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.第3章 新しい日常

45 おやすみ

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 触れるだけのキスの後、橘くんは少し会話をすると、「帰るね」と立ち上がった。

「遅くにごめん。ゆっくり休んでね」

 帰りが遅かった上、明日も仕事がある私を気遣ってくれたのだ。
 本音は、もっと一緒にいたかった。けれど、泊まって行って、なんて言うに言えない。離れがたくて玄関先まで見送ったら、橘くんは「そんな顔しないで」と笑った。

「最初から、顔だけ見たら帰るつもりだったんだ。ごめんね、本当に鍵、勝手に開けちゃって。しかも寝ちゃって」

 そう言って、はい、と差し出されたのは私の家の鍵だった。
 私は鍵と橘くんの顔を見比べると、そのまま手を押して突き返した。

「持ってて」
「え、でも」
「いいから、持ってて」

 日頃は忙しくて、寝に帰るだけの家だ。橘くんの気配が増えれば、もっと大切な場所になるかもしれない。
 なにより、橘くんとの繋がりを、少しでも多く持っていたかった。
 橘くんは少し思案した後、「わかった」と鍵を財布にしまい込んだ。
 その代わりに、スマホを取り出して私の顔をうかがう。

「じゃあ、約束通り……いいかな?」

 うなずいて、私もスマホを手にした。
 互いの端末に相手の名前が表示されたとき、ほっと息をついたのはほぼ同時だった。
 思わず、顔を見合わせて笑う。

「なんで橘くんがほっとしてるの?」
「立花さんこそ」
「だって、私はずっと連絡先教えてって言ってたじゃない」
「いや、そうだけど……」

 橘くんは言葉を止めて、後ろ頭に手をやった。視線を泳がせて頬を染める姿は、今まで被災地で救助にあたっていた消防士とは思えない。

「だって……毎週毎週、約束もせずにお邪魔してさ……ストーカーっぽいって自覚はあったから……誰にも相談もできないし……立花さん、いっつもにこにこ迎えてくれるんだもん、このままでいいのかなって、思いつつも甘えちゃって……。いつ、『もう来ないで』って言われるかと思うと……怖くて連絡先、交換できなくて……ほんとは『気持ち悪い』って思われてるんじゃないかって……」

 段々小さくなる言葉は、ちょっと涙声にすら聞こえた。

「弟ならうまいことやるんだろうけど……俺、そういう経験ないし、女子の気持ちとかよく分かんないし……立花さんに拒否られたら俺、立ち直れないなって……」

 その表情と言葉が、あまりに橘くんらしすぎて笑ってしまう。
 笑った理由を問うように、橘くんが私を見やった。
 手を伸ばして彼の手を握った。

「そういう不器用なところが、橘くんのいいところだよ」

 橘くんがまばたきする。

 うん? これじゃ伝わらないかな。

 思い直して、言葉を探した。

「えっと……それで器用だったら、近寄りがたいっていうか。ほら、橘くんて何でもできるし、かっこいいし優しいし、完璧すぎるから……」

 褒めすぎだろうか。けど、本当のことだし。

 私の言葉に、けれど橘くんは、複雑そうな顔をした。

「別に俺、完璧じゃないよ……弟の方が全然、できる奴だし」

 自信なさげに唇を尖らせる。
 それが彼の本心なのだろう。
 彼の弟は公立中学に進学したから、中学でも後輩として見かけていた。どちらも体育館を使う部活だったから、互いに顔と名前は認識していたけれど、確かに兄の橘くんよりも社交的で、人好きのする気質だった。
 一歳差で、優秀で、自分と違うものを持っている弟。同性で年齢も近いからこそ、後ろから追い立てられるような、恐怖に近い劣等感があるのかもしれない。
 けど、私からしてみたら、それはそれ、これはこれだ。

「どっちでもいいよ。私は弟くんには興味ないから」

 あっさり言うと、橘くんは驚いたように顔を上げた。あまりに勢いがよかったので、思わず笑ってしまった。

「橘くんの弟としての興味しかないよ。だいたい、私は昔から――」

 さらっと言葉を口にしかけて、それがひどく恥ずかしいことに気づいた。言うのをやめようかと思ったけれど、その先を待つ橘くんの目が、それを許してくれない。諦めて、もごもごと口にする。

「む、昔から……橘くんが……好き……だったから……」

 橘くんは私をじっと見ていたけど、数秒してから噴き出した。

「な、何?」
「ううん」

 笑んだままの弓なりの瞳が、柔らかく私を見下ろす。

「もしかして、俺、立花さんの初恋だったりとか……するのかなって」

 先ほどの気弱さとうって変わって、余裕ありげに首を傾げた。きれいなアーモンド型の目が、きらきらしながら私を見つめている。

「そ、それは……」

 口ごもって、目を逸らした。

「な……内緒」
「え、なんで」
「ぜ、全部ネタばらししたら、楽しみがなくなるでしょ」
「そういうもんかなぁ」

 橘くんはすっかりご機嫌になったらしい。

「じゃあ、そのうち聞かせてね。……立花さんが俺のこと、今までどう思ってたのか」

 心底楽しげな声音で言い、身体を屈めたかと思えば、私の頬に触れるぬくもり。
 驚いて顔を上げると、甘い微笑みが離れて行く。

「おやすみ」

 囁くような声音に息が詰まる。こくこくうなずいて返したけれど、とっさに返事ができなかった。
 橘くんは靴を履いて、紐もちゃんと結んで、玄関を出て行く。

「戸締まりしっかりね。それじゃあ、また」
「うん……」

 見送ろうかと靴に足を伸ばしたけれど、「先に施錠して」と言われてうなずいた。パタンと閉じたドアに鍵をかける。施錠音を確認したらしい橘くんの足音が遠ざかって行く。
 トントントン……リズミカルな足音が外階段を降りていく。私はドアに額を寄せてそれを聞きながら、キスされた頬を押さえた。
 橘くんに留学経験があるなんて話は、今まで聞いたことがない。
 それでも、さらっとああいうことするのは――天然タラシの予感がする。
 熱っぽい頬を両手で挟んで、にやける顔を無理矢理引き締めようとしたけど、全然効果はなかった。
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