43 / 77
42
しおりを挟む
家に帰った春菜は、ロングブーツを脱ごうとしてもたついた。チャックを下ろし切らなかったのでうまく抜けず転びそうになったところで、夏樹が肘を持って支える。
「ねぇちゃん大丈夫?」
弟が見せる気遣いがいらだたしい。春菜はその手を振り払ってどうにかブーツを手で脱ぎ、乱暴に玄関先に転がした。
家の中に入ると風呂を沸かし、手を洗ってお湯を沸かす。寒い夜道を歩いたので身体が冷たい。紅茶でも飲みながら風呂が沸くのを待とうと、マグカップ二つとティーバッグを取り出す。
「紅茶いる?」
「うん、もらう」
夏樹は戸惑いながらもいつも通り部屋の中まで入ってきて、コートを脱いだ。
「これ、借りるね」
ハンガーを手に夏樹が声をかける。先週末、部屋の掃除をして、出しておいたものだ。夏樹は手慣れた仕種で壁際にあるコート掛けにそれを掛け、春菜の顔を覗き込む。
「ねぇちゃん」
呼びかけ、目を泳がせた。
「……やっぱ何でもない。テレビ借りるね」
「どうぞ」
夏樹はあまり酒に強くない。気分が悪くなるたちなので、飲み会でもあまり杯を重ねるわけではないが、その場に応じてテンションを切り替えられるので問題ないらしい。わずかに漂うアルコールの香りを感じながら、春菜はぼんやりと部屋に寝転ぶ弟の姿を眺めていた。
テレビをつけた夏樹は、特段見たい番組があるわけではないらしい。ぼんやり画面を眺めては、しばらくしてまた違うチャンネルに切り替える動作を繰り返している。
少し気分が落ち着いて来ると、春菜は弟に何と声を掛けたものかと考えた。気まずい空気を作った自覚があるので、詫びる気持ちが伝わればよいかととりあえず口を開く。
「……素敵な人でしょ」
声は掠れた。そのことに自嘲気味の笑みを浮かべる。
夏樹は姉が声をかけてくると思わなかったらしく、一瞬春菜の顔を見てきょとんとした。一度テレビ画面を見やり、また春菜へ目線を戻す。
「すげぇいい人っぽいね。ねぇちゃんにはもったいないくらい」
目だけは真剣な調子だったが、いつもの口調で夏樹は言った。当然の一般論だと春菜はわかっていながら、ちくりとまた胸を刺された気分になる。
「そうでしょ。ーーそりゃ、そうだよ」
沸いた湯をマグカップに注ぐ。ティーバッグが湯に揺られて躍った。湯気が立ち上り、視界をうっすらと曇らせる。
「でも、デートしたんだろ。今日」
湯を注いだことに気づいた夏樹は、コップを取りに春菜の横まで来た。男子にしてはやや低めの身長で、春菜よりも十センチほど高いだけだ。小野田とのそれとは全く違う身長差に安堵しながらコップを渡す。
「……デートっていうか、食事しただけ」
「ふぅん」
夏樹はコップを受けとると、ふーふーと息を吐きかけた。その縁に口をつけて、あちっと顔を歪める。
「相変わらず猫舌なのね」
「うん、相変わらず。ラーメンだけは平気」
「変なの」
春菜は言いながらコップを手にテレビの前へと移動した。小さな座卓の上にコップを置いて床に座る。
同じくコップを持ったまま床に座った夏樹は、急にふふふ、と笑い始めた。
「……何よ」
「いや。だって。食事しただけ、ね。そっか」
何やらツボに入ったらしい。夏樹は手を口に当てながらくつくつと笑っている。春菜はそれを横目で見て、不機嫌に唇を尖らせた。夏樹が来なければただ静かに悲恋に酔っていられたのに、ずいぶんと気分を壊してくれる。
「まあ、思い出に一晩、ていうのもねぇちゃんにはできそうにないしね」
夏樹の言葉に、春菜はごふっと紅茶を噴き出しかけた。
「ひ、ひ、一晩て。何を」
「なに、そのウブな反応。え?もしかして未経験じゃないよね?」
弟にそんな質問をされると思ってなかったので、春菜はコップを口につけたまま黙り込んだ。未経験ではない。興味もあったし、つき合うのはいつも短期間であったが彼氏もいた。しかし、そう白状してしまって両親に漏らされでもしたら気持ちのいいものではない。
その様子を目に留めて、夏樹はまあいいけどと湯気の立つコップへ息を吐きかけて一口すすった。
あち、と口には出さず顔で言って、変ににぎやかなテレビ画面に目を向ける。
「でも、あの人は思い出にっていう感じには見えなかったけどなぁ」
夏樹は相変わらずふうふうしながら言った。
春菜は黙り込んだまま、コップで手先を温める。
