キレ者弁護士は生徒会長に甘えたい

松丹子

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本編

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 一階に降りた二人は、黙ったまま隣を歩いた。
 どちらかが伸ばせばすぐに触れられる距離にある手は、繋がれることもなくそれぞれの歩調に合わせて揺れている。

「……小野田くんは、今帰り?」
「んー」

 冬彦はふと込み上げた自嘲に任せて笑った。

「今、家出中」
「はっ?」

 あゆみが目を丸くする。その顔を見て、冬彦はまた笑った。
 茶化されたと思ったのだろう。あゆみは眉を寄せて唇を尖らせる。

「もー。冗談やめてよ」
「冗談……ね」

 冬彦は笑みを控えて前を向き、中学生の頃にはなかった街のざわめきを見やる。
 あゆみと生活環境を同じくしていた、あの頃。
 あゆみも黙って、前方を見やった。
 人口減の警鐘が鳴る昨今。街が賑やかになったことは喜ぶべきかもしれない。
 しかし冬彦にとっては、親しみのある馴染みの風景が、どこにでもある不特定多数の雑踏に変わってしまっただけのように思える。
 この街は、賑わわせてくれるなら誰でもいいのだ。
 そんな皮肉と共に、冬彦は不意に自分自身に思いを馳せた。

 「できる人」なら誰でもいいのだ。
 それが、冬彦でなければならないと言う人はいない。

 どこかでずっと、そう思っていた。
 冬彦は、空腹で飢えたことがない。何かをするとき親に止められたこともない。褒められなかった訳でもない。生活に必要なもの、教育に必要なものはすべて与えてもらってきた。
 それなのに満たされない。満たされないのは何故だろう。
 そう思っていた。
 思う度、浮かぶのは弟の秋政の顔だった。「できた」ときも「できない」ときも、弟の表情はさして変わらない。にこりと微笑むその目は変わらない。人が褒めても褒めなくても、やはり表情は穏やかなままだ。
 秋政は、他人と比べていないのだ。すべての満足の価値基準を、自分自身の中に置いている。できたか、できないかは、自分自身の基準で決める。人より優れた成績を残しても、自分が満足のいかないものは捨てる。人より劣った出来栄えであっても、自分が満足したものは大切にする。
 冬彦はそこに、人としての強さを感じる。決して自分には及ばない、見えない壁を感じる。そういう秋政の姿を見るとき、冬彦は自分に劣等感を抱く。自分のくだらない人間性を嘲笑したくなる。
 同じ親に産まれ、変わらない家庭で育てられ、何故、弟だけがあんなに、人間として立派に育ってしまったのか。
 「できる」ことを誇り続けていた自分のくだらなさに、ヘドが出る。

 冬彦は歪んだ笑みを浮かべようとしたが、その唇は歪んだまま強く引き結ばれた。

「……小野田くん?」

 不意にあゆみの声がして、意識を引き戻される。
 冬彦が見下ろしたあゆみの顔には、困惑の色が浮かんでいた。

「……泣いてるの?」

 冬彦はあゆみの目を見つめる。

 一体、何を。

 笑おうとしたが、それは言葉の代わりに吐き出された息と共に四散した。
 頬を生温いものが伝い落ちる。
 あゆみの手が、冬彦の頬を覆った。
 触れたあゆみの手の温もりが、心を満たしていく。
 涙を拭って離れようとしたあゆみの手を、冬彦の手が止めた。

「……そのままでいて」

 少年のような懇願の言葉に、あゆみの目が戸惑いに揺れる。
 二人は街角で立ち止まった。
 雑踏は二人に構うことなく、通りすぎていく。

「……小野田くん?」

 冬彦は目を閉じ、黙ってあゆみの手の温もりを感じる。
 あゆみは戸惑ったまま、じっと冬彦の頬を包んでいた。

「……大丈夫?」

 静かに、優しく、あゆみが問う。
 その声音に、冬彦の胸中が、息苦しいほどに締め付けられた。
 冬彦は息を吐き出す。
 胸の痛みはキリキリと、冬彦をさいなむ。
 そろりと手を下ろすと、あゆみも解放された手を下ろした。

