モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第一章 ちかづく

43 肉食系先輩女子

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「マーシー、働いてはる~?」
 もう少しで終業という頃、急にひょっこり現れた名取さんに、俺は思い切り身体を後ろに引いた。
 バサバサバサ、と手元の書類が落ちる。
「嫌やわぁ。そんなに驚かんといて。葉子傷つく~」
 いや、これは防衛本能で。つい。
 下に落ちた書類を拾い上げる俺の隣で、ジョーが目をぎらつかせている。
 まさに獲物を見つけたハンターさながらだ。仕事のプレゼンよりも本気が伝わって来る。ーーって、もう少し本気出せよ。仕事も。
「次のプロモーションイベントの件で、ちょっと確認なんやけど。今少し時間もらえる?」
「それなら俺も関わってるんで、一緒に!」
 すかさずノートを手に立ち上がるジョー。
 いなくなる可能性の高い俺だけで聞くより、その方がいいかもしれない、と思った俺は名取さんに言った。
「その方がいいかも。いいですか」
「あかん。私が今用があるのはマーシーだけや。ジョーは待っとき」
 名取さんはぴしりと言ってから、ジョーに微笑んだ。
「お利口にしてたら、ご褒美あげような」
 ジョーの顔色をうかがうと、何故か恍惚として頬を赤らめている。俺は見なかったことにして席を立ち、名取さんの後ろにつき従った。
 歩きながら、ついつい名取さんの後ろ姿をぼんやり見るのは悲しい男の性か。
 タイトめのベージュスーツ、そのスカートの腰回りに思わず目がいく。痩せぎすな若い子とは違う、豊満ともいえる柔らかそうな肢体。
 顔立ちは日本人形のようだから、その身体つきにギャップを感じる。ジョーが気になる気持ちは分かる気がした。
「で、うちのエースに何したん」
 名取さんは、打ち合わせテーブルに向き合って座った途端切り出した。俺は眉を寄せる。
 エースってーー橘のことか?
「何や、さっき一度席外したと思うたら、頬染めて戻って来はるし、時々ニヤニヤしてはるし、いつもビシビシ言うところがずいぶん温和に対応しはるさかい、他の部署の男子も照れてもうて……」
 まあそれはどうでもええ話や、と呟いて、名取さんは机に身を乗り出した。自然、俺と顔が近づく。ジョーの視線が気になりながらも、名取さんが小声になったので離れられない。
「あんたがどういう気で近づきはったか知らへんけど、あの子はうちにとっても可愛い妹みたいなもんや。考えも無しに傷つけたらーー」
 俺の膝の間に、名取さんの片足がするりと入り込んできて、ギクリとする。テーブルに隠れて、他の社員には見えない。
「女はしばらく見たくない、って目に合わせたるわ」
 その目は、ひどく冷たい中に、歪んだ熱を感じる。
 直視できず、俺は視線を逸らした。
「それだけや。ほな」
 名取さんが立ち上がろうとしたとき、俺はその手に軽く触れて呼び止めた。
「名取さん」
 名取さんは上げかけた腰を改めて下ろし、肉付き豊かな脚をすらりと組んだ。ジョーの目がその腿にくぎづけになっている。……肉食獣は肉食獣同士、勝手に仲良くやってくれ。
 そう思いながら、自分の気持ちを表すための言葉を探す。
「俺ーー自信ないです。……近づかない方がいいだろうと、思ってたのに」
 名取さんはふぅん、とその目を弓形に細めた。ぷっくりとした唇を楽しそうに開く。
「あんたも結構、自分の容姿に振り回されたクチなんやな。可愛いところもあるもんや」
 くすりと笑うと、俺の鼻先にちょんと指で触れた。
「その気持ち、忘れんどき。お姉さんも応援するわ」
 嬉しそうに言うと、ウインクを一つして、席を立った。
 俺はその後ろ姿を見ながら、脱力して嘆息した。
 名取さんはジョーに一声かけて去っていく。ジョーは嬉しそうに小走りして俺の横まで来た。
「どんな話したんすか?」
「ああ、たいしたことじゃ。ーーそっちは?」
「先月、駅前にオープンしたバー、知ってるか、って」
 ジョーは両手を胸の前で握り、高揚した様子で続ける。
「『なんやおしゃれな感じやねんけど、一人で行くのもなぁ』……って、これ、もう行っていいっすよね!待ってますよね!俺の誘い!」
「ああ……そうだな」
 俺は曖昧に頷いて、ジョーをなだめながらデスクに戻った。
 ジョー、気をつけろよ。あの人は天然な振りしてかなりのやり手だ。
 思いながらも、まあ食われても本望なんだろう、と、はしゃぐ後輩を見て思った。
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