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.第2章 ゆめ・うつつ

34 覚悟

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 橘くんが落ち着いた頃合いを見計らって、座卓まで招いた。
 あたたかい紅茶を入れて差し出す。
 疲れた顔をした橘くんは、頬に涙を張り付けたまま、それでも、いつも通り正座していた。
 落ちた肩が、落胆を物語っている。
 立ち上る湯気を眺めながら、橘くんはぽつりぽつりと話し始めた。

「鎌倉の……老人ホームに、いた祖母なんだけど」

 橘くんはいつも通り、細切れの言葉を紡いでいく。

「……もう90も過ぎて……年明けくらいに体調崩して、病院にいたんだ」

 話の邪魔をしないよう、私は静かに相づちを打った。

「一昨日……雪がすごい日、あったでしょ……午後になって……危篤だって連絡があって……」

 橘くんの声の震えが、大きくなる。嗚咽に変わる。震える手で口元を押さえて、橘くんは続けた。

「他の孫は全員駆けつけたのに……俺……俺だけ、仕事中で……」

 橘くんは嗚咽を唾と一緒に飲み込んだ。ごきゅ、と空気を飲んだ音がする。落ち着こうとしているのだろう、息を吸って、吐き出した。震える両手が座卓の上で重ねられる。
 自分の親指を落ち着きなくさすりながら、橘くんは震える唇を舐めた。

「消防士……なるって決めて……覚悟、してた筈なのに……家族の死に目に会えないことだって……弟にも、言われてた……『それでもいいのか』って……」

 声の震えが大きくなってきたので、橘くんはもう一度息を吸って、吐いた。

「あいつ……俺よりしっかりしててね……ばあちゃん入院してから、職場にそのこと、言ってたらしくて……ちょっと食欲がないってくらいでも……歳が歳だから、何があるか分からないって……そんで、職場、都内なのに、孫の中でも一番に駆けつけたって……」

 橘くんの頬を、また涙が伝い落ちる。顎から滴ったそれが、彼の胸元を濡らした。

「俺、……職場にも何も、言ってなくて……駆けつけたの、死んだ後で……俺を見た弟が、『これでよかったんだな』って……」

 ぐ、とまた、橘くんの喉が鳴る。うつむいた顔から、ぱたぱたと、膝に、組まれた手に、涙が落ちた。

「……だから……葬式で……泣けなかったんだ」

 ボロボロと涙がこぼれる。

「ばあちゃんの前で……みんなのいるところで、泣けなかった」

 橘くんは唾を飲み込み、手で顔を覆った。

「だって、泣いたら、きっとまた、言われるから……『消防士は向いてない』って……親戚みんな、そう思ってるから……みんな泣いてても、俺は、俺だけは……みんなの前では……」

 いてもたってもいられずに、私は橘くんの方へにじり寄った。
 頭を抱き寄せて頬を寄せる。

「がんばったね」

 柔らかい質の短髪を撫でる。
 橘くんは、ますます嗚咽した。

「きっと、おばあさんも分かってくれてるよ」

 う、と橘くんが呻く。耐えかねたように私の背中に手を回して、子どものようにぎゅうと抱きついてきた。
 それを受け止める私の目にも、涙が浮かぶ。

「……優しいね、橘くんは」

 閉じた目に、少年だった橘くんの気弱そうな笑顔が浮かぶ。
 いつでも、誰かがしいたげられているのを見れば、我がことのように傷ついていた少年。

「昔と変わらず――優しい」

 再会したとき、その優しさに救われた。
 そして同時に……

「ずっと、心配してた」

 周りで起こる様々なことに、彼の心は傷つくのだろう。私のように鈍感になることも、諦めることもできずに。
 少年のときと変わらず、小さなことにも傷つき、戸惑い、苦しんでいくんだろう。
 だからこそ、彼の不器用さが、いとおしくて、気がかりだった。

