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.第1章 憧れ
02 マンネリ
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ヤスくんとは、大学で出会った。
何かと言えば引っかかるもの言いをする彼には、反感を持つ人の方が多かったように思う。私はたまたまグループワークで一緒になった頃から、ヒヤヒヤしながらその姿を見ていた。
もう少し、うまく立ち回ればいいのに――そう思う反面、誰に対しても変わらない態度を取る彼に、少なからず感心もしていた。
自分の気持ちよりも、場の空気を優先しがちな私には、ないものを持っているように見えたのだ。
お節介な気質もあって、なにかと彼をフォローしているうち、周りからつき合ってると思われ始めた。
それを聞き知った彼から「それならつき合っちゃう?」と提案されたのが、恋人になったきっかけ。
色気もロマンも何もない、味気ないスタートだ。
あのときのヤスくんが、私に好意を持っていたのかどうか、正直今でも分からない。
私の方はといえば、ただ流されてしまっただけのような気がする。不器用な彼なりの告白だろうと、好意的に受け取ったのだ。
男の人に言い寄られた経験なんてなかったから、舞い上がっていたのかもしれない。真面目だけが取り柄の私は、昔から、性別に関係なくすぐ「友人」にカテゴライズされてしまう。恋愛とは無縁だった。
誰も彼も、コイビトというものを持ち始めていた時期だったこともあって、少なからず焦っていたのだとも思う。
卒業後の進路には、二人とも教師を希望した。
教育大学を選んだ時点で、就職先は決めていたので当然のこととも言える。
地元で教師になりたい。その夢は私と彼の、数少ない共通点の一つだった。
とはいえ、私と彼の地元事情は全く違った。
私の地元は神奈川県の川崎市。首都圏にほど近い政令市だ。教員という職につかずとも、雇用先は多い。公立学校の教諭の倍率はそう高くなく、希望通り、公立中学校で教鞭を執ることになった。
けれど、地方出身の彼はそうもいかなかった。ホワイトカラーの就職先といえば、教師と自治体職員くらいなものだと聞けば、たしかにそういう地域もあるだろう。
そして大学四年の夏、彼は採用試験に落ちた。
それでも、夢を諦めず、いつか地元の高校で教鞭を取りたい、と言って、都内の臨時教員に甘んじた。
そして――五年間そのまま、何も変わらずにいる。
せっかくの夢だもん、がんばろうよ。
落ち込んでいる彼を、そう励ました気持ちは嘘じゃない。
けれど、もう、それから五年が経つ。
私は二十七になり、彼は二十八になった。
さらに五年が経てば、三十も過ぎる。
それを、彼は分かっているのかどうか。
採用試験の結果を聞くのは、二年目でやめた。
「受かったらそう言うよ」といらだたしげに彼が言ったからだ。
それもそうかと、聞きたい気持ちを堪えて、黙って彼を見守っている。
けれど、もうそろそろ――限界じゃないのか。
いつまで、夢を見ているつもりなのだろう。
いつになったら、将来のこと――私たちのことを考えるつもりなのだろう。
何度もそのことを口にしかけては、飲み込んでいる。
地元に勤めたい。それはわかる。
教師になりたい。それも、わかる。
でも、もうチャレンジといえる期間は過ぎたんじゃないか。
そろそろ、なにかしらのケジメを考え始めるべきじゃないのか――
彼の前で吐き出す勇気のないまま、想いは身体を巡り続けて、ヤスくんへの感情の大半を、泥の中に絡め取っている。
***
翌日、観光らしい観光もせず、適当な店で昼食を摂った後、帰路についた。
ヤスくんを都内の自宅まで送り届けるところまでが、私のその日の仕事だ。
「じゃ、おつかれ」
「うん」
ヤスくんが車を降りると、二人だけの密室が終わることにほっとして、自然と口元の緊張は緩んだ。
