モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第一章 ちかづく

08 幸せの香り

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 すっかり帰る気を削がれた俺は、なるようになれとばかりに居直った。
「ご飯、パンと目玉焼きでいいかな」
 橘が台所から聞いてきたので、ああうん、と適当に頷く。トースターにパンをセットし、フライパンに卵を落とした橘は、気まずそうに俺の前に来た。
 手には男物のTシャツとスウェット。
「……これでよければ」
 俺は顔が引きつるのを感じつつ、嘆息しながらそれを受け取った。
 スーツを着る気にもならないし、背に腹は変えられない。
 橘はただただ気まずそうにするだけで、誰のものとも言わない。そのおかげでだいたい予想はついた。
 身につけてみると、平均よりも身長のある俺にはワンサイズ小さくて、袖や裾が短い。寸足らずで不格好に見えるくらいならと、袖を肘下まで無造作にまくり、足元も同様に少し折り曲げた。
 それを見た橘は感心したように目を丸くする。
「あらー。何着てもかっこいいこと」
 まるで近所のおばちゃんのような口調なので、俺は思わず脱力した。
「お前なぁ」
 吐息とともに言うが、先を続ける気にならず、首を振りながら再度嘆息する。
「まあ、さすがに下着が出てきたら引くけどな」
 橘が動きを止めた。俺に見られないよう顔を逸らす。
 ……おいおい。持ってんのかよ。
 俺はどこからどこまでツッコミを入れてよいものかと頭を抱えたが、顔を背けたままの橘がごにょごにょと言うのが聞こえた。
「別に未練とかそういうんじゃなくて、ただ整理する時間がないっていうか、捨てるタイミングを逃したっていうか……」
 はいはい。どーぞ好きにしてくれ。
 俺は呆れながら、食卓の前に腰掛けた。
 橘が準備できた朝食を卓上に並べて行く。
 俺たちは黙って朝食を平らげる。橘はなんとなくそわそわと落ち着きなく、話題を探しているようだが、あえて気づいていないふりをした。
「コーヒー、飲む?」
 橘は言って、コーヒーフィルターや粉など、必要な道具を取り出した。それに目を止めた俺は意外に思う。
「ふぅん。インスタントじゃないんだ」
「両親がドリップ派でね。味と香りが全然違うから」
「それにしても、悪くない豆みたいだけど」
 粉の香りに言うと、橘は苦笑した。
「大して違いが分からないかと思って、こないだ安いの買ったら美味しくなくて。それなら高いのはどうだろうって、今度は少し高いのを買ってみたの」
 フィルターの端を折り曲げながら言う。
「神崎はコーヒー好きなのね」
「まあね。バリスタになるか、結構真剣に悩んでたくらいだから」
 俺は言いながら立ち上がった。
「ってことで、俺がいれるよ。橘は洗い物でもしてて」
 橘は一瞬きょとんとしてから、不思議な笑顔を浮かべた。
 会社ではしっかりセットして肩に降ろしている髪を無造作に結び、昨日の化粧がほとんど取れかけている姿には、いつもの張り詰めたような雰囲気はない。
「じゃあ、お願いしようかな」
 橘は俺から食器を受け取り、出した道具を俺に任せた。俺は挽いてあるコーヒーをスプーンで掬い上げる。いい香りが鼻孔をくすぐると、俺は途端に機嫌がよくなってきた。
 自然と歌を口ずさみながら、フィルターの上に広げたコーヒー粉に少しだけ、だが満遍なく湯をかける。蒸気と共に、一層いい香りが立ち上った。
 コーヒー粉を蒸らすこの時間が、俺は一番好きだ。部屋中にコーヒーの香りが広がり、穏やかな気持ちになる。またこの瞬間を迎えられたーーそんな幸せを感じる。
 ーーたとえそれが、来る予定もなかった女の部屋であっても。
 コーヒーの香りを堪能しながら、俺は洗い場に立つ橘を見た。洗い終わった食器を拭き、しまいなから、今度はコーヒーカップを出している。
 食器にもこだわりがあるのだろうか。朝食のプレートも割としゃれていたが、コーヒーカップもそこそこいいもののようだった。
 俺はコーヒードリッパーを載せたポットを持って流しの横に立った。
「何?」
 どことなく身構えながら橘が問う。
「最後、渋味と雑味が出るから」
 俺は答えてドリッパーに湯を注ぎ始めた。挽かれた豆の上に細かい泡が広がる。
 少しずつ注いでは、また下に落ちていくのを待つ。鼻唄を歌いながら、動作を繰り返す。
「失礼」
 湯がポットに落ち切らない内に、ドリッパーを引き上げて流しに置いた。
 ポットから湯気が立ちのぼる。
「そうすると雑味が出ないの?」
「どうかな。うまくいけば」
 俺は橘が出したカップの一つにコーヒーを注ぎ、口をつけた。
「うん、まあまあ」
 呟いて、もう一つのカップにも注ぐと、橘に渡した。
「ありがと」
 カップに口をつけた橘は、目を丸く見開いて笑った。
「へぇ。同じコーヒーでも味が違うもんだね!」
 俺はコーヒーカップに口をつけながら、ふぅん、と呟いた。
「そういう顔もするんだ」
 橘はきょとんとしてから、赤面した。
「な、何よ。どういう顔よ」
 ぱぱっと顔を覆い、俺に背を向けた。
 その後ろ頭を見ながら、コーヒーをもう一口。
 橘は右を向いたり左を向いたり、あれこれした後、俺から顔を背けたまま台所から離れた。
「……化粧してくる」
「落としてくるだけにすれば」
 視線を手元のカップに落とし、また一口コーヒーを飲む。言葉の意図を探るような視線を寄越した橘のことは見ず、言った。
「せっかくのコーヒーが冷めるぞ」
 橘は一呼吸の間の後、ふっと笑った。
「それもそうね」
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