵略を受けた』なんて広められでもしたら、行動を不信がった諸国はもれなく大帝国を人類の敵とみなしてくるぜ」
シフォンもリットルも懸念として抱いていたのは、大帝国の行動によって、他の人類国家が揃って敵に回りかねない、というものであった。
ラムクーヘンへは制裁をしなくてはならない。
だが、一歩間違えればそれは大帝国滅亡への道を進むことになりかねない。
非常に危険な事であり、それだけは回避しなくてはならない事態である。
だが、これを想像し頬に汗する両者に対し、エリーシャは静かに微笑んでいた。
「私に、考えがあるわ。皇族の名に傷がつかず、それでいて、ラムクーヘンにはきちんと制裁を加えられる、そんな方法が」
場の空気を支配していたのは、紛れもなくこの皇太后・エリーシャであった。
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