そこではっと思い出し、口を開く。
「あの、キャリーバッグの中の服は――」
「あー。いつも通り、よろしく」
再度呼びかけようと息を吸った私に、ヤスくんは何かを差し出した。見れば、ビニールひもがくくられただけの鍵だ。
「これ、渡しとくわ。俺が家にいないとき来たら部屋に置いといて」
そう言い残し、さっさと行ってしまった。
その背中を見送った後、がっくりと頭を垂れた。
ハンドルにもたれ、目を閉じて吸った息を吐き出す。
背後のトランクに想いを馳せた。
昨日着ていた二人分の服は、キャリーバッグに入ったままだ。
「いつも通り」、私が洗って、送るか渡すかする――以前一度、彼が引き取るのを忘れたとき、世話をやいてしまって味を占められたのだ。
今日こそ、ちゃんと突き返そうと思っていたのに。
結局、あっさり失敗してしまった。
食い下がることもできたのだろうけれど、聞く耳を持つような機嫌じゃなさおそうだったのだから、仕方ない。
不機嫌になった彼のへりくつに言いくるめられるのは、ひどいストレスなのだ。
それを思えば、一日分の服を洗う方がよほど気楽だった。
……服は文句を言わないし。
苦い感情が胸に広がる。
ハンドルを握り直そうと手を広げかけて、渡された部屋の鍵を思い出した。
ズボンのポケットに押し込むと、腰に硬い感触が伝わり、違和感を覚える。
軽く頭を振ると、再びアクセルを踏んだ。
開けた窓から生ぬるい風が入り込み、車内の空気を押し出していく。
ヤスくんの気配と共に。
べたつく夜風は、それでも、空調で冷やされすぎた空気よりは心地いい。
べたつく風に髪をなぶられながら、ふと思った。
いつからだろう。
ヤスくんとの時間を、息苦しく思うようになったのは。
ヤスくんが私を、モノのように見るようになったのは。
――停滞期なんじゃないの?
そう、友人に言われたことを思い出す。
肌に絡みつくようなこの停滞が、ただのマンネリといえるものなのかどうか。
それすら、もうよく分からない。
何かと言えば引っかかるもの言いをする彼には、反感を持つ人の方が多かったように思う。私はたまたまグループワークで一緒になった頃から、ヒヤヒヤしながらその姿を見ていた。
もう少し、うまく立ち回ればいいのに――そう思う反面、誰に対しても変わらない態度を取る彼に、少なからず感心もしていた。
自分の気持ちよりも、場の空気を優先しがちな私には、ないものを持っているように見えたのだ。
お節介な気質もあって、なにかと彼をフォローしているうち、周りからつき合ってると思われ始めた。
それを聞き知った彼から「それならつき合っちゃう?」と提案されたのが、恋人になったきっかけ。
色気もロマンも何もない、味気ないスタートだ。
あのときのヤスくんが、私に好意を持っていたのかどうか、正直今でも分からない。
私の方はといえば、ただ流されてしまっただけのような気がする。不器用な彼なりの告白だろうと、好意的に受け取ったのだ。
男の人に言い寄られた経験なんてなかったから、舞い上がっていたのかもしれない。真面目だけが取り柄の私は、昔から、性別に関係なくすぐ「友人」にカテゴライズされてしまう。恋愛とは無縁だった。
誰も彼も、コイビトというものを持ち始めていた時期だったこともあって、少なからず焦っていたのだとも思う。
卒業後の進路には、二人とも教師を希望した。
教育大学を選んだ時点で、就職先は決めていたので当然のこととも言える。
地元で教師になりたい。その夢は私と彼の、数少ない共通点の一つだった。
とはいえ、私と彼の地元事情は全く違った。
私の地元は神奈川県の川崎市。首都圏にほど近い政令市だ。教員という職につかずとも、雇用先は多い。公立学校の教諭の倍率はそう高くなく、希望通り、公立中学校で教鞭を執ることになった。