「会いに来てくれて……ありがとう」

 橘くんはしゃくり上げながら、涙に濡れた顔を上げた。
 腕の中から私を見上げる彼の目は、相変わらずきれいだ。
 小学生の頃と変わらず。
 ――どうして、ヤスくんとの対話を、先延ばしになんてしてしまったんだろう。
 頭の片隅で、呪いのような後悔がよぎった。
 じわりと浮かんだ涙に、橘くんの顔が歪む。
 私はどうにか微笑んだ。涙が溢れて頬を伝う。橘くんの頬を撫で、額に、そっと唇を寄せる。
 いつかの夜、こっそりとそうしたように。

「……どうして、立花さんが泣くの」

 ぽつり、と橘くんが尋ねた。

「なんでかな」

 私はその頭を撫でながら、静かに答える。
 それが後悔の涙だと、彼に説明する気はなかった。
 橘くんは黙って私の手に撫でられた後、ゆっくりと私から手を離した。

「……ごめん」

 家に入ってきたときと同じことを、橘くんは言う。

「もう……立花さんに、迷惑かけちゃ駄目だって、思ってたのに……」

 うつむきがちな言葉に、私は笑った。

「迷惑じゃないよ」

 橘くんの目が揺らいで、私を捉える。

「全然、迷惑じゃない」

 私は微笑んで、橘くんの両頬を、もう一度拭った。

 この言葉が本心だと、どうか伝わりますように。

 ただそれだけを祈りながら、彼の目を見つめる。
 橘くんはまっすぐに私を見つめた。
 彼の目は、いつでもまっすぐに、私を見ている。――今までだって。
 そのことに、私は気づいていたはずなのに――信じられずにいた。

「言ったでしょ。私でよければ、いつでも話聞くから」

 橘くんは安心したように微笑んだ。

「……ありがとう」

 丁寧なお礼の言葉。
 響きのいい柔らかい声。
 私はうん、と短く答えて、微笑んだ。
 橘くんは、また少し、私の腕の中で泣いた。私は黙って、その震えを受け止めた。
 その温もりを、一生忘れずにいようと、静かに誓いながら。

 ***

 落ち着いた橘くんは、ほとんど私の顔を見ないまま、うつむきがちに玄関へと向かった。

「彼にも、謝っておいて……ほんと、何度もごめんね」

 泣いたせいか、それとも違う理由か、横から見える耳も首筋も赤い。
 消え入りそうなほどか細い声に、私は微笑んだまま首を振る。

「気にしないで。私も橘くんと話したかったから」

 橘くんの頬に、まつげが陰を作っている。ちらりと目を上げて私を見ると、「おやすみ」と赤い目を細めた。
 その微笑みを見るや、一気によみがえった。
 一緒に過ごした二ヶ月。その後、会わずに過ごした二ヶ月。
 ――そしてまた、これで終わりになるんだろう。
 切ない気持ちを押し隠して、「うん、おやすみ」と応じた。
 できるだけ、優しく。
 彼の記憶に、少しでも私のぬくもりが残るように。

 玄関を出て行った橘くんの背中が、遠ざかって暗闇に溶け込んでいく。
 それを見送りきる前に、私はドアを閉めた。
 ともすれば、去って行くその背中に、手を伸ばしてしまいそうで。
 ――けれど、今の私にはまだ、その背を追いかける資格がない。

 ほんと……馬鹿だなぁ。

 自嘲に歪んだ笑みが浮かぶ。
 嫌なことを、先延ばしにして。
 結果、幸福になるチャンスを、すべて取りこぼしている。
 ――神様も、さぞ呆れているに違いない。

 ひとりきりに戻った部屋で、デスクの上のスマホを見下ろした。
 でも、もう、こんなのは、充分だ。
 タップしたのは、ヤスくんの名前。
 吸う息に、もう迷いはない。

「さっきはごめんね。……今週の土曜、会いに行ってもいいかな?」
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