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本編
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梨華と別れてほっと一息ついた冬彦は、帰路に着こうと駅へ向かった。
ホームへ降り立つや、懐から取り出したスマホに着信があるのに気づく。
着信記録を見ると、1時間ほど前にかかってきている。
登録外の番号だ。仕事関連の可能性もあるが、番号の羅列から見るに固定電話ではないらしい。
首を傾げていると、また同じ番号から着信があった。
冬彦は警戒しながら通話ボタンを押す。
「もしもし……」
『もしもし、坂下ですけど』
思わぬ男の声に、冬彦は言葉を失った。
『もしもしー? 小野田だよね?』
「……そうだけど」
『あ、よかった。間違ってなかった』
坂下は電話の向こうでからからと笑った。
知人からの連絡とはいえ、違う意味で油断ならない人間だ。冬彦は警戒を解けぬまま、相手の様子に意識を集中する。
このタイミングで、一体何のつもりで電話など。
だいいち、冬彦が坂下の連絡先を知らないのと同じく、坂下も冬彦の連絡先を知らないはずだ。
誰かから、聞いたのでないかぎり。
その誰かが明確すぎて、額を押さえ、下唇を噛み締める。
「……誰から聞いたの、番号」
『そりゃ、一人しかいないでしょう』
坂下の声の向こうで、車が走る音がする。外で話しているらしいと分かった。
「……妊婦が家にいんのに、他の女に構ってていいわけ?」
『俺の妻とあゆみ、仲いいし。他の女っつったって、あゆみは別格』
名前を易々と呼ぶその口調に力みはない。
別格、という表現にすら、当人が事実としてとらえていると分かる落ち着いた響きがあった。
それが二人の信頼関係を冬彦につきつける。
つき合っていたのは、中学の頃。
しかし、別れてからも、二人はずっと仲のいい友達だったはずだ。あゆみの言葉が正しければ。
冬彦は心中を襲う焦燥と苛立ちに耐えるように、奥歯を噛み締めた。
(ひとの女の名前を、何度も呼ぶなよ)
苛立ちと共に浮かんだ台詞は心中に留め、坂下が口を開いた気配を察して言葉を待つ。
『お前さ、何やってんの?』
そしてむしろ、坂下の口調にこそ、苛立ちが含まれることに気づいた。
「何ってーー」
『あゆみに心配かけてんだろ』
冬彦の言葉を遮り、坂下は言う。
思わず冬彦は黙った。
坂下は一体、何を知っているというのか。
『お前、どれだけあゆみが我慢しぃな女か分かってる? 痛くても痛いって言わない奴なの。相手がお前みたいな男だったらなおさらだろ。何、心配かけちゃってんの。馬鹿なの?』
冬彦は一気に喉の乾きを覚えた。坂下へ感じる苛立ちが、腹の奥底でじわじわと泡立つ。
「……何で、俺たちに何かあったって知ってんだよ」
『あゆみに聞いたからに決まってんだろ』
「お前に……相談、したっていうのかよ」
『本人に聞けよ。馬鹿小野田』
冬彦は何か言おうとしたが、怒りと混乱のあまり坂下に投げかける言葉が浮かばなかった。
『あゆみはお前なんかにはもったいない女だよ』
言い捨てるや、坂下は小馬鹿にするように鼻で息を吐き出し、一方的に電話を切った。
(そんなこと、百も承知だ)
思ったが、通話の相手はもういない。冬彦は通話が終了した電子音を聞きつつ舌打ちをして、スマホを耳から下ろす。
電車がホームに入り込んできた。
ガタンゴトンと音を立て、どこか灰色がかった空気を掻き分けて進んだ電車が止まる。
ドアが開くと、人がわらわらと降りてきた。
色も形もまちまちの足が地を這うのを見ながら、頭がぐらぐらする。
(どういうことだよ)
冬彦を心配するのは、趣味のようなものだと。
そう笑っていたあゆみの声を思い出す。
(それと同じ口で、坂下に何か、話したのか?)
