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.第3章 新しい日常

58 一休み

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 作業を終え、何度も頭を下げる家主たちに別れを告げて、三人で車に乗り込んだ。
 走り出した車の中は、一仕事終えた後のなんとも言えない空気が漂う。
 運転席には橘くん、助手席には健人くんが座っていた。
 いつもならすぐに話し始める健人くんも、物思いに更けるように窓を開け、髪を風に任せて黙っている。

「――一朝一夕に元通りになんてならないよな」

 不意に呟いたのは健人くんだった。橘くんは横目で弟を見て、「そうだな」と答える。
 私も窓の外を見やった。

「少しずつ……だね」

 街が元に戻っても、人の心はそうすぐには戻らない。気丈に振る舞いながら、失われた過去に想いを馳せずにはいられない。そんな人たちの様子は、痛ましくもあったし、共感もした。
 被災地の復興には、生活できる環境を整えることだけじゃなくて、心のケアも重要――
 これまた耳にしたことはあったことだけど、実際に目にすると感じ方は違った。
 それぞれがそれぞれの三日間を思い返して、車内は自然と静まり返っていた。

 一時間もしないうち、車は市街地のホテルに入った。
 当然と言えば当然のことながら、ホテルは二部屋押さえてあった。兄弟二人は同室、私だけが別室だ。

「響子さん、何なら変わりますけど」
「馬鹿なこと言うな、行くぞ」

 笑う健人くんを、橘くんがいらだたしげに小突いて連れて行く。

 ――私は、橘くんと同室でもいいんだけど。

 思いはしたけど、さすがに口にはしなかった。
 二人の部屋とは階が違った。エレベーターを降りる前、「ひと息ついたら外にご飯を食べに行こう」と言われてうなずく。
 三十分後、ロビーで落ち合うことにして、部屋に入る。荷物を置くと、真っ先にバストイレのドアを開けた。肌に埃っぽさを感じていたから、早く洗い流したかった。
 お湯を張る時間はないから、シャワーだけ。それでも、一日ぶりのまともな入浴だ。汗を洗い流せるのは気持ちがよかった。
 頭の上からざーっとお湯をかけてから、ふと気づいた。マスク越しに感じていた埃っぽさは、ヘドロの匂いだったのかもしれない。鼻が慣れてしまっていたから気づかなかったけれど、きちんと流しておこうと、改めて丁寧に洗った。
 一通り洗い終えると、頭にタオルを巻いたまま、バスルームから出る。時間を確認すると、待ち合わせの時間まであと十五分。

 髪を乾かさなきゃ――

 思ったけれど、目についたベッドに、つい引き寄せられた。
 少しだけ身体を伸ばそうと、その上に横になる。
 少しだけ――少しだけ――そう何度も自分に言い聞かせているうち、気づけばまどろみに飲まれていた。

 深い眠りだったのだろう。内線の音に起こされて、手を伸ばした。

『響子ちゃん? 大丈夫?』
「たちばな……くん……」

 ぼんやりした目で時計を確認してから、えっと驚きの声を出した。
 知らないうちに、二時間も過ぎている。

 あちゃ……。

 思わず額を押さえた。

「ごめん……すっかり寝入ってた」
『いや、大丈夫。そうじゃないかなと思ったから、お弁当買って来たよ』

 優しい声に、うんと答える。
 本当は外で一緒に食べたかったけど、身体がだるくて気力が湧かない。おとなしくうなずいた。

「ありがとう……助かる」
『うん。今から持って行くね』

 それから五分としないうちに、ノックが聞こえてドアを開けた。
 そこには、弁当とお茶のボトルを手にした橘くんが立っている。
 健人くんを探したけれど、いなかった。気を利かせてくれたのだろうか。