「ねぇちゃん大丈夫?」
弟が見せる気遣いがいらだたしい。春菜はその手を振り払ってどうにかブーツを手で脱ぎ、乱暴に玄関先に転がした。
家の中に入ると風呂を沸かし、手を洗ってお湯を沸かす。寒い夜道を歩いたので身体が冷たい。紅茶でも飲みながら風呂が沸くのを待とうと、マグカップ二つとティーバッグを取り出す。
「紅茶いる?」
「うん、もらう」
夏樹は戸惑いながらもいつも通り部屋の中まで入ってきて、コートを脱いだ。
「これ、借りるね」
ハンガーを手に夏樹が声をかける。先週末、部屋の掃除をして、出しておいたものだ。夏樹は手慣れた仕種で壁際にあるコート掛けにそれを掛け、春菜の顔を覗き込む。
「ねぇちゃん」
呼びかけ、目を泳がせた。
「……やっぱ何でもない。テレビ借りるね」
「どうぞ」
夏樹はあまり酒に強くない。気分が悪くなるたちなので、飲み会でもあまり杯を重ねるわけではないが、その場に応じてテンションを切り替えられるので問題ないらしい。わずかに漂うアルコールの香りを感じながら、春菜はぼんやりと部屋に寝転ぶ弟の姿を眺めていた。
テレビをつけた夏樹は、特段見たい番組があるわけではないらしい。ぼんやり画面を眺めては、しばらくしてまた違うチャンネルに切り替える動作を繰り返している。
少し気分が落ち着いて来ると、春菜は弟に何と声を掛けたものかと考えた。気まずい空気を作った自覚があるので、詫びる気持ちが伝わればよいかととりあえず口を開く。
「……素敵な人でしょ」
声は掠れた。そのことに自嘲気味の笑みを浮かべる。
夏樹は姉が声をかけてくると思わなかったらしく、一瞬春菜の顔を見てきょとんとした。一度テレビ画面を見やり、また春菜へ目線を戻す。
「すげぇいい人っぽいね。ねぇちゃんにはもったいないくらい」
目だけは真剣な調子だったが、いつもの口調で夏樹は言った。当然の一般論だと春菜はわかっていながら、ちくりとまた胸を刺された気分になる。
「そうでしょ。ーーそりゃ、そうだよ」
沸いた湯をマグカップに注ぐ。ティーバッグが湯に揺られて躍った。湯気が立ち上り、視界をうっすらと曇らせる。
「でも、デートしたんだろ。今日」
湯を注いだことに気づいた夏樹は、コップを取りに春菜の横まで来た。男子にしてはやや低めの身長で、春菜よりも十センチほど高いだけだ。小野田とのそれとは全く違う身長差に安堵しながらコップを渡す。
「……デートっていうか、食事しただけ」
「ふぅん」
夏樹はコップを受けとると、ふーふーと息を吐きかけた。その縁に口をつけて、あちっと顔を歪める。
「相変わらず猫舌なのね」
「うん、相変わらず。ラーメンだけは平気」
「変なの」
春菜は言いながらコップを手にテレビの前へと移動した。小さな座卓の上にコップを置いて床に座る。
同じくコップを持ったまま床に座った夏樹は、急にふふふ、と笑い始めた。
「……何よ」
「いや。だって。食事しただけ、ね。そっか」
何やらツボに入ったらしい。夏樹は手を口に当てながらくつくつと笑っている。春菜はそれを横目で見て、不機嫌に唇を尖らせた。夏樹が来なければただ静かに悲恋に酔っていられたのに、ずいぶんと気分を壊してくれる。
「まあ、思い出に一晩、ていうのもねぇちゃんにはできそうにないしね」
夏樹の言葉に、春菜はごふっと紅茶を噴き出しかけた。
「ひ、ひ、一晩て。何を」
「なに、そのウブな反応。え?もしかして未経験じゃないよね?」
弟にそんな質問をされると思ってなかったので、春菜はコップを口につけたまま黙り込んだ。未経験ではない。興味もあったし、つき合うのはいつも短期間であったが彼氏もいた。しかし、そう白状してしまって両親に漏らされでもしたら気持ちのいいものではない。
その様子を目に留めて、夏樹はまあいいけどと湯気の立つコップへ息を吐きかけて一口すすった。
あち、と口には出さず顔で言って、変ににぎやかなテレビ画面に目を向ける。
「でも、あの人は思い出にっていう感じには見えなかったけどなぁ」
夏樹は相変わらずふうふうしながら言った。
春菜は黙り込んだまま、コップで手先を温める。
1
あなたにおすすめの小説
期待外れな吉田さん、自由人な前田くん
松丹子
恋愛
