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79.モブ役者がふたたび感じる一体感
こちらに向けられたカメラの前で、スタッフからの指示にしたがって僕は床に寝ころがり、その上にまたがるように西尾さんがスタンバイをする。
そして、監督からの合図とともに撮影は再開された。
まずは、床に押し倒した比良山の上におおいかぶさるようにして脅しをかけてきたトシの胸ポケットから、警備会社のアルバイト用社員証が落ちるという展開を経て、これまで必死に隠していた彼の本当の職業がバレてしまったところのシーンからだ。
多くの人にとっては、社員証なんて特別気にかけることもないものだろうけれど、でもトシにとっては、特別に大きくて重たい存在だった。
いわば己にとってのコンプレックスである職業の最たる象徴のひとつであり、それとともに、これまで必死になって隠すためについてきたウソがバレてしまう、なによりの証拠でもあった。
───かつてトシは比良山にたいし、己の職業を『一流商社に勤める営業担当のサラリーマン』なのだと自称していた。
そして比良山もまた、守秘義務の関係上、『とある企業で研究職をしている』ことしか告げていなかった。
それは、片やまったくのウソであり、片やウソではないけれど、微妙に真実とも言いがたいものであったのだけど。
でもそれを聞いた当時、トシが一流商社の営業マンだということに、比良山はなんの違和感もおぼえなかったのだ。
たとえば服装。
カジュアルな服を着ることが多い比良山にたいして、トシが着ているスーツはいつも仕立てのよいものであったし、履いている革靴だって必ずピカピカに磨きあげられていた。
それに髪型だって、いつもきちんとセットされていて、油断するとボサついたままになる比良山とは大ちがいだった。
ほかには、話術なんかも洗練されていた。
いつでもトシとの会話は楽しかったし、ときには比良山ですら知らないような知識をいくつも披露してくれた。
明るくて、正義感が強くて、困っている人を放っておけない、そんな兄貴肌のトシなら、『社内の営業職のなかでもトップクラスの成績をおさめている』という本人の言を信じるに足ると思っていたのである。
でもそんなハイスペックな姿がもし、本人が必死に作りあげた虚像なのだとしたら……?
本当は商社の営業担当どころか、警備会社の単なるアルバイトでしかなくて、社会的立ち位置では勝者どころか、ろくな身分保障もない圧倒的敗者なのだとしたら。
それに、これまでに聞かされていた会社でのエピソードでさえも、そのすべてが虚構なのだとしたら。
そんなの、隠したい、知られたくないと思うに決まっている。
特にプライドが高い人物であればあるほど、その羞恥からくる怒りは、反動で大きくなるにちがいない。
そうして、ただそれをなかったことにしたくて、衝動のままに秘密を暴いてしまった相手の───比良山の首もとへ手をかける。
このときの西尾さんは、ただ純粋な怒りを前面に押し出す演技をしていて、衝動に突き動かされるままに動き、善悪の判断なんてついていないのだということが伝わってくる。
「『うっ……ぁ……』」
今度こそ西尾さんは、ためらうことなく僕の首もとに手をかけてきて、きつく絞め上げる演技をしてくれた。
見た目には、腕がふるえるほどに力を入れて絞めているように見えるけれど、その実、首にかかる負荷は僕が想定していたより、よほど控えめだった。
さすが矢住くん仕込みはちがう、なんて感心してしまったのは、ここだけの話だけど。
それでも僕たち役者は、本気で絞めているように見せ、そして本気で苦しがっているように見せるのが仕事だから。
こちらもわざと息を止めて顔を赤くし、さらに生理的な涙をにじませて苦悶の表情をうかべると、かすかにふるえ、必死に西尾さんを見上げようとする。
「っ!!」
その瞬間、向かい側から息を飲むような音がして、首にかけられていた両手から、あきらかに力が抜かれた。
───おかしいな、本来ならここで力を抜くなんて指示はなかったはずなのに。
台本のト書きにも、『トシは比良山の首を全力で絞める』としか書かれていなかったと思ったけれど……。
だけど、とまどったのは一瞬だけだった。
だってうっすらとあけた僕の目に映ったのは、己のしたことにおびえて瞳をゆらがせ、その罪の重さに深い後悔をにじませたトシの表情だったのだから。
───あぁ西尾さん、やっぱりいい演技するなぁ!
もちろん、その直前の羞恥からくる怒りの表現だって、きちんと自分の感情として落とし込まれていて、その演技はホンモノの感情の発露にしか見えなかったけど。
お芝居をするとき、演技のうまい人とやるそれはとても楽しくて、さらに表現力が豊富であればあるほど、次はどんな芝居で来るのだろうかって、まるで宝箱を開けるような気分で相手の出方に期待をしてしまう。
今回もまた、こらえきれないワクワク感に満ちていて、やっぱり僕はただの演技バカなんだってことを、つくづく思い知らされる。
きっとこの演技だって、さっきの休憩時間中に矢住くんに教えてもらった『感情の裏張り』を最後にするための、重要な布石のひとつなのだろう。
かつて友人だったふたりが、その立場のちがいから決定的に決裂したまま終わるのではなく、最後にまたわかりあえたのだろうという、余韻を残す終わりに向けた演出のひとつなのだとしたら。
それに気づいたからには、僕だってその演技プランに乗るしかないだろ!
当初僕がかんがえていた比良山のここで取るべきしぐさは、苦しさから逃れるために『己の首を絞めてくる相手の腕をつかむ』一択だと思っていた。
だけど、実際に首を絞めてくる手の力がゆるんだとわかるのなら、どうするだろうか?
ひょっとしなくても、その瞬間、『腕』ではなく『トシ本人』を止めたいという初志を思い出すんじゃないかって、そう思ったんだ。
「『ト、シ……おねが……っ、自首し……』」
なんとか声を出せる程度にはゆるめられたとはいえ、息苦しさでうまく力が入らない手を、それでもトシに向かって必死にのばす。
セリフこそ台本に書かれたとおりではあるものの、ト書きにもないこの動きは、完全にこの場の雰囲気に合わせて即興でつけたお芝居だった。
「『う、うるさいっ!!』」
ここもそう、当初の想定では、もっと冷たい感じでこちらを拒絶するような演技で来ると思っていたけれど、西尾さんの声にはとまどいから来るゆらぎが生じていたし、それと連動するように、こちらの首を絞めていたその手からもまた、さらにわかりやすく力が抜けていく。
どうして、トシはこんなに動揺したんだろうか?
比良山という役を演じながらも、必死にあたまの片隅で、その思考をトレースしていく。
それに比良山として気になることといえば、ほかにもある。
この倉庫で対峙したときの、『悲しむ人がいないような被害者ならば、殺人すらも正義だ』と、まるで己のした犯罪行為を是とするような倫理観の欠如したセリフを口にしていたことだってそうだ。
いつもの『トシ』という人物を知っていればこそ、違和感をおぼえるどころじゃなく、違和感しかないレベルにおかしなことだった。
その一方で、ふりはらいがたい疑念もわいてくる。
これまで自分が見てきた『トシ』は、『本当に本人の姿だったのか?』っていう。
言うなればトシは、比良山の前では『一流商社の営業マン』という役を演じてきただけとも言えるわけで、そうなればその言動のすべてがウソだった可能性だって否定できなかった。
自分は長年、だまされてきたのかもしれない。
トシの作りあげた虚像を友とし、あまつさえ親友とまで思っていたなんて。
もしそうならば、自分の人を見る目がなさすぎるって、そう思わなくちゃいけないだろう。
けれど、苦しさから解放され、うっすらとあけた目に飛び込んできたトシの表情はそれが杞憂なんだと教えてくれた。
その表情を目にしたとたん、僕の───比良山のなかでもすべての謎が解けていく。
だってトシの顔には、これでもかというほどの後悔にまみれ、罪悪感があふれていたのだから。
それってつまり、こうして比良山の首を絞めてしまったのは、突発的な事故のようなものであり、決してトシにとっては傷つけたい相手なんかじゃなかったってことになるだろう?
知られたくないことを知られてしまったからこそ、羞恥心が先立ってとっさに襲いかかってしまったけれど、相手は憎い人物でもなければ、むしろ長年気の置けない友人として親しく付き合ってきた人物でもあって。
けれどその一方で、このまま生かしておけば、まちがいなく自分が犯してしまった罪を暴く存在にはなり得るものでもあった。
そうなればトシだって、平穏な日常が脅かされることになるのはまちがいないだろうし、そういう意味では『殺す』という選択肢だってあってもおかしくはないはずなのに。
でも、そうじゃなかった。
それよりも先にトシのあたまをよぎったのは、きっとふたりですごし、積みかさねてきた思い出の数々だ。
そのあたたかく楽しかった思い出が、彼の殺意を打ち消したのだとしたら。
それはもう、トシにとっての比良山は、ちゃんと『特別な存在』だったのだっていうことと同義じゃないだろうか?
そんな相手のことなんだ───比良山だってなによりも『トシを信じたい』のだと、『助けたい』のだと、心の底からそう願う。
それはいつかの居酒屋でかわした、ほんの他愛もない約束であったのだけど。
トシが困ったときには、今度は自分が助けるのだという。
そのときの気持ちが、なんの違和感もなく、己のものとして心のまんなかにある。
こうして『僕』は、『ボク』になる。
それはまるで、ジグソーパズルの最後のピースがかちりとハマるように。
どこかかみ合わない気配のしていた歯車が、きっちりとかみ合ったときのように。
なんとも言えない一体感が、僕のからだを満たしていく。
「『そこまでだ、その手をはなすんだ!』」
「『っ!』」
そのとき、渋みの利いた声がふいに外からかけられる。
それとともに、倉庫の入り口に見慣れたシルエットが立っているのが目に飛び込んできた。
ピンチのときにさっそうと駆けつけてくれたその声の主は、権藤さん演じる、主人公の鈴木三郎警部補だ。
ここは本来、比良山にとっては救いの主の登場シーンではあるけれど、トシにとっては己の殺人未遂の現場を押さえられた場面でもあるわけなのに、なぜだろう、トシの表情もホッとしたように若干和らいだように見えるのは、気のせいだろうか?
───って、おかしいだろ、本当ならここでカットがかかるはずなのに!
でも監督は、だまってモニターを見つめたままだ。
それに権藤さんだって『鈴木三郎』として、少しくせのある歩き方のまま、まっすぐにこちらに向かってくる。
───つまり、撮影はこのまま続行するってことか!
一瞬でそう判断すると、集中力を途切れさせまいと、全神経を演技のほうへとむけていく。
こういう事前予告なしの変更も、ドラマの撮影現場では、ないわけではない。
特に興が乗っているときなんかは、場の空気感を壊したくなくて、本来ならカットを告げるべきところでは切らず、その先まで一気に演じさせるなんてことは、その時々の判断で行われることだし。
でもそれは、いくらセリフ自体は決まっているとしても、失敗すればまた最初から撮りなおしになるという危険性をともなうものでもあって。
絶対にNGは出せないと、否が応にも緊張感は高まっていく。
……けれど裏をかえせば、今の演技は思わずカメラをまわす手を止めたくなくなるくらい、いい演技だったって、監督に認めてもらえたようなものだとも思う。
それを心の頼りにして僕は、後半に待ち受ける例の長ゼリフに向け、本日何度目かになる覚悟を決めたのだった。
そして、監督からの合図とともに撮影は再開された。
まずは、床に押し倒した比良山の上におおいかぶさるようにして脅しをかけてきたトシの胸ポケットから、警備会社のアルバイト用社員証が落ちるという展開を経て、これまで必死に隠していた彼の本当の職業がバレてしまったところのシーンからだ。
多くの人にとっては、社員証なんて特別気にかけることもないものだろうけれど、でもトシにとっては、特別に大きくて重たい存在だった。
いわば己にとってのコンプレックスである職業の最たる象徴のひとつであり、それとともに、これまで必死になって隠すためについてきたウソがバレてしまう、なによりの証拠でもあった。
───かつてトシは比良山にたいし、己の職業を『一流商社に勤める営業担当のサラリーマン』なのだと自称していた。
そして比良山もまた、守秘義務の関係上、『とある企業で研究職をしている』ことしか告げていなかった。
それは、片やまったくのウソであり、片やウソではないけれど、微妙に真実とも言いがたいものであったのだけど。
でもそれを聞いた当時、トシが一流商社の営業マンだということに、比良山はなんの違和感もおぼえなかったのだ。
たとえば服装。
カジュアルな服を着ることが多い比良山にたいして、トシが着ているスーツはいつも仕立てのよいものであったし、履いている革靴だって必ずピカピカに磨きあげられていた。
それに髪型だって、いつもきちんとセットされていて、油断するとボサついたままになる比良山とは大ちがいだった。
ほかには、話術なんかも洗練されていた。
いつでもトシとの会話は楽しかったし、ときには比良山ですら知らないような知識をいくつも披露してくれた。
明るくて、正義感が強くて、困っている人を放っておけない、そんな兄貴肌のトシなら、『社内の営業職のなかでもトップクラスの成績をおさめている』という本人の言を信じるに足ると思っていたのである。
でもそんなハイスペックな姿がもし、本人が必死に作りあげた虚像なのだとしたら……?
本当は商社の営業担当どころか、警備会社の単なるアルバイトでしかなくて、社会的立ち位置では勝者どころか、ろくな身分保障もない圧倒的敗者なのだとしたら。
それに、これまでに聞かされていた会社でのエピソードでさえも、そのすべてが虚構なのだとしたら。
そんなの、隠したい、知られたくないと思うに決まっている。
特にプライドが高い人物であればあるほど、その羞恥からくる怒りは、反動で大きくなるにちがいない。
そうして、ただそれをなかったことにしたくて、衝動のままに秘密を暴いてしまった相手の───比良山の首もとへ手をかける。
このときの西尾さんは、ただ純粋な怒りを前面に押し出す演技をしていて、衝動に突き動かされるままに動き、善悪の判断なんてついていないのだということが伝わってくる。
「『うっ……ぁ……』」
今度こそ西尾さんは、ためらうことなく僕の首もとに手をかけてきて、きつく絞め上げる演技をしてくれた。
見た目には、腕がふるえるほどに力を入れて絞めているように見えるけれど、その実、首にかかる負荷は僕が想定していたより、よほど控えめだった。
さすが矢住くん仕込みはちがう、なんて感心してしまったのは、ここだけの話だけど。
それでも僕たち役者は、本気で絞めているように見せ、そして本気で苦しがっているように見せるのが仕事だから。
こちらもわざと息を止めて顔を赤くし、さらに生理的な涙をにじませて苦悶の表情をうかべると、かすかにふるえ、必死に西尾さんを見上げようとする。
「っ!!」
その瞬間、向かい側から息を飲むような音がして、首にかけられていた両手から、あきらかに力が抜かれた。
───おかしいな、本来ならここで力を抜くなんて指示はなかったはずなのに。
台本のト書きにも、『トシは比良山の首を全力で絞める』としか書かれていなかったと思ったけれど……。
だけど、とまどったのは一瞬だけだった。
だってうっすらとあけた僕の目に映ったのは、己のしたことにおびえて瞳をゆらがせ、その罪の重さに深い後悔をにじませたトシの表情だったのだから。
───あぁ西尾さん、やっぱりいい演技するなぁ!
もちろん、その直前の羞恥からくる怒りの表現だって、きちんと自分の感情として落とし込まれていて、その演技はホンモノの感情の発露にしか見えなかったけど。
お芝居をするとき、演技のうまい人とやるそれはとても楽しくて、さらに表現力が豊富であればあるほど、次はどんな芝居で来るのだろうかって、まるで宝箱を開けるような気分で相手の出方に期待をしてしまう。
今回もまた、こらえきれないワクワク感に満ちていて、やっぱり僕はただの演技バカなんだってことを、つくづく思い知らされる。
きっとこの演技だって、さっきの休憩時間中に矢住くんに教えてもらった『感情の裏張り』を最後にするための、重要な布石のひとつなのだろう。
かつて友人だったふたりが、その立場のちがいから決定的に決裂したまま終わるのではなく、最後にまたわかりあえたのだろうという、余韻を残す終わりに向けた演出のひとつなのだとしたら。
それに気づいたからには、僕だってその演技プランに乗るしかないだろ!
当初僕がかんがえていた比良山のここで取るべきしぐさは、苦しさから逃れるために『己の首を絞めてくる相手の腕をつかむ』一択だと思っていた。
だけど、実際に首を絞めてくる手の力がゆるんだとわかるのなら、どうするだろうか?
ひょっとしなくても、その瞬間、『腕』ではなく『トシ本人』を止めたいという初志を思い出すんじゃないかって、そう思ったんだ。
「『ト、シ……おねが……っ、自首し……』」
なんとか声を出せる程度にはゆるめられたとはいえ、息苦しさでうまく力が入らない手を、それでもトシに向かって必死にのばす。
セリフこそ台本に書かれたとおりではあるものの、ト書きにもないこの動きは、完全にこの場の雰囲気に合わせて即興でつけたお芝居だった。
「『う、うるさいっ!!』」
ここもそう、当初の想定では、もっと冷たい感じでこちらを拒絶するような演技で来ると思っていたけれど、西尾さんの声にはとまどいから来るゆらぎが生じていたし、それと連動するように、こちらの首を絞めていたその手からもまた、さらにわかりやすく力が抜けていく。
どうして、トシはこんなに動揺したんだろうか?
比良山という役を演じながらも、必死にあたまの片隅で、その思考をトレースしていく。
それに比良山として気になることといえば、ほかにもある。
この倉庫で対峙したときの、『悲しむ人がいないような被害者ならば、殺人すらも正義だ』と、まるで己のした犯罪行為を是とするような倫理観の欠如したセリフを口にしていたことだってそうだ。
いつもの『トシ』という人物を知っていればこそ、違和感をおぼえるどころじゃなく、違和感しかないレベルにおかしなことだった。
その一方で、ふりはらいがたい疑念もわいてくる。
これまで自分が見てきた『トシ』は、『本当に本人の姿だったのか?』っていう。
言うなればトシは、比良山の前では『一流商社の営業マン』という役を演じてきただけとも言えるわけで、そうなればその言動のすべてがウソだった可能性だって否定できなかった。
自分は長年、だまされてきたのかもしれない。
トシの作りあげた虚像を友とし、あまつさえ親友とまで思っていたなんて。
もしそうならば、自分の人を見る目がなさすぎるって、そう思わなくちゃいけないだろう。
けれど、苦しさから解放され、うっすらとあけた目に飛び込んできたトシの表情はそれが杞憂なんだと教えてくれた。
その表情を目にしたとたん、僕の───比良山のなかでもすべての謎が解けていく。
だってトシの顔には、これでもかというほどの後悔にまみれ、罪悪感があふれていたのだから。
それってつまり、こうして比良山の首を絞めてしまったのは、突発的な事故のようなものであり、決してトシにとっては傷つけたい相手なんかじゃなかったってことになるだろう?
知られたくないことを知られてしまったからこそ、羞恥心が先立ってとっさに襲いかかってしまったけれど、相手は憎い人物でもなければ、むしろ長年気の置けない友人として親しく付き合ってきた人物でもあって。
けれどその一方で、このまま生かしておけば、まちがいなく自分が犯してしまった罪を暴く存在にはなり得るものでもあった。
そうなればトシだって、平穏な日常が脅かされることになるのはまちがいないだろうし、そういう意味では『殺す』という選択肢だってあってもおかしくはないはずなのに。
でも、そうじゃなかった。
それよりも先にトシのあたまをよぎったのは、きっとふたりですごし、積みかさねてきた思い出の数々だ。
そのあたたかく楽しかった思い出が、彼の殺意を打ち消したのだとしたら。
それはもう、トシにとっての比良山は、ちゃんと『特別な存在』だったのだっていうことと同義じゃないだろうか?
そんな相手のことなんだ───比良山だってなによりも『トシを信じたい』のだと、『助けたい』のだと、心の底からそう願う。
それはいつかの居酒屋でかわした、ほんの他愛もない約束であったのだけど。
トシが困ったときには、今度は自分が助けるのだという。
そのときの気持ちが、なんの違和感もなく、己のものとして心のまんなかにある。
こうして『僕』は、『ボク』になる。
それはまるで、ジグソーパズルの最後のピースがかちりとハマるように。
どこかかみ合わない気配のしていた歯車が、きっちりとかみ合ったときのように。
なんとも言えない一体感が、僕のからだを満たしていく。
「『そこまでだ、その手をはなすんだ!』」
「『っ!』」
そのとき、渋みの利いた声がふいに外からかけられる。
それとともに、倉庫の入り口に見慣れたシルエットが立っているのが目に飛び込んできた。
ピンチのときにさっそうと駆けつけてくれたその声の主は、権藤さん演じる、主人公の鈴木三郎警部補だ。
ここは本来、比良山にとっては救いの主の登場シーンではあるけれど、トシにとっては己の殺人未遂の現場を押さえられた場面でもあるわけなのに、なぜだろう、トシの表情もホッとしたように若干和らいだように見えるのは、気のせいだろうか?
───って、おかしいだろ、本当ならここでカットがかかるはずなのに!
でも監督は、だまってモニターを見つめたままだ。
それに権藤さんだって『鈴木三郎』として、少しくせのある歩き方のまま、まっすぐにこちらに向かってくる。
───つまり、撮影はこのまま続行するってことか!
一瞬でそう判断すると、集中力を途切れさせまいと、全神経を演技のほうへとむけていく。
こういう事前予告なしの変更も、ドラマの撮影現場では、ないわけではない。
特に興が乗っているときなんかは、場の空気感を壊したくなくて、本来ならカットを告げるべきところでは切らず、その先まで一気に演じさせるなんてことは、その時々の判断で行われることだし。
でもそれは、いくらセリフ自体は決まっているとしても、失敗すればまた最初から撮りなおしになるという危険性をともなうものでもあって。
絶対にNGは出せないと、否が応にも緊張感は高まっていく。
……けれど裏をかえせば、今の演技は思わずカメラをまわす手を止めたくなくなるくらい、いい演技だったって、監督に認めてもらえたようなものだとも思う。
それを心の頼りにして僕は、後半に待ち受ける例の長ゼリフに向け、本日何度目かになる覚悟を決めたのだった。
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