「中、いい?」
「うん。ありがと」

 部屋の中に招き入れると、並んでベッドに腰掛けた。
 ふと満ちる、柔らかな沈黙。
 橘くんがベッドに手をついた――と思うや、私の顔を覗き込んでくる。

「やっぱり、無理させちゃったかな……大丈夫?」
「うん……大丈夫」

 優しく、労るように、大きな手が私の頭を撫でる。
 私は目を閉じて、その心地よさに甘んじる。

 ……橘くんがいる。
 こんなに近くに、橘くんがいる。

 寝起きだからか、余計にその温もりが恋しかった。
 それでも……こんなところで甘えるのは、橘くん的には、どうなんだろう。

 そんなためらいは、無駄な気遣いだったとすぐに分かった。
 伸びて来た橘くんの手に引き寄せられて、腕の中にすっぽりと抱きしめられる。

 じわりと胸に喜びがこみ上げた。
 彼も私の温もりを求めてくれている――
 優しい腕の中で、私は息を吸った。

「大丈夫……だけど」

 穏やかなぬくもりに包まれて、じわじわと、心身の何かが満たされていく。
 その優しさに甘えて、素直に胸に頬を寄せた。

「ちょっと、疲れた……かな」
「……そっか」

 橘くんは、私の頭をゆっくりと撫でた。
 その手に身を任せて、静かに目を閉じた。
 互いの呼吸の音と、押し立てた胸から聞こえる鼓動のリズム。
 その心地よさに、どっぷりと浸る。

「……響子ちゃん」
「うん?」
「に、いて欲しい……これからも」

 言葉足らずな橘くんの意図を探るように、もそもそと顔を上げた。
 そこには、困ったような、恥ずかしそうな、でも切実な顔がある。
 目を見上げているうちに、両頬を大きな手で包まれた。
 温かい手。ごつごつした指。
 無意識に、その手に自分の手を重ねた。

「今まで……ちゃんと……言わなかったけど……」

 とくん、とくん。
 聞こえるのは、橘くんの心音? それとも、私の?

「結婚を……前提に……おつき合いして欲しくて……」

 自信なさげにかすれる声。私を見つめる泣きそうな目。
 私の頬に触れている彼の手が、小さく震えている。
 なんだか、不思議だ。こんなに、大きな身体をしてるのに。現場では、あんなにてきぱきと動くのに。
 二人きりになると、まるで子犬みたいな目で、私を見つめる。
 こみ上げた愛おしさに、頬はにじむように緩んだ。
 息を吸いながら、自分の中に言葉を探す。
 答えなんて、決まっている。けれどそれを、どんな言葉で伝えれば伝わるだろう――
 息を吸った私の口から、わずかに吐息が洩れたとき、無機質な電子音が部屋に響いた。

「……電話だよ」
「分かってる……」

 がっくり肩を落とした橘くんが、しゃがみこむようにしながらスマホを取り出した。その画面を見て、チッと舌打ちしたのが聞こえる。それだけで、誰からなのか察しがついた。

「……なに、健人」

 ものすごく不機嫌そうな声は、地を這うような低音だ。

『あー、兄さん? あのさー、そういや大学の友達、この辺にいたなーと思って連絡したら、今日会えるって言うからさー、俺ちょっとそいつんとこ泊まってくるー。車、使うね』
「はぁ? お前、いったい何――」
『いや、だってなかなか会えないしさ、いい機会じゃん? あ、大丈夫大丈夫、飲酒運転しないから。明日、何時頃戻って来りゃいいか後で連絡くれる? んじゃねー』
「おい、健人!」

 通話は一方的に切れたらしい。橘くんは「はあぁああああ……」と腹の底から息を吐き出して、「ほんっとにあいつは……」と呟いた。
 どれも、他人には絶対見せない橘くんの表情だ。
 私は思わず、笑ってしまう。

「気、使ってくれたんじゃないの?」
「え?」
「私たちがゆっくりできるようにって」

 しゃがみこんだままの橘くんが、私を見上げてまばたきした。
 かと思えば、その頬はみるみるうちに赤く染まっていく。

「そんなことに――気、回すようなやつじゃ――」

 言おうとしたけれど、何か思い当たる節があったらしい。言葉を止めて、顔を逸らして黙り込む。
 私はためらってから、彼の腕に手を伸ばした。

「正直、ちょっと思ってた……三日間、ずっと一緒にいたのに、なんか物足りないなって。……橘くんは?」

 目を覗き込んでみれば、橘くんの目が泳ぐ。「いや、それは、その」ともごもご言う口を両側から手で挟んで、とがったそこに軽く口づける。

「……でも、一回だけね。明日も運転あるし」

 私が言うと、橘くんは照れ臭そうに笑った。

「俺は、別に大丈夫だよ。響子ちゃんが寝たままでも、担いで行けるもの」

 言うその手は、もう脇腹を怪しくまさぐりはじめている。私はくすぐったさに笑って、「駄目、一回だけ」と近づいてきた顔にまた口づけたけれど――
 結局、ほだされて二回目を許してしまったのは、人肌恋しさのせい、ということにしておきたい。
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