女子らしい容姿とざっくばらんな性格。そのギャップのおかげで、異性から毎回期待外れと言われる吉田さんと、何を考えているのか分からない同期の前田くんのお話。
***
「吉田さん、独り言うるさい」
「ああ!?なんだって、前田の癖に!前田の癖に!!」
「いや、前田の癖にとか訳わかんないから。俺は俺だし」
「知っとるわそんなん!異議とか生意気!前田の癖にっ!!」
「……」
「うあ!ため息つくとか!何なの!何なの前田!何様俺様前田様かよ!!」
***
ヒロインの独白がうるさめです。比較的コミカル&ライトなノリです。
関連作品(主役)
『神崎くんは残念なイケメン』(香子)
『モテ男とデキ女の奥手な恋』(マサト)
*前著を読んでいなくても問題ありませんが、こちらの方が後日談になるため、前著のネタバレを含みます。また、関連作品をご覧になっていない場合、ややキャラクターが多く感じられるかもしれませんがご了承ください。
Fly high 〜勘違いから始まる恋〜
吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。
ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。
奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。
なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
セイレーンの家
まへばらよし
恋愛
病気のせいで結婚を諦めていた桐島柊子は、叔母の紹介で建築士の松井卓朗とお見合いをすることになった。卓朗は柊子の憧れの人物であり、柊子は彼に会えると喜ぶも、緊張でお見合いは微妙な雰囲気で終えてしまう。一方で卓朗もまた柊子に惹かれていく。ぎこちなくも順調に交際を重ね、二人は見合いから半年後に結婚をする。しかし、お互いに抱えていた傷と葛藤のせいで、結婚生活は微妙にすれ違っていく。
Re.start ~学校一イケメンの元彼が死に物狂いで復縁を迫ってきます~
伊咲 汐恩
恋愛
高校三年生の菊池梓は教師の高梨と交際中。ある日、元彼 蓮に密会現場を目撃されてしまい、復縁宣言される。蓮は心の距離を縮めようと接近を試みるが言葉の履き違えから不治の病と勘違いされる。慎重に恋愛を進める高梨とは対照的に蓮は度重なる嫌がらせと戦う梓を支えていく。後夜祭の時に密会している梓達の前に現れた蓮は梓の手を取って高梨に堂々とライバル宣言をする。そして、後夜祭のステージ上で付き合って欲しいと言い…。
※ この物語はフィクションです。20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。
この作品は「魔法のiらんど、野いちご、ベリーズカフェ、エブリスタ、小説家になろう」にも掲載してます。
友達の肩書き
菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。
私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。
どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。
「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」
近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。
解けない魔法を このキスで
葉月 まい
恋愛
『さめない夢が叶う場所』
そこで出逢った二人は、
お互いを認識しないまま
同じ場所で再会する。
『自分の作ったドレスで女の子達をプリンセスに』
その想いでドレスを作る『ソルシエール』(魔法使い)
そんな彼女に、彼がかける魔法とは?
═•-⊰❉⊱•登場人物 •⊰❉⊱•-═
白石 美蘭 Miran Shiraishi(27歳)…ドレスブランド『ソルシエール』代表
新海 高良 Takara Shinkai(32歳)…リゾートホテル運営会社『新海ホテル&リゾート』 副社長
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる