初恋旅行に出かけます

松丹子

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第四部

13 報告

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 山ちゃんとの旅行は、互いが夏休みに入った8月の初めに行くことにした。
 みんな夏休みに入る頃だから、何をするにも高くつく。それは仕方ないけど、なにぶん二人とも学生なので、値段を抑えながら楽しめる方法を探した。
 行くと決めれば楽しみになった私は、パンフレットを集め始めた。山ちゃんはこの手の準備があんまり得意でないと知ってるので、自然、私が調べることになる。
 同時に、私はお母さんにもきちんと伝えることにした。嘘をついて行くのは嫌だったからだ。
「あのね、お母さん。夏休み、山ちゃんと一泊旅行してくる」
 結構な勇気をもって言ったのだけど、お母さんの返事はあっさりしていた。
「あら、そう。楽しんできなさい」
 私が拍子抜けのような顔をしていると、お母さんは笑った。
「だって、国内旅行のパンフレット、あれこれ持って帰ってたし。なんとなくそわそわしてるし、毎晩山ちゃんと楽しそうに話してるし。分かるわよ、それくらい」
 お母さんは笑うと、私を見つめた。
「山ちゃんは、あなたが嫌がることはしないって分かるから、お母さんは心配してません。あとはあなたが、ちゃんと自分で考えて行動しなさいーーそれも心配してないけどね」
 私は頷くと、お母さんは微笑んで、私に手を伸ばした。
「偉いわね。あなたは一つ一つ、ちゃんと乗り越えて行く。私にはできないことだわ」
 優しく抱きしめながら、お母さんは私の背中を撫でた。私は首を傾げる。
「何のことーー」
 問いかけて、思い出した。
 中学の同級生、川田のことを言っているのだとその目で気づいたからだ。
「……乗り越えたかどうか、わかんないよ」
 私は慎重に答えた。
 川田は、春休みーー山ちゃんがお母さんに会いに来る少し前に、東京に来たのだ。

 * * *

【東京、行くんやけど】
 届いたメッセージは突然だった。久しぶりとか、元気かとか、気遣うような言葉は何もない。それはそれで川田らしくて苦笑した。
【だから?】
 あえて淡泊に返すと、しはらくの後、返信があった。
【少し会えん?】
 断る理由も浮かばず、嫌だとも思わなかった私は、川田と少しだけお茶することにした。