けれど、地方出身の彼はそうもいかなかった。ホワイトカラーの就職先といえば、教師と自治体職員くらいなものだと聞けば、たしかにそういう地域もあるだろう。
そして大学四年の夏、彼は採用試験に落ちた。
それでも、夢を諦めず、いつか地元の高校で教鞭を取りたい、と言って、都内の臨時教員に甘んじた。
そして――五年間そのまま、何も変わらずにいる。
せっかくの夢だもん、がんばろうよ。
落ち込んでいる彼を、そう励ました気持ちは嘘じゃない。
けれど、もう、それから五年が経つ。
私は二十七になり、彼は二十八になった。
さらに五年が経てば、三十も過ぎる。
それを、彼は分かっているのかどうか。
採用試験の結果を聞くのは、二年目でやめた。
「受かったらそう言うよ」といらだたしげに彼が言ったからだ。
それもそうかと、聞きたい気持ちを堪えて、黙って彼を見守っている。
けれど、もうそろそろ――限界じゃないのか。
いつまで、夢を見ているつもりなのだろう。
いつになったら、将来のこと――私たちのことを考えるつもりなのだろう。
何度もそのことを口にしかけては、飲み込んでいる。
地元に勤めたい。それはわかる。
教師になりたい。それも、わかる。
でも、もうチャレンジといえる期間は過ぎたんじゃないか。
そろそろ、なにかしらのケジメを考え始めるべきじゃないのか――
彼の前で吐き出す勇気のないまま、想いは身体を巡り続けて、ヤスくんへの感情の大半を、泥の中に絡め取っている。
***
翌日、観光らしい観光もせず、適当な店で昼食を摂った後、帰路についた。
ヤスくんを都内の自宅まで送り届けるところまでが、私のその日の仕事だ。
「じゃ、おつかれ」
「うん」
ヤスくんが車を降りると、二人だけの密室が終わることにほっとして、自然と口元の緊張は緩んだ。
そこではっと思い出し、口を開く。
「あの、キャリーバッグの中の服は――」
「あー。いつも通り、よろしく」
再度呼びかけようと息を吸った私に、ヤスくんは何かを差し出した。見れば、ビニールひもがくくられただけの鍵だ。
「これ、渡しとくわ。俺が家にいないとき来たら部屋に置いといて」
そう言い残し、さっさと行ってしまった。
その背中を見送った後、がっくりと頭を垂れた。
ハンドルにもたれ、目を閉じて吸った息を吐き出す。
背後のトランクに想いを馳せた。
昨日着ていた二人分の服は、キャリーバッグに入ったままだ。
「いつも通り」、私が洗って、送るか渡すかする――以前一度、彼が引き取るのを忘れたとき、世話をやいてしまって味を占められたのだ。
今日こそ、ちゃんと突き返そうと思っていたのに。
結局、あっさり失敗してしまった。
食い下がることもできたのだろうけれど、聞く耳を持つような機嫌じゃなさおそうだったのだから、仕方ない。
不機嫌になった彼のへりくつに言いくるめられるのは、ひどいストレスなのだ。
それを思えば、一日分の服を洗う方がよほど気楽だった。
……服は文句を言わないし。
苦い感情が胸に広がる。
ハンドルを握り直そうと手を広げかけて、渡された部屋の鍵を思い出した。
ズボンのポケットに押し込むと、腰に硬い感触が伝わり、違和感を覚える。
軽く頭を振ると、再びアクセルを踏んだ。
開けた窓から生ぬるい風が入り込み、車内の空気を押し出していく。
ヤスくんの気配と共に。
べたつく夜風は、それでも、空調で冷やされすぎた空気よりは心地いい。
べたつく風に髪をなぶられながら、ふと思った。
いつからだろう。
ヤスくんとの時間を、息苦しく思うようになったのは。
ヤスくんが私を、モノのように見るようになったのは。
――停滞期なんじゃないの?
そう、友人に言われたことを思い出す。
肌に絡みつくようなこの停滞が、ただのマンネリといえるものなのかどうか。
それすら、もうよく分からない。
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