ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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 家に帰った春菜は、ロングブーツを脱ごうとしてもたついた。チャックを下ろし切らなかったのでうまく抜けず転びそうになったところで、夏樹が肘を持って支える。
「ねぇちゃん大丈夫?」
 弟が見せる気遣いがいらだたしい。春菜はその手を振り払ってどうにかブーツを手で脱ぎ、乱暴に玄関先に転がした。
 家の中に入ると風呂を沸かし、手を洗ってお湯を沸かす。寒い夜道を歩いたので身体が冷たい。紅茶でも飲みながら風呂が沸くのを待とうと、マグカップ二つとティーバッグを取り出す。
「紅茶いる?」
「うん、もらう」
 夏樹は戸惑いながらもいつも通り部屋の中まで入ってきて、コートを脱いだ。
「これ、借りるね」
 ハンガーを手に夏樹が声をかける。先週末、部屋の掃除をして、出しておいたものだ。夏樹は手慣れた仕種で壁際にあるコート掛けにそれを掛け、春菜の顔を覗き込む。
「ねぇちゃん」
 呼びかけ、目を泳がせた。
「……やっぱ何でもない。テレビ借りるね」
「どうぞ」
 夏樹はあまり酒に強くない。気分が悪くなるたちなので、飲み会でもあまり杯を重ねるわけではないが、その場に応じてテンションを切り替えられるので問題ないらしい。わずかに漂うアルコールの香りを感じながら、春菜はぼんやりと部屋に寝転ぶ弟の姿を眺めていた。
 テレビをつけた夏樹は、特段見たい番組があるわけではないらしい。ぼんやり画面を眺めては、しばらくしてまた違うチャンネルに切り替える動作を繰り返している。
 少し気分が落ち着いて来ると、春菜は弟に何と声を掛けたものかと考えた。気まずい空気を作った自覚があるので、詫びる気持ちが伝わればよいかととりあえず口を開く。
「……素敵な人でしょ」
 声は掠れた。そのことに自嘲気味の笑みを浮かべる。
 夏樹は姉が声をかけてくると思わなかったらしく、一瞬春菜の顔を見てきょとんとした。一度テレビ画面を見やり、また春菜へ目線を戻す。
「すげぇいい人っぽいね。ねぇちゃんにはもったいないくらい」
 目だけは真剣な調子だったが、いつもの口調で夏樹は言った。当然の一般論だと春菜はわかっていながら、ちくりとまた胸を刺された気分になる。
「そうでしょ。ーーそりゃ、そうだよ」
 沸いた湯をマグカップに注ぐ。ティーバッグが湯に揺られて躍った。湯気が立ち上り、視界をうっすらと曇らせる。
「でも、デートしたんだろ。今日」
 湯を注いだことに気づいた夏樹は、コップを取りに春菜の横まで来た。男子にしてはやや低めの身長で、春菜よりも十センチほど高いだけだ。小野田とのそれとは全く違う身長差に安堵しながらコップを渡す。
「……デートっていうか、食事しただけ」
「ふぅん」
 夏樹はコップを受けとると、ふーふーと息を吐きかけた。その縁に口をつけて、あちっと顔を歪める。
「相変わらず猫舌なのね」
「うん、相変わらず。ラーメンだけは平気」
「変なの」
 春菜は言いながらコップを手にテレビの前へと移動した。小さな座卓の上にコップを置いて床に座る。
 同じくコップを持ったまま床に座った夏樹は、急にふふふ、と笑い始めた。
「……何よ」
「いや。だって。食事しただけ、ね。そっか」
 何やらツボに入ったらしい。夏樹は手を口に当てながらくつくつと笑っている。春菜はそれを横目で見て、不機嫌に唇を尖らせた。夏樹が来なければただ静かに悲恋に酔っていられたのに、ずいぶんと気分を壊してくれる。
「まあ、思い出に一晩、ていうのもねぇちゃんにはできそうにないしね」
 夏樹の言葉に、春菜はごふっと紅茶を噴き出しかけた。
「ひ、ひ、一晩て。何を」
「なに、そのウブな反応。え?もしかして未経験じゃないよね?」
 弟にそんな質問をされると思ってなかったので、春菜はコップを口につけたまま黙り込んだ。未経験ではない。興味もあったし、つき合うのはいつも短期間であったが彼氏もいた。しかし、そう白状してしまって両親に漏らされでもしたら気持ちのいいものではない。
 その様子を目に留めて、夏樹はまあいいけどと湯気の立つコップへ息を吐きかけて一口すすった。
 あち、と口には出さず顔で言って、変ににぎやかなテレビ画面に目を向ける。
「でも、あの人は思い出にっていう感じには見えなかったけどなぁ」
 夏樹は相変わらずふうふうしながら言った。
 春菜は黙り込んだまま、コップで手先を温める。
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