「ごめん」

 冬彦は呟くように言って、顔を反らす。

「別に……いいけど……」

 あゆみは困惑したまま、冬彦の横顔を見ていた。
 何も言わず、動くこともなく、二人でじっと佇む。
 あゆみがうつむき、冬彦の垂れ下がったままの手に目を止める。
 ちらりと冬彦の横顔をうかがい、そっとその指先に触れた。
 冬彦はぴくりと指先を動かし、あゆみを見る。
 あゆみはその視線を受け止め切れずまたうつむき、冬彦の服の裾を掴んだ。

「……なに?」
「……何でもない」

 あゆみは答えて、冬彦を見上げた。
 目だけを上げたので、自然と上目遣いになる。

「……小野田くんが、どっかいっちゃいそうだから」

 冬彦は言葉を失った。
 あゆみが気まずげにうつむく。
 赤い縁の眼鏡の奥の頬が、少し赤い。
 冬彦は笑った。
 肩の力が抜け、腕をあゆみへ伸ばす。
 その動きは自分でも驚くほどに自然だった。

「お、小野田くん?」

 抱き寄せられ、あゆみが冬彦の腕の中で動揺の声をあげる。
 冬彦は喉の奥で笑った。

「なに」
「な、なにって。どうしちゃったの!?」
「どうって……」

 冬彦は腕の力を少しだけ緩め、あゆみの目を覗き込む。

「……俺にこうされるの、嫌?」

 あゆみが大袈裟なほど目をさまよわせた。
 冬彦はそれを見て笑い、またあゆみの身体を引き寄せる。
 首筋に頬を寄せ、包み込むように抱きしめながら、冬彦はほとんど抱き着いているような感覚を抱いていた。

「相楽」

 冬彦が呼ぶ。なに、とあゆみのかすれた声が答える。

「……あゆみ」

 あゆみがびくりと震えた。冬彦はあゆみの頭を撫でる。

「……好きだ」

 あゆみは冬彦の胸に手を添えた。そっと押し出すように、冬彦から離れようとする。

「……な、なに言ってるの」

 あゆみの目は揺らいでいた。

「だ、だって、彼女いるでしょ」
「彼女……?」

 冬彦は首を傾げる。
 梨華とのキスシーンを見られていたことを思い出して、ああ、と間の抜けた声を出した。

「あいつは違うよ。勝手にしてきただけ」
「か、勝手にって! そんなーー」

 批難の言葉を発するあゆみの唇を、冬彦の唇が塞ぐ。
 むぐっ、と口の中に言葉を押し込められ、あゆみが呻いた。
 唇を離すと、あゆみは頬を赤く染めたまま、批難がましく冬彦を睨みつけている。
 が、その目に迫力はない。
 冬彦は笑ってあゆみの目を覗き込む。

「……あゆみ」
「なに」
「結婚しよ」
「はぁっ!?」

 とっさに足を後ろに踏み出したあゆみの手首を引き寄せ、また腕の中に囲う。
 あゆみの身体を抱き寄せた自分の手が震えていることに気づき、冬彦は自嘲の笑みを浮かべた。

(情けねぇな)

 失いたくない。拒否されたくない。
 恐怖が心を脅かす。
 冬彦は黙ってあゆみを抱きしめる。
 この想いが伝わるように。
 共に過ごした夜、乱暴に抱いた後悔と懺悔。
 まっすぐな目に抱きつづけていた羨望と憧景。
 その目を見返す資格が自分にはないような気がして、いつも先に視線を反らすのは冬彦の方だった。
 いつも。中学生の頃から。