冬彦にも吐露できない想いを。
坂下には。
いつの間にか、降車は終わっていた。
電車のドアが閉まる直前に冬彦は中へと乗り込む。
車内で、あゆみの連絡先を表示した。
【今から会える?】
電車が走り始める。
送信ボタンを押した冬彦は、何とも言えない気分の悪さを感じ、ドアの窓ガラスに額をおしつけた。
目を近づけた窓の外には、他の商業地と代わり映えのない灰色のビル街が広がっていた。
ホームへ降り立つや、懐から取り出したスマホに着信があるのに気づく。
着信記録を見ると、1時間ほど前にかかってきている。
登録外の番号だ。仕事関連の可能性もあるが、番号の羅列から見るに固定電話ではないらしい。
首を傾げていると、また同じ番号から着信があった。
冬彦は警戒しながら通話ボタンを押す。
「もしもし……」
『もしもし、坂下ですけど』
思わぬ男の声に、冬彦は言葉を失った。
『もしもしー? 小野田だよね?』
「……そうだけど」
『あ、よかった。間違ってなかった』
坂下は電話の向こうでからからと笑った。
知人からの連絡とはいえ、違う意味で油断ならない人間だ。冬彦は警戒を解けぬまま、相手の様子に意識を集中する。
このタイミングで、一体何のつもりで電話など。
だいいち、冬彦が坂下の連絡先を知らないのと同じく、坂下も冬彦の連絡先を知らないはずだ。
誰かから、聞いたのでないかぎり。
その誰かが明確すぎて、額を押さえ、下唇を噛み締める。
「……誰から聞いたの、番号」
『そりゃ、一人しかいないでしょう』
坂下の声の向こうで、車が走る音がする。外で話しているらしいと分かった。
「……妊婦が家にいんのに、他の女に構ってていいわけ?」
『俺の妻とあゆみ、仲いいし。他の女っつったって、あゆみは別格』
名前を易々と呼ぶその口調に力みはない。
別格、という表現にすら、当人が事実としてとらえていると分かる落ち着いた響きがあった。
それが二人の信頼関係を冬彦につきつける。
つき合っていたのは、中学の頃。
しかし、別れてからも、二人はずっと仲のいい友達だったはずだ。あゆみの言葉が正しければ。
冬彦は心中を襲う焦燥と苛立ちに耐えるように、奥歯を噛み締めた。
(ひとの女の名前を、何度も呼ぶなよ)
苛立ちと共に浮かんだ台詞は心中に留め、坂下が口を開いた気配を察して言葉を待つ。
『お前さ、何やってんの?』
そしてむしろ、坂下の口調にこそ、苛立ちが含まれることに気づいた。
「何ってーー」
『あゆみに心配かけてんだろ』
冬彦の言葉を遮り、坂下は言う。
思わず冬彦は黙った。
坂下は一体、何を知っているというのか。
『お前、どれだけあゆみが我慢しぃな女か分かってる? 痛くても痛いって言わない奴なの。相手がお前みたいな男だったらなおさらだろ。何、心配かけちゃってんの。馬鹿なの?』
冬彦は一気に喉の乾きを覚えた。坂下へ感じる苛立ちが、腹の奥底でじわじわと泡立つ。
「……何で、俺たちに何かあったって知ってんだよ」
『あゆみに聞いたからに決まってんだろ』
「お前に……相談、したっていうのかよ」
『本人に聞けよ。馬鹿小野田』
冬彦は何か言おうとしたが、怒りと混乱のあまり坂下に投げかける言葉が浮かばなかった。
『あゆみはお前なんかにはもったいない女だよ』
言い捨てるや、坂下は小馬鹿にするように鼻で息を吐き出し、一方的に電話を切った。
(そんなこと、百も承知だ)
思ったが、通話の相手はもういない。冬彦は通話が終了した電子音を聞きつつ舌打ちをして、スマホを耳から下ろす。
電車がホームに入り込んできた。
ガタンゴトンと音を立て、どこか灰色がかった空気を掻き分けて進んだ電車が止まる。
ドアが開くと、人がわらわらと降りてきた。
色も形もまちまちの足が地を這うのを見ながら、頭がぐらぐらする。
(どういうことだよ)
冬彦を心配するのは、趣味のようなものだと。
そう笑っていたあゆみの声を思い出す。
(それと同じ口で、坂下に何か、話したのか?)
冬彦にも吐露できない想いを。
坂下には。
いつの間にか、降車は終わっていた。
電車のドアが閉まる直前に冬彦は中へと乗り込む。
車内で、あゆみの連絡先を表示した。
【今から会える?】
電車が走り始める。
送信ボタンを押した冬彦は、何とも言えない気分の悪さを感じ、ドアの窓ガラスに額をおしつけた。
目を近づけた窓の外には、他の商業地と代わり映えのない灰色のビル街が広がっていた。
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