「都内観光?」
「……まあ、そんなとこ」
 改札前で合流するなり、やっぱり互いを気遣うような挨拶を交わすこともないまま、私と川田は歩き始めた。川田がちらちらと私の横顔を気にしてくるのを感じつつ、私は手近なチェーン店のカフェを指し示す。
「いいでしょ、どこでも」
 川田は黙って頷いた。
 セルフサービス式のカフェだ。それぞれ飲み物を頼んで飲み物を受けとると、向かい合って座る。
 川田は黙っていた。
「そっちは福岡の大学なんでしょ」
「うん」
「みんなと会ったりしてるの?」
「……たまに」
 私の言葉に答えながら、川田は何か言いたげにしている。
 私はそれをちらりちらりと見ながらため息をついた。
「……言いたいことがあるなら言いなよ」
 目をそらし、窓の外の人込みを見やった。
 待ち合わせしている若い女性。電話しているサラリーマン。杖をつきながら歩いているおばあさん。ベビーカーを引くお母さん。
 そんな姿をぼんやり眺めていると、川田が不意に息を吸った。
「……なんで、俺にバスケ続けさせてくれたん?」
 私は視線を窓の外から川田に向けた。短めにした髪を立てているのはあまり変わらないけど、中学のときよりも自然だ。その顔つきも身体つきも、すっかり発達途中の華奢さはなく、男のそれになっている。
 そう見て取って、また目を反らした。
「辞めさせてほしかった?」
 私は静かに言った。
 私が川田に襲われた後、私に乱暴をしたのは川田だと、言ってもよかったのだろう。それでも、私はそうしなかった。そうできなかった。きっとそれが、川田のその後の生き方を変えてしまうと思ったから。
 怖かったのは、私が誰かの人生を歪めてしまうことだった。
 私自身の経験が、そう思わせたのだ。
 私は福岡に行くことを自分で選んだくせに、笑うことを忘れかけた。感情を忘れかけた。
 歪みかけた、のだと思う。
 でも、神崎さんと出会って、おじいちゃんやおばあちゃんにも支えられて、どうにかまた笑えるようになった。何かを楽しいと思えるようになった。
 笑顔を無くしたときの私は、空っぽだった。
 空っぽな感じ、がしていた。
 そして笑顔を取り戻したとき、もう二度とあそこに戻りたくないと思った。
 だから、私の言動が、あの空っぽな世界に、誰かを閉じ込めるのは嫌だった。
 そのときはっきりそう言葉にできていた訳じゃない。でも、川田がバスケを好きなのは知っていた。照れ臭いからかあんまり嬉しそうな顔はしないけど、いいプレイをして、みんなに背中や肩を叩かれているときが、彼が一番嬉しい時なのだと知っていた。
 きっとそれを取り上げたら、川田は空っぽになるだろう。もし謝罪して部活を続けることを許されたとしても、事情を知るチームメイトは、川田をそれまで通りには受け入れないだろう。さらに、川田の性格を考えれば、周りにいろいろ言われながら部活を続けるのはプライドが許さないだろう。
 だから、言わないでくれと頼んだ。
 私を襲った相手を知っているのは神崎さんだけだ。
 もう7年経つ今でも。
「……俺……ひどいことした」
「もういいよ」
「どうすれば……俺の方見てくれるんかわからんで……」
「いいって」
「他の女は寄って来るのに……お前だけはつんとして、いつまでも俺のこと鼻で笑って……」
 私は川田を睨むように見た。黙らせようとしたのだが、川田は手元に視線を落としていて気付かない。
「東京もんやからって澄ましてるんやろうって、嫌な奴やなって……意地悪しても凹まんし、下手くそなのに誰よりも本気で練習しよるし、滅多に決まらんシュート決まったときには本気で嬉しそうにしよるし、ああこいつもバスケ好きなんやなって、思ってるうちに……」
 川田は言葉を止め、息を吐き出して、唇を引き結んだ。
「ごめん。今さら、謝っても意味ないの分かってる。でも……」
「自分勝手」
 私の言葉に、川田は顔を上げた。
「あんたのそれ、自分勝手。私に謝って、自分が罪悪感から解放されようと思ってるだけでしょ。馬鹿言わないで。背負って生きなよ。ずっと背負って生きなよ。私のこと、力で捩じ伏せようとしたのはあんたなんだよ。私があんたを許すとか、許さないとか、そういうのはどうでもいい。謝罪の言葉は聞かない。許すとも言わない。自分がしたこと、ちゃんと背負って生きて。私が言いたいのはただそれだけ」
 私はまっすぐに川田を見つめ、一気に言いきった。
「……そしたら、大切にしたい人にしちゃいけないこと、忘れないでしょ」
 川田は呆然とした顔で私を見つめていた。私はコップに残ったコーヒーを飲む。一気に煽ったそれは、いつもより苦く感じた。
「じゃあ、これで」
「山口ーー」
「でも、心配はしないで」
 立ち上がりながら私は言った。椅子に座ったままの川田を見下ろし、笑う。
「私は、ちゃんと私を大切にしてくれる人と会えたから、私のことは心配しないで。私も彼を大切にしたいの。だからあんたとは、これからもただの同級生でいい。私とあんたと……ごく一部の人だけが、あのときのことを知っているだけでいい」
 カップを片付けるために持ち上げ、椅子を机に寄せた。
「ただ、忘れないで。忘れるのだけは許さない。あんたがおじいさんになっても。死ぬまで。生きてる間は、ずっと」
 言い捨てて、川田を置いて席を離れる。カップをカウンターに置くとき、自分の手が震えているのに気づいたけど、何もないふりで店を出た。ありがとうございました、という店員の声を背中に、振り向きもせずに改札へ向かった。
 歩く私は全神経を背中に向け、川田が追いかけて来ていないことを確認していた。変な汗が身体中を伝っている。追ってくる男に腕を捕まれるのではないか。そんな恐怖にのまれそうになりながら、動揺を悟られないよう、歩調を早めることなく、しっかりと床を踏み締めて歩く。
 改札を抜け、駅のホームへと出た。
 川田は追いかけて来なかった。
 私は息をゆっくり吐き出して、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
 スマホを取り出し、山ちゃんとのメッセージのやりとりを眺めた。
 おはよう。今日も眠い。今日は雨だった。レポート面倒くさい。
 そんなくだらない言葉ばかりが並ぶメッセージを順に眺め、微笑む。
 はやく会いたい。
 そうメッセージを入力しかけて、やめた。
 いつものメッセージの中ではそんな言葉は浮いてしまう。
 ーーはやく会いたい。
 スマホを胸に抱きしめて、願うように思った。

 川田のことをお母さんに話したのは、その夜だ。
 「お父さんたちには言わないで」と断って話し始めた私の言葉を、お母さんは黙って聞いてくれた。
 そして話し終わると、静かに抱きしめてくれた。
「よかった。ヒカルが無事で」
 私はその温もりに浸って目を閉じ、背中を撫でる母の手の優しさを感じていた。

 * * *

「あんまり、強くならなくていいのよ」
 お母さんが微笑んで言うので、私は思わず笑った。
「誰に似たんでしょう」
「あら。そんなこと言う」
 お母さんの強がりは、家族の誰もが知っている。
 私はくすりと笑った。
「大丈夫。山ちゃんと神崎さんには甘えてる」
「まだ神崎さんも出てくるのね」
「うん。山ちゃんも分かってくれてるもん」
 私の言葉に、お母さんはまた笑った。
 その後、不意に沈黙がおりる。
「山ちゃん、いい子よね」
 私はお母さんの顔を見やった。
「幸せになってほしいわ。ヒカルも、山ちゃんも」
 私は笑顔を返して、わざとらしく胸を張った。
「なるよ。私も山ちゃんも、ちゃんと周りの人、大切にできるもん」
 お母さんは一瞬きょとんとしてから、それもそうねと笑った。
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