 首筋によせた鼻腔から、息を吸い込む。
 ほのかにシャンプーらしい香りがした。

「結婚するなら、あゆみがいい。……あゆみじゃなきゃ嫌だ」

 あゆみがまた喉奥で呻く。

「……ちょっと、待ってよ」

 あゆみが緩やかに冬彦の胸を押した。冬彦は腕の力を弱める。

「私たち、付き合ってるわけでもないし」
「うん」
「そもそも、二人で出かけたことだってほとんどないし」
「そうだね」
「……で何でいきなりプロポーズなの?」

 冬彦は笑った。
 笑って、あゆみの頬を撫でる。

「あゆみが甘やかすから」
「はっ?」
「俺のことをーーあゆみが甘やかすから、いけない」

 言って、またあゆみを包み込む。
 あゆみは黙って、冬彦の腕の中におさまった。

「側にいてよ」

 すがりつくように、冬彦はあゆみの肩を抱きしめる。
 ささやく声は明らかに懇願の響きを持って震えた。

「……あゆみがいいんだ。あゆみじゃなきゃ駄目なんだ」

 あゆみは困惑しているのだろう。じっとしたまま、動かない。

「……俺が素直になれるのは、あゆみの前でだけだ」

 あゆみの手が動いた。
 冬彦はびくりと震える。
 あゆみの手がそろそろと冬彦の背中をつたい、そっと肩甲骨まで回って、止まる。
 じわりと服ごしに伝わってくる温もりに、冬彦は目を閉じた。

「……好きだ。この前はごめん。痛い思いさせてごめん」

 冬彦は言いながら、あゆみの額に口づける。頬に頬を擦り寄せる。

「側にいて。お願い。あゆみ……お願い」

 あゆみの手が、ぽんぽんと冬彦の背中を叩いた。
 冬彦はそろりと腕の力を緩め、あゆみの顔を見る。
 あゆみは照れ臭そうに笑っていた。

「……やだ、小野田くんってば」

 その頬は赤い。あゆみは目を反らし、少し唇を尖らせて見せた。

「百戦錬磨のツワモノが、そんな……赤子の手を本気で捻るような真似しちゃ駄目でしょ」

 冬彦は笑った。

「あゆみは赤子なの?」
「小野田くんから見たらそうでしょ」
「じゃあ、色々教えてあげる」

 冬彦は笑って、あゆみの頬に口づける。あゆみがまた顔を赤くした。

「いくらでも教えてあげるよ。手取り足取り……ね」

 あゆみは目を揺らがせて、顔を反らした。

「……甘えん坊の癖に」
「うん。あゆみにだけね」
「なに、それ」

 不服げに顔をしかめて見せるあゆみに、冬彦は笑った。

「俺がどんな風でも、あゆみは受け止めてくれるでしょ」

 言葉を失ったあゆみを、また抱き寄せる。髪を撫でながら、耳元で囁いた。

「あゆみはちゃんと俺を見てくれてた。昔からずっと。そうわかってたのに、素直になれなくてごめん。ありがとう。これからちゃんと挽回する」
「わ、私まだ何も言ってな……」

 冬彦はあゆみの唇を自分の唇で塞いだ。小さなリップ音とともに離れると、その目を覗き込む。

「俺のこと、好きだったんだろ? 中学んとき」

 あゆみは口を開き、悔しそうに歪めてそっぽを向いた。

「で、でもそれは、中学のときの話で」
「うん。で、今はフリーなんでしょ」
「フリーって、まあ彼氏はいないけど」
「じゃ、俺が彼氏になってもいいわけだ」

 冬彦の言に、あゆみが恨めしげな目を向ける。
 冬彦は笑った。

「俺、一応弁論も仕事のうちなんだよね」

 あゆみが呆れた顔をし、息を吐き出す。

「……勝手にして」
「うん、勝手にする」
「……横暴」
「同意の上でしょ」
「さんざん、勝手にキスしたじゃない」
「同意の上でね」

 あゆみが冬彦を睨みつける。冬彦は笑った。

「同意の上でしょ?」

 言いながら、また頬に唇を寄せる。
 あゆみはくすぐったそうに肩を引き上げて目をつぶったが、冬彦が離れるとしかめっつらを作った。

「……ノーコメント」

 冬彦は笑って、手を差し出す。
 あゆみもおずおずと、その手を握り返した。

 繋がれたその手が、冬彦の心にまたひとしずく、潤いをもたらす。

 大丈夫。
 こいつといれば大丈夫だ。

 心からそう思える幸せを、噛み